1977年1月22日は、日本サッカー界にとって特別な一日と言っていい。日本代表がアジアで苦戦を強いられ、Jリーグ開幕など想像もつかなかったその日は、のちに日本サッカーのプレゼンスを高めていくプレーヤーの誕生日だからである。

 中田英寿だ。

 彼のキャリアを振り返れば、それこそ超大作が出来上がる。触れるべき大会や試合、あるいはトピックスは数多いが、「対アジア」と「対世界」の観点から2つの試合を取り上げたい。

黄金世代のU-22代表として

「対アジア」では、99年9月7日のU-22韓国代表戦をあげたい。シドニー五輪アジア最終予選の壮行試合として、フィリップ・トルシエ率いるU-22日本代表が韓国をホームに迎えた一戦である。

 中田と同学年の宮本恒靖がキャプテンの腕章を巻くチームには、プロ3年目で横浜F・マリノスの背番号10を背負う中村俊輔、99年春のワールドユース選手権で準優勝した稲本潤一、遠藤保仁、中田浩二らの黄金世代が顔を揃えていた。柳沢敦、小野伸二、高原直泰らは招集されていないが、数カ月後には日本代表でもプレーする選手がズラリと並んでいる。

中田英寿と中村俊輔に駆け寄る遠藤保仁(U-22国際親善試合・韓国戦にて) ©Naoya Sanuki

 対戦相手の韓国にも、将来有望な選手を見つけることができた。

 2002年の日韓W杯で代表入りするMFキム・ナミル、FWソル・ギヒョン、98年のフランスW杯に19歳で出場したFWイ・ドングクらが先発している。日韓W杯後にヨーロッパで成功を収めるパク・チソンも、チーム最年少で左サイドバックを務めていた。

 日韓両国の未来を担うタレントが集った一戦で、98年夏からイタリア・セリエAのペルージャに在籍する中田は、ファーストプレーで格の違いを見せつける。前半開始5分、中盤からドリブルで持ち出すと、2人の守備者に挟み込まれ、身体を引っ張られながらも力強く突き進んでいった。

韓国監督も思わず「分かっていたのに……」

 当時も現在も、フィジカルは韓国の強みである。それまで日本人選手を苦しめてきた激しいコンタクトプレーを、中田はまったく苦にしなかった。子ども扱いした、と言っていいほどである。

 中田が攻撃を牽引する日本は、韓国を4対1で粉砕した。韓国から4点を奪ったのは74年の日韓定期戦以来、実に25年ぶりだった。Jリーグ開幕以降は日本が韓国を下す試合も増えているが、4得点を奪ったのも、韓国の監督に「すべての面で完敗だった」と言わせたのも、この試合だけである。敵将ホ・ジョンムはこうも話した。

「中田を抑えなければならないのは、もちろん分かっていた。そのための努力もした。しかし、彼を抑えることはできなかった」

期待されて強豪フランスと激突するも……

「対世界」で取り上げるのは、01年3月24日のフランス戦である。98年1月に完成したフランスの新たな聖地スタッド・ド・フランスで、当時のW杯王者にして欧州チャンピオンと日本が対面した。

 トルシエに率いられた日本は、00年秋のアジアカップで優勝していた。その直前にはU-23日本代表が、シドニー五輪でベスト8入りしている。

 ロジェ・ルメール監督が指揮するフランスとは、00年6月にも対戦している。ユーロ2000直前のスパーリング相手に選ばれた日本は、2対2のドローゲームを演じた。国際舞台で実績をあげてきたトルシエのチームは、フランスのホームでどこまでできるのか、との期待を抱かせていた。

 しかし、現実はシビアだった。

 開始10分にPKを献上し、ジネディーヌ・ジダンに決められて先制される。4分後、7万7000人の観衆が再び沸き上がった。ティエリ・アンリのシュートが、GK楢崎正剛のワキの下をすり抜けていった。

 ヨーロッパ各国リーグはシーズンの真っただ中だが、Jリーグは2週間前に開幕したばかりである。チームは19日に日本を発って現地でトレーニングをしていたものの、日本国内でプレーする選手たちはゲーム勘やゲーム体力を取り戻している過程にあった。

 不慣れなシステムもチームを苦しめた。代名詞の3-5-2ではなく守備重視の3-5-1-1としたことで、皮肉にもトルシエ監督が重視するオートマティズムを欠いてしまったのである。

 前半は0対2で持ちこたえたものの、後半はさらに3つのゴールを喫した。フランスがもう少しシュートを丁寧にしていたら、さらに2、3点を奪われていたかもしれない。

ジダンのフリーキック直前 ©Naoya Sanuki

日本代表に厳しい評価が向けられるなか「ただ一人」

 試合翌日の現地スポーツ紙『レキップ』は、日本の選手に「5」以下の点数をつけた。全選手の平均は「4.11」だった。及第点の目安が「6」だから、厳しい評価が下されたわけである。

 ただ1人の例外は、中田だった。

『レキップ』紙は「7」をつけた。「8.5」のジダン、「7.5」のロベール・ピレスに次いで、アンリら3選手と並ぶ高評価だった。

 00年1月にペルージャからローマへ移籍した中田は、フランスを相手に孤軍奮闘にして獅子奮迅の活躍を見せた。午前中から降り続く雨をたっぷりと含んだピッチをものともせず、フィジカル的に力強く、メンタル的には勇敢にプレーした。日本がつかんだ得点機は、すべて彼が生み出した。

このフランス戦でジダン、ピレスに次ぐ「7.5」の高評価を受けた ©Naoya Sanuki

日本が生んだ“真のワールドクラス”

 ヨーロッパでプレーした日本人選手、現在プレーしている日本人選手は、もはや数えきれないほどである。そのなかでも、中田の立ち位置は唯一無二だ。

 国際舞台で渡り合えるフィジカルを装備し、日本人選手らしい技術を併せ持っていたという意味で、中田は中村俊輔とも、小野とも、遠藤保仁とも、本田圭佑とも、香川真司、南野拓実とも違う。強さがありながらしなやかでもあり、ドリブルで局面を打開でき、左右両足をスムーズに使うことのできた中田こそは、日本が生んだ真のワールドクラスと言えるはずだ。

文=戸塚啓

photograph by Naoya Sanuki