今回は、ロッテのお話である。

 と、いきなり話が脇にそれるが、筆者は阪神ファンだからロッテ打線はとてつもなく強力だと思っている。言わずもがな2005年の日本シリーズ、33−4とかいうアレで、阪神はロッテに4連敗してしまった。そのインパクトが強すぎて、15年経った今でもロッテ打線など抑えられるはずがないと恐怖におののいている。そういうわけで、ロッテの話をするのはなかなかツラいものがある。せめてもの救いは、今回のテーマがロッテはロッテでもその前身「東京オリオンズ」と呼ばれていた時代の物語であること。安心して話を先にすすめることにしよう。

(味スタじゃない方の)東京スタジアムとは?

 今の千葉ロッテマリーンズが東京オリオンズと名乗っていたのは1964年から1968年の5年間。ホーム球場は東京スタジアムだった。東京スタジアムというと、京王線の飛田給駅の近くにあるアレか、と思う人もいるかも知れない(「味の素スタジアム」はネーミングライツによる名称で、正式には東京スタジアム)が、もちろんまったくの別モノだ。オリオンズの東京スタジアムは、東京・南千住にあった。

 東京スタジアムは大毎オリオンズ時代の1962年に開場し、1972年をもって役割を終えた。我が国の右肩上がりイケイケドンドンの高度経済成長時代にたった10年、東京の下町にあったいわば“幻の球場”だ。町工場が建ち並ぶような下町に突如現れて、カクテル光線も眩しく人呼んで「光の球場」。場所柄か、下駄を履いて観戦に訪れるお客も少なからずいたという。そんななんだか楽しげな野球場が、東京の下町のど真ん中にあった。となれば、今は一体どうなっているのか確かめに行くしかない。そういうわけで、常磐線に乗って南千住駅にやってきたのである。

いざ“消えた野球場”東京スタジアムへ

 南千住駅はJRならば常磐線、地下鉄ならば日比谷線、その他にはつくばエクスプレスも乗り入れるちょっとしたターミナルである。ただ、この3路線すべてがそのまま並んで北千住駅にも乗り入れているので、乗り換えターミナルとしては北千住のほうが優勢だ。むしろ南千住というと、近年駅の周辺の開発が急速に進んでタワーマンションが林立している街、といった印象を持っている人のほうが多いのではないだろうか。はたまた、南千住駅から南に歩いて泪橋、さらに南に行けば吉原大門というディープな世界への入り口としてのイメージも根強い。筆者は鉄道寄りの人間なので、隅田川貨物駅という貨物列車専用の駅に隣接、さらには東京メトロ日比谷線の車両基地もある場所としても認識している。

 このように、なんとなくいろんなものを詰め込んだような、ひとことでは表しにくいのが南千住駅の個性といえる。そんな南千住のどこに光の球場はあったのか。さすがに南千住駅に着いてから調べていたのではどうしようもないので事前に確認しておいた。駅から西に進んで日光街道(国道4号)を渡った少し先だ。

JR南千住駅

東京スタジアム跡地にあった“ナゾの像”の正体は?

 駅から歩いて約15分。冬の日差しの中、大通りとその隙間にひしめく昭和の薫り漂う下町の路地を縫うように進み、目的の場所にたどり着いた。まず見えてくるのは南千住警察署。そしてその横に何やら立派な建物がある。荒川総合スポーツセンターというらしい。このあたりに、間違いなくかつて東京スタジアムがあったのだ。

 だいたいこういう場合、どこかに小さな碑が置かれているものだ。だから荒川総合スポーツセンターの外周に沿ってうろついてみる。すると、何やら胸像のようなものが見えた。お、もしやこれは私財を投じて東京スタジアムを建設した永田雅一か、それともミスターロッテ有藤通世か……。と小走りで近づいたら、まったく違った。立派な像の下には「井上省三」とある。とても野球と関係ありそうには見えないこのオジサン、いったい誰なのだろうか。

 その答えは、さらに元東京スタジアム付近を歩いていると見つかった。荒川総合スポーツセンターの建物のすぐ北側には軟式野球場があって「お、ここで野球をやったら東京スタジアム気分じゃん」などと思い、荒川工業高校との間の並木道を抜けるとスーパーマーケットのライフ。その横に、レンガ造りのなんだか古めかしい壁がちょこんと建っている。そしてそれにまつわる説明書き。それによると、このあたりにはかつて千住製絨所(せんじゅせいじゅうしょ)という毛織物の官営工場があったという。明治政府初期の重鎮・大久保利通が1876年に国産羊毛を原料としたラシャ(毛織物)製造工場の設立を建議し、それに従って南千住の一角に千住製絨所が設けられた。1879年には操業を開始している。先の井上さんは、この千住製絨所の初代所長なのである。

 長州出身の井上さんはドイツに留学してラシャ製造の技術を習得、その技術をもって千住製絨所を引っ張った。が、いまひとつ軌道に乗りきらないまま、1883年に火災で焼失してしまう。井上さんを中心に復興に取り組み、1888年には陸軍管轄の工場となって、軍服などを製造する工場になったという。加えて、民間への技術指導も積極的に行い、近代以降の日本の繊維産業の発展にも大いに貢献した。つまりは我が国のアパレル産業の礎を築いたといってもいいくらいの産業遺産なのである。ところが、軍の施設だったので戦争で負けると操業停止。その後は民間事業者に払い下げられたがこちらも経営が立ち行かなくなってしまい、1960年に閉鎖されて千住製絨所は終焉を迎える。

では、なぜ南千住に東京スタジアムができたのか?

 明治初期に千住製絨所ができたころ、このあたりは特になにもないような荒れ地だったという。

 南千住という地名はなく、地名としては千住小塚原。隅田川を渡った先、今の北千住駅を中心とした地域は江戸時代から日光街道の千住宿として栄え、隅田川以南にも広がっていった。それが今の南千住の街のはじまりだ。ただし、宿場町の中心は隅田川の北側で、南側はあくまでも宿場町の外れにすぎなかった。さらにその宿場の外れから外れたあたりには罪人を処刑する小塚原刑場があったほどだ(ちなみにここで杉田玄白が腑分けをして解体新書を著し、吉田松陰や橋本左内の墓もある)。日光街道の西側、千住製絨所あたりは本当に何もなかったのだろう。

 ただ、北千住ほど発展していなかったことが結果的には良かったのか、近代以降は市街地ではなく工場の街として成長していく。さらに隅田川の水運の便にも恵まれており、1896年には常磐線隅田川貨物駅が開業。茨城県北部から福島県にかけて広がっていた常磐炭田から石炭を運び、隅田川貨物駅から船に積み替えて都心部へ。東京のエネルギーを支えた要衝だったのである。

 こうして南千住は千住製絨所やカネボウ、大日本紡績などの大規模な工場と貨物駅を中核として周囲に小さな町工場がぎっしり建ち並ぶ、典型的な“下町の工場街”になった。工場が集まればそこで働く人も集まる。彼らを当て込んだ安い酒場も増えていく。それが、今の南千住の独特な濃厚な空気感を形作っていったのだろう。

戦後間もない、1947年の南千住付近の航空写真。まだ東京スタジアムは出来ていない 1975年の航空写真 そして1992年の航空写真

 ともあれ、そうした町工場が肩を寄せ合う下町から千住製絨所というどデカイ工場が姿を消した。跡地をどう活用するか。名乗りを上げたのは、愛知県を勢力圏とする名古屋鉄道だった。広大な工場跡地を利用してテーマパーク「明治村」を建設しようとしたという。実際に名古屋鉄道は用地取得にも成功している。ところが、他にもこの地に目をつけた男がいた。ときの大毎オリオンズのオーナーにして映画会社大映を率いる稀代のカリスマ経営者・永田雅一だ。

 当時、東京にはオリオンズと読売巨人軍、国鉄スワローズの3球団がひしめいて、いずれも後楽園球場をホームとしていた。おかげで日程も思うように組めずに難儀していたのだ。なんとか自球団の専用球場を……と思っていたところで見つけた南千住の広い土地。結局、永田雅一は名鉄から千住製絨所の跡地を取得し、1961年にスタジアムを着工。1962年の開場となったのである。

なぜわずか11年で“幻の野球場”になってしまった?

 東京スタジアムに移転して3年目の1964年に大毎オリオンズは東京オリオンズと改め、まさしく東京・下町の球団となった。が、肝心の成績は振るわず、1968年にようやく3位に入るまではずっとBクラス。

 大映の経営状況も悪化しており、球団経営にも限界が見えてくる1969年にはロッテをスポンサーに迎えてチーム名をロッテ・オリオンズに改称。1970年にはリーグ優勝も飾ったが、大映の経営難はますます深刻になり永田雅一は1971年に球団経営から撤退。同年に大映は倒産してしまう。変わってスポンサーになっていたロッテが正真正銘の親会社となり、そのまま今に続いている。

 そんな激動の中で、スタジアムの経営権はロッキード事件の「記憶にございません」でもおなじみの小佐野賢治に移る。1972年のシーズンまでは、小佐野がスタジアムをロッテに貸し出す形を取っていた。ただ、赤字が膨らむだけのスタジアム経営は小佐野の本意ではなかったのだろう。ロッテにスタジアムの買収を持ちかけるも、交渉は決裂。東京スタジアムの閉場、そしてロッテが本拠地を失うことが決まってしまった。

 こうして東京・下町の光の球場はわずか11年で姿を消した。跡地は1977年になってから東京都が取得。ほったらかされていた球場も取り壊されて現在の荒川総合スポーツセンターなどに生まれ変わったのである。

 と、南千住駅西側にあった幻のスタジアムには、明治以来の波乱万丈の歴史があった。スタジアム跡地の荒川総合スポーツセンターは1984年に完成してもう40年近い。周辺も昔ながらの下町感の中にタワーマンションも入り混じり、街の雰囲気も少しずつ変わっている。タワーマンションに暮らす人たちに巨大な野球場があったことを言っても、信じてもらえないだろう。榎本喜八だなんだといってもピンとこないに違いない。

 なにしろ、明治初期からの千住製絨所と40年のスポーツセンター。東京スタジアムはその狭間にわずかに咲いた徒花だった。今のスポーツセンター時代が、この土地にとっては一番落ち着いているのかもしれない。東京スタジアム跡地、と言っても面影はまったくといっていいほど残っていない。ちなみに、荒川総合スポーツセンターでは、少年時代の北島康介が泳いでいたという。

 なお、本拠地・東京スタジアムを失ったロッテは5年もの間固定本拠地を持たない“ノマド”球団となる。ノマド時代の1974年には、毎日オリオンズ時代の1950年以来24年ぶりの日本一に輝いた。その次にロッテが日本一になるのは、そう、2005年なのである。

(写真=鼠入昌史)

文=鼠入昌史

photograph by Sankei Shimbun