この男は、周囲を驚かすのが好きなのかもしれない。

 日本サッカー界のスーパーレジェンド、元日本代表FWのゴンこと中山雅史が、今季から古巣のJ2磐田でトップチームのコーチに就任した。シーズン始動を直後に控えた1月半ばの、突然の発表だった。

 テレビのサッカー解説などでもお馴染みの中山だが、J3の沼津に所属し、自宅のある東京から静岡県沼津市でのチーム練習にも参加する現役のJリーガーでもあった。50歳を過ぎても選手契約を更新する姿は、これまでも周囲を驚かせてきたが、突然のコーチ就任も衝撃だった。

コーチ就任も「引退するわけではない」

 中山は静岡の名門藤枝東高から筑波大に進み、卒業後の1990年に日本リーグ(JSL)1部のヤマハ発動機(現ジュビロ磐田)に入社した。今回のコーチ就任は、サッカー国内トップリーグでのスタートから30年を経て、ついに現役に区切りをつけるのかとも思われたが、そこには中山流の注釈が用意されていた。

「いろいろと経験させてもらったし、喜怒哀楽を表現させてもらった30年だったけど、選手を引退するわけではない。周囲の皆さんがその2文字を使うのは構わないけど、自分としては『ひとまず休みにしてコーチをやってくる』ということ」

 コーチ就任を発表した日、レギュラー出演するテレビのニュース番組に生出演した中山は、こんなコメントを残した。そして番組内で改めて「引退ではないのか?」と問われると、さらにこう続けた。

「別の目線で(外から自分を)見たら、自分だってそう思うと思う。だけど、そこに抗(あらが)いたい。受け入れたくはない。もちろん、これからはコーチとして全力を投じるが、(現役選手として)まだ何かあるかもしれないと思っている。女々しいんですよ(笑)」

 引退するわけではないことを改めて強調した中山が古巣に戻るのは、2009年にチームを離れて以来12年ぶりのことである。

2007年当時の中山雅史 ©Kondo Toshiya

ドーハの悲劇からジュビロ黄金時代へ

 レジェンドのコーチ就任を聞き、長年取材をしてきたベテラン記者は「何をやっても派手だね。それはスター性がある証拠だと思う。とにかく記憶に残っていることが多過ぎる」とつぶやいたが、その全盛期は日本サッカー界の中心で輝きを放っていた。

 日本中が中山を知ることになったのは、1993年10月の“ドーハの悲劇”で幕を閉じたアメリカW杯のアジア最終予選だろう。

 最終戦のイラク戦でまさかの同点弾を浴びた瞬間、先発出場で勝ち越し弾まで決めてベンチに退いていた中山はグラウンドに崩れ落ち、しばらく立ち上がることができない姿がテレビ中継で大写しされたのだ。

 悲劇に終わった日本代表だが、その中心選手だったゴン中山人気は頂点に達し、帰国すると地元磐田市にある練習場周辺の道路が大渋滞を起こすほどだった。Jリーグの初期メンバーとなった10クラブ、いわゆる「オリジナル10」を逃した磐田が1994年に1年遅れでリーグに参戦すると、人気はさらに勢いを増した。

アメリカW杯のアジア最終予選。2-1でリードしていたが、ロスタイムにイラクの同点ゴールが入り、試合が終了。日本はW杯初出場を逃した ©Naoya Sanuki

 なぜなら、中山も磐田もそれ相応の実力を兼ね備えていたからだ。

 ピッチに立てば負けん気十分なガムシャラプレーを見せ、間に合わないと思うようなボールでも、ラインぎりぎりまで必死の形相で追いかける。時にはしつこいプレーで相手GKからボールを奪い、そのまま決勝弾を決めた試合もあった。

 後に日本代表の常連となる後輩の藤田俊哉や名波浩、福西崇史、服部年宏らのお膳立てもあり、ストライカー中山はゴールを量産していく。試合後のお立ち台では恒例ともなった「俺がジュビロの中山だ!」の雄叫びもあり、お茶目な側面がまた人気に拍車をかけた。

 そして、1997年には初のリーグ年間王者になり、いよいよ磐田の黄金期が幕を開ける。

 圧巻だったのは、自身の活躍もあって出場を勝ち取ったフランスW杯開催の1998年。W杯開催前の4月には、当時のギネス記録だった4試合連続ハットトリックを達成。W杯初出場の日本代表は3戦全敗だったが、ジャマイカ戦では日本人の大会初ゴールも記録した。そしてこの年のリーグ戦は27試合に出場し36ゴールを決め、現在も残るシーズン最多記録で得点王とMVPに輝いた。

1988年フランスW杯のジャマイカ戦で ©JMPA

意外すぎる、プレースタイルの“起源”

「結果を出した自分に驚いたし、中には成長を感じるようなプレーもあったけど、結果はたまたまかもしれない。無意識のうちに身に付いた技術があったかもしれないが、成長を客観的に理解できるまでには至らなかった」

 以前控えめに振り返っていた中山だが、当時司令塔としてチャンスを演出していた名波は、ガムシャラな先輩のプレーを認めていた。ある試合で絶好の機会を演出したものの、中山がゴールを逃した試合後もこう賛辞を贈った。

「今日は(演出した)ボールがきれい過ぎたね。中山さんには、ちょっと(タイミングが)ズレたくらいのボールがちょうどいいから(笑)。だけど、こっちがミスしたようなパスでもゴールを決める選手は中山さんくらいしかいない。そこが凄いし、天性だと思う」

 天才レフティーにそこまで言わせたプレースタイルは、子供の頃から変わらないと自身は言う。ならば、いったいどこがその起源なのだろうか。失礼ながら、ボールを追いかける場面はときに滑稽にも見えるプレースタイルだが、以前にその質問をぶつけたことがあった。

「負けず嫌いだったことは確か。それがプレースタイルにつながったとしたら、2人の姉とのケンカかな。2人に負けないためには、強くならないといけなかった。思いつくのはそれくらい」

 その負けず嫌いから生まれたプレースタイルで、3度のJ1王者に貢献し、歴代3位タイのJ1通算157得点を達成した。W杯にも2大会招集されるなど、現役時代に数々の記録を残したレジェンド中のレジェンドが、今度は指導者として一歩を踏み出したのだ。

ああああ

レジェンドOBのコーチ就任に選手たちは……

 1月18日、磐田の始動日となったこの日、中山は指導者デビューを飾った。

 20人以上の地元メディアが注目するグラウンドに姿を現した中山は、当初は後輩選手たちの練習を静かに見守っていたが、30分ほど過ぎて体幹トレーニングに入ると、徐々に距離を詰めコミュニケーションを取り始めた。そして練習の合間に「いいね、いいね」「素晴らしいよ」と新コーチのやや高いトーンの声が聞こえ始めると、新加入の選手も加わって手探りの状況にも見えた練習場は一気に和やかなムードへと変わっていった。

 中山の現役時代を知る主将のDF大井健太郎は、「声をかけてもらって嬉しかったし、ゴンさんがチームの雰囲気を軽くしてくれるはず」と期待を口にすれば、MF山田大記も「自分がドイツでプレーしていた時に、ゴンさんが自分の経験からありがたいアドバイスをくれて気が楽になったことがあった。人柄もあり、1つひとつの言葉に重みを感じる。いろいろ勉強させてほしい」とレジェンドOBのコーチ就任を快く迎え入れた。

「J2優勝での昇格」に向けて“託された任務”

 今季の磐田の最大ミッションはJ1復帰だが、「J2優勝での昇格」を明確な目標に掲げる。昨年は序盤から徐々に首位争いから遠ざかり、第36節で昇格の可能性が消滅した。波に乗れなかった要因の1つは、得点力不足だと口を揃える。チーム得点数58はリーグ6位だが、引き分けが15試合と1点差での敗戦が6試合で、あと1点あれば状況は大きく好転した試合が多かった。

「ゴンに期待しているのは、メンタル面の強化と得点力の向上だ」という鈴木政一監督は、豊富な経験を指導に生かしてくれることを期待している。それはクラブがチーム作りの方向性として明言している『クリエイティブでアグレッシブな攻撃サッカー』にもつながってくるからだ。

 今回の中山のコーチ就任について、あるTV解説者はその効果をこう断言する。

「昨年の試合を見ても、磐田はシュートが少なく、相手を圧倒するほどの勢いも感じられない。もっとその部分を向上させないと、J2を勝ち上がることは難しい。勝つためには、まずチームに元気すぎるくらいのムードが欲しい。そのお手本が中山さんだと思う。新コーチを見習って変身する選手が一人でも出て来れば、チームは大きく変わるはず。それは日本代表でも同じだと思う。そういう意味でも、日本サッカー界のコーチ中山への視線は熱いものがある」。

アスルクラロ沼津に所属していた.中山雅史 ©J.LEAGUE

 サッカースタイルや記録達成など、常に周囲を驚かせてきた中山。選手から指導者となった今、次はいったいどう周囲を驚かせてくれるのか。すでにJクラブや日本代表の指揮官の条件となるS級ライセンスは取得済みだ。となると、やはり監督への道を進むのか、それとも改めてプレーヤーへと復帰するのか。ゴン中山の動向に目が離せない。

文=望月文夫

photograph by KYODO