いまから25年前の95年に日本に画期的なシステムが誕生した。「鈴鹿サーキットレーシングスクールフォーミュラ(SRS-Formula)」だ。運営しているのは鈴鹿サーキットを所有するモビリティランドだが、それを全面的にバックアップしているのはホンダだ。

 80年代後半から90年代前半にかけて、マクラーレンと組んだホンダがF1の世界では大活躍していたが、日本人ドライバーで世界のフォーミュラレースで頂点を極めた者はいなかった。SRS-Formulaは、92年に開校した「鈴鹿サーキットレーシングスクールジュニア(SRS-J)」、93年に開設された次世代のドライバー育成機関「鈴鹿サーキットレーシングスクールカート(SRS-Kart)」に次いで設けられた日本で唯一ともいえる本格的フォーミュラ・ドライバー育成を目的としたレーシングスクールだった。

97年にSRS-Formulaの門をくぐった佐藤琢磨

 2年後の97年に、このSRS-Formulaの門をくぐったのが、佐藤琢磨だった。

「10歳で生まれて初めてF1をサーキットで見た87年の鈴鹿で行われた日本GPのことは、いまでも鮮明に覚えています。あの瞬間にモータースポーツに魅せられて、そこから10年間、本当にやりたいという思いを持ち続けて、ようやくSRS-Formulaに入ることができた」

 首席で卒業した琢磨はその後、イギリスF3選手権に挑戦。01年に日本人として初めて同選手権を制し、02年にジョーダンからF1デビューした。

 20歳で本格的にモータースポーツ活動を始め、25歳でF1のシートを手に入れた琢磨が心に刻んでいた言葉がある。

「No Attack, No Chance!!」

 挑戦しなければ、チャンスはない。しかしそれは諸刃の剣にもなった。

「20代はもちろん、30代のときも“ギャー”とか“アアーッ”というレースが多かったですね」と琢磨が振り返るように、01年から08年までのF1時代も、10年以降のインディ時代も、琢磨は数多くのチャレンジを行い、失敗も味わった。その顕著な例が12年のインディ500だった。2番手に上がって迎えたファイナルラップで、琢磨は果敢にオーバーテイクを仕掛けたがスピン。当時日本人最高位となる2位を逃し、17位に終わった。

「自分はまだまだ進化していると感じています」

 しかし、これらの挑戦と挫折が琢磨を成長させた。17年のインディ500で日本人として初優勝した琢磨は、3年後の20年のインディ500でも優勝するという金字塔を打ち立てた。

「そのひとつひとつ(の失敗)に決して無駄はなかったと思っています。35歳のとき、僕はインディ500のファイナルラップの1コーナーで白線を踏んでスピンしました。もちろんプロのレーシングドライバーとして2位でしっかりチェッカーフラッグを受けることも大切ですが、あのミスによって多くのことを学んだことも事実です。もしあのとき、2位で満足していたら、僕はそのあとも挑戦するというスタイルを行おうとしていなかったかもしれません。そうなると、17年のインディ500でも勝っていなかったかもしれないし、20年の優勝もなかったかもしれません」

 琢磨がインディで初優勝したのが40歳で、2度目は43歳だった。

「20歳でモータースポーツへの挑戦を開始し、(SRS-Formulaを首席で)卒業したときには、自分が40歳を過ぎてもレースをしているとはまったく想像もしていませんでした。確かに肉体的には20代のころとは違ってさまざまなトレーニングを行って補わなければならないことは増えましたが、コクピットに座ってステアリングを握るたびにいまでもワクワクする気持ちは変わらない。SRS時代に初めて鈴鹿を走ったあのときのことを思い出します。そして、コクピットを降りるときに、いまでも“今日もいろいろと勉強になった”と思うんです。そういう意味では、自分はまだまだ進化していると感じています。それが感じられなくなったときが、自分がステアリングを置くときだと思っています」

自分が挑戦している姿をリアルタイムに感じてもらう

 現役選手であると同時に、琢磨は若手を育成する立場にもなった。19年、自らを育てたSRSのフォーミュラ部門とカート部門の新校長に就任した。

「SRSの校長を(前任の)中嶋(悟/日本初のフルタイムF1ドライバー)さんから引き継いだとき、若い世代の生徒たちに自分に何ができるだろうかと考えました。SRSは僕がひとりで教えているわけではなく、中野信治(副校長/97〜98年F1ドライバー)や多くの強力な講師陣がいるので、授業など実際に教える内容は彼らに任せています。そのうえで、僕にできることはいま自分が挑戦している姿をリアルタイムに感じてもらうこと」(琢磨)

「失敗を恐れるよりも、何もしないことを恐れろ」

 そのSRSの卒業生から、今年琢磨に続いて2人目のF1ドライバーが誕生する。角田裕毅だ。

「角田選手のことは、アメリカとヨーロッパで離れていますが当然毎回応援していましたし、F2のレースも見ていました。ホンダの次世代を代表するドライバーとして、素晴らしい選手だと思っています。角田選手とは個人的に連絡を取る術はありますから、おそらく色々なことを聞いてくると思います。自分には失敗の経験談がたくさんあるので、そのとき自分と同じ失敗はしないように……と伝えたいと思います」(琢磨)

 21年はホンダにとってF1に参戦する最後のシーズンとなる。しかしホンダが日本のモータースポーツ活動の発展のために行ってきたのは、クルマやエンジンを製造してレースに参加することだけではない。サーキットを建設して、日本にモータースポーツを根付かせ、そこで走るドライバーたちも育成してきた。

 ホンダの創業者である本田宗一郎は、かつてこう言っていた。

「チャレンジして失敗を恐れるよりも、何もしないことを恐れろ」

 この言葉はホンダのスタッフたちに語り継がれ、SRSの卒業生たちの胸にも大切にしまわれている。今年44歳を迎える琢磨はいまも挑戦している。F1最終年となるホンダのスタッフにも、今年20歳でF1にデビューする角田にも、失敗を恐れずチャレンジしてもらいたい。

文=尾張正博

photograph by Getty Images