ゆったりと、他の選手とテンポをずらしてスタート台にあがった池江璃花子の足は震えていた。

「フライングするんじゃないかというくらい震えが止まらなくて、いつもと違いました」

 100mバタフライ(長水路)に、池江が帰ってきた。この種目は、彼女が最も得意とするもの。15歳で日本記録を更新すると、その後8度、自分自身でその記録を縮めてきた。リオ五輪のときだけでも、予選、準決勝、決勝と2日の間に次々と日本記録を塗り替えた。現在の日本記録は、彼女が18年8月のパンパシフィック水泳で出した56秒08である。

東京都オープンでバタフライ100m、50mに出場した池江 (C)Nikkan Sports/AFLO

 高校3年生だった18年は、100mバタフライでは7回優勝、50mバタフライでも日本記録を更新し続けるという、心身ともに充実感で漲る競技生活を送っていた。変調を感じたのは、翌年1月13日の三菱養和スプリントでの100mバタフライ。ゴールしたときのタイムは、自己ベストより4秒以上遅かった。

「イメトレをしようと思ったら不思議な感覚になったんです」

 冒頭の東京都オープン前夜、池江がイメージトレーニングをしようとしたときに思い出したのはその日のことだった。

「いつものようにイメトレをしようと思ったら不思議な感覚になったんです。あのとき、自分でも驚くほど遅い結果が出て、そのレースを最後に闘病生活に入りました。明日はそれ以来のバタフライのレースになる。ああいう状態で終わったけど、やっとここに戻ってこられた、やっと自分の得意な泳ぎを見せられる日が来たんだと。イメトレする余裕はありませんでした」

 白血病と闘い、プールに戻ってきたのは、今から約1年前の3月17日。13カ月が経っていた。

池江は決勝後、立ち上がれなかった

 しばらくは飛び込むのも怖いくらいだった。顔を水につけることが許されたのは4月下旬。緊急事態宣言中はプールから離れることもあった。

 自由形は徐々に戻ってきたが、一層筋力を必要とするバタフライで戦えるようになるには、相当の時間が必要だった。

 8月末には50m自由形でレース復帰。その後3試合の実戦はすべて自由形で臨み、ようやくバタフライでエントリーしたのが先の2月20、21日の東京都オープンだった。

 予選を2位で通過し、決勝は3位でフィニッシュ。2位との差はわずか0.09秒だった。

「さすがに高校生に負けたのは悔しかったけど、負けたときは『次はないぞ』という気持ちでやっています」

 池江は、白血病になる前までは、負けたことなどほとんどなかった。それが、復帰後、4位、3位、2位などを経験し、「死ぬほど悔しい」思いをしてきた。次はもう負けないぞという気持ちが、試合毎に彼女を強くしている。

 予選、決勝と2本全力で泳ぐ練習はまだしていなかった池江は、決勝後、立ち上がれなかった。体にきつさを感じながらも、湧いてきた気持ちはこれしかなかった。

「100mバタフライに戻ってこられて、本当に良かった」

「勝つことの意味をちゃんと感じられるようになりました」

 翌日の50mバタフライでは、自身の持つ日本記録まで0.66秒というタイムで優勝した。復帰後初めての優勝だ。

「1位になったことは、大きなステップアップでした。以前の自分は速くて当たり前、日本では勝って当たり前でした。それを失って初めて、勝つことの意味をちゃんと感じられるようになりました」

 センターレーンで、独泳状態で真っ先にゴールする彼女を見ると、我々はどうしてもその先を欲してしまうが、彼女がレースの度に見せる涙の裏側には、プロセスがあることを忘れてはならない。

「白血病との闘い」も「プールに戻ってきたこと」も「優勝したこと」も、彼女にしか言葉にできない壮絶な経験だったことを。

<『ナンバー』では、隔号で、池江璃花子さんが1カ月に起きたことを日記形式で伝える「Rikako Diary」を連載中です。最新号では、ジャパンオープンと東京都オープンで感じたことを、より詳しく語っています。>

文=藤森三奈

photograph by Nikkan Sports/AFLO