16日から始まったUEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント。バルセロナ、レアルとアトレティコの両マドリー勢が覇権奪取をもくろむ一方で、バルサとレアルは現在決して順風満帆とは言えない。そんな両クラブ、そしてアトレティコの“暗黒期”について現地スペイン人記者に振り返ってもらった。第2回はアトレティコ編だ(翻訳:工藤拓)

 2000年5月7日。アトレティコは1929-30シーズン以来、史上2度目の2部降格を経験した。それから1部に復帰するまでの2年間、クラブが多くのものを失っていく中で、唯一変わらない存在があった。それは何が起きても背を向けることがなかった、ファンの支えである。

 1999-2002年にかけて、アトレティコはクラブ史上最大の危機に直面した。その衝撃は、その後10年近くに渡って後遺症を引きずり、ヨーロッパの地図から姿を消すほどに大きかった。

 21世紀初頭に生まれ、今まさに思春期を過ごしている若い世代にとっては、嘘臭く、現実離れしたSF映画のような話に聞こえるだろう。

シメオネのもとで機能美を身につけたが

 シメオネの導きによってチームとしての機能美を身につけ、国内外でビッグタイトルを争うようになった近年のアトレティコしか知らないのだから仕方ない。

 私の子供たちもまた、簡単には信じてくれなかった。今年成人する上の娘は、アトレティコが2部で2年間を過ごした事実は知っていた。だが“モノ”ブルゴスがグランビア沿いのマンホールから這い上がる演出で1部復帰を表現した当時のCM映像を見せても、すぐには理解できない様子だった。

 治安警察がビセンテ・カルデロンに押し入るわけがない。ホームゲームでスタンドから椅子や卵を投げつけられるなんてあり得ないでしょう。

 だが娘よ、あれは夢ではなかったのだ。

ラニエリ体制でバレロンら豊富な戦力だったが

 1999-2000シーズンを前に、ヘスス・ヒル会長は名高い戦術家のクラウディオ・ラニエリを新監督に迎え入れた。キコ、ホセマリ、バレロン、バラハ、ソラーリら豊富なタレントを擁し、ハッセルバインク、カプデビラ、ガマーラ、トニ・ヒメネス、ウーゴ・レアル、ピリパウスカスらを新たに加えたチームには、上位進出が期待できる戦力が揃っていた。

 ところが、異なるプレースタイルに慣れていたチームにイタリア式のメソッドは馴染まず、舵取りを誤ったラニエリは第5節まで初勝利を挙げることができなかった。

 スタートからつまずき、最悪の結末を迎えることになったこのシーズンにおいて、唯一の明るい記憶はサンティアゴ・ベルナベウで手にした勝利だった。

 ハッセルバインクが2ゴールを挙げ、3-1で制した1999年10月30日のレアル・マドリー戦は、マドリーダービーの歴史に名を残すことになる。アトレティコが次にレアル・マドリーから勝利を奪うまで、その後14年もの歳月を要したからだ。

 14年。信じがたい長さである。

 良くも悪くも、不可能を可能にするクラブ。アトレティコとはそういう存在なのだ。

なぜ治安警察がカルデロンの家宅捜索をしたのか

 アトレティ・ファンの心臓を止めた事件は、身も凍るような冬の朝に起こった。1999年12月22日、治安警察がビセンテ・カルデロンでの家宅捜索を行ったのだ。

 そんな事件がフットボールクラブで起きるのは前代未聞のことであり、報道陣はすぐさまスタジアムに殺到した。

 一体、何が起きているのか。誰かが逮捕されたのか。

 あの朝、スタジアムに集まった記者たちは、不安がたちこめ、永遠のように感じられたあの数時間を今も鮮明に記憶している。

ヘスス・ヒルという問題だらけの男

 1987年にアトレティコの会長となったヘスス・ヒルは、唯一無二の個性を持った、問題の絶えない男だった。

 1991年にはPP(国民党)、PSOE(社会労働党)の2大政党に代わる第三の選択肢となることを掲げ、新政党(グルポ・インデペンディエンテ・リベラル、略して自身の姓である「GIL」と名付けた)を結成。同年5月にはアンダルシア州マラガにあるマルベージャの市長に当選した。

詐欺、横領、公文書偽造……疑惑のデパート

 マルベージャは当時から国際的に有名で、世界中からセレブが集まる人気の観光地だった。その豪勢で華やかな世界の中心に立ったヒルはしかし、後に様々な罪状で政界を追われることになる。

 1999年12月22日の朝、ビセンテ・カルデロンのオフィスは治安警察の手で細部まで捜索され、あらゆる銀行口座が調査の対象となった。クラブには被害額94億2700万ペセタ(約5600万ユーロ)に上る詐欺、横領、公文書偽造、その他組織犯罪の容疑がかけられ、ヒルは不当な形でアトレティコの経営権を手に入れた疑いも持たれた。

 汚職対策局による捜査と並行し、クラブの経営権はヒルやエンリケ・セレソ副会長の手から離れ、判事が任命した管財人のルイス・マヌエル・ルビに委ねられた。

経営難の中で選手たちが集中できるわけもなく

 その日を境に、アトレティコ関連の紙面は先発メンバーやハッセルバインクのゴール、キコのプレーなどに代わり、経営権を取り戻すためにヒル一族が提出した必要書類の数々、選手たちがルビに対して発した声明文などが占めるようになった。

 選手たちは突然外からやってきた人間の監視下に置かれ、経営難が叫ばれる中で給料がもらえなくなる不安を抱いた。そんな状況でプレーに集中することは難しく、重苦しい空気に包まれたチームは低迷を極めていった。

 こうした状況下、降格圏まで勝ち点1差となった時点でラニエリは辞任。ルビは1995-96シーズンにリーガとコパデルレイの2冠を勝ち取ったラドミール・アンティッチを新監督に据えたが、事態は好転しなかった。4月11日にはヒルが経営権を取り戻したが、その後も監査役に任命されたルイス・ロマサンタの許可がなければ何もできない制限は続いた。

 そして5月7日、オビエドとのアウェー戦で降格が決まった。

 2-2の状況下でハッセルバインクがPKを決め損ね、勝てる試合で引き分けるという、いかにもアトレティコらしい結末だった。奇しくもこの時オビエドを率いていたのは、後にチームを1部復帰に導くクラブのレジェンド、ルイス・アラゴネスだった。

降格。しかし悲劇のシーズンにはまだ続きが

 試合終了を告げるホイッスルが響いた後、オビエドの旧エスタディオ・カルロス・タルティエレは、ぞっとするような沈黙に包まれた。キコは両手で頭を抱え、スタンドではファンが音も立てず泣いていた。

 誰もが一言も発することなく、沈黙はいつまでも続いた。あの光景は、今後も決して忘れることがないだろう。

 悲劇のシーズンにはまだ続きがあった。

 5月27日。2万5000人近くのファンがバレンシアまで駆けつけたコパデルレイ決勝にて、アトレティコはスペインフットボール史に残る屈辱の敗戦を喫したのだ。

守護神が親友にかっさらわれた決勝ゴール

 開始2分、GKのトニ・ヒメネスが手に持ったボールをワンバウンドさせた瞬間、それまで親友だと思っていたエスパニョールのタムードに頭でかっさらわれ、がら空きのゴールに流し込まれたのである。

 これ以上残酷な負け方などあり得るだろうか。あの日トニが流した涙は、クラブ史の、そしてフットボール史の一部として、今も語り継がれている。

 2部での1年目、2000-01シーズンも失望は繰り返された。ビセンテ・カルデロンが喜びを取り戻したのは、アラゴネスが監督に復帰した2001-02シーズンのことだ。この年には、そばかす顔の「エル・ニーニョ(幼な子)」も台頭してきた。

神の子トーレスに導かれ、ファンも見捨てず

 アラゴネスとフェルナンド・トーレスに導かれ、アトレティコは決して失うべきではなかった1部の舞台に再びたどり着いた。おかげで2003年の創立100周年を2部で迎えることも避けられた。

あの呪われた3年間を乗り越える上で、最も大きかったのはファンの存在だ。

2部で過ごした2シーズン、アトレティコはバルセロナ、レアル・マドリーに次ぐ観客動員数を維持し、多くの試合でスタンドを埋め尽くす5万4000人の観衆の前でプレーした。

降格後、ソシオの数は2万4000人から4万2000人まで増加していた。

何があろうと決してチームを見捨てることのないファンの存在は、クラブにとって何よりも大切な財産だ。地獄のような3年間を過ごしながら、ファンの誰もがソシオを辞めることなく、ビセンテ・カルデロンに足を運び、愛するクラブを支え続けた。

こうして最悪の時は過ぎ去ったのである。

文=フランシスコ・ハビエル・ディアス(ディアリオ・アス紙)

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