東京オリンピックは中止になるのではないか。コロナ禍の終息が見えない中、増田成幸(37=宇都宮ブリッツェン/コンチネンタルチーム)の周辺ですら、そう口にする人々が増えている。そんなとき、増田はいつも、胸の内でこう思うという。

「そんなこと、俺に言ったってしょうがないだろう。自分から諦めたら、それだけ終わりは早くやってくる。いままでにケガや病気、大変な思いをした経験から、投げ出してしまったらそこでおしまいだということだけは、僕にはよくわかってるんです。オリンピックについて何だかんだと言われると、かえってそういう気持ちが強くなりますね」

「いままでの選手人生のベストを」

 淡々とそう語る増田は、自転車男子ロードレースの日本代表2人のうちの1人だ。来る7月24日、新城幸也(36=バーレーン・ヴィクトリアス/ワールドチーム)とともに、恐らく人生最初で最後になるだろう五輪の戦いに挑む。

「今年の2月、沖縄で日本代表の合宿をやりました。それまでのトレーニングからレベルを一歩上げて、質も量も増やし、一日に200km以上、6時間以上走った日もある。3月にはもっと厳しく、僕の最大心拍数、大体180近くに上がるまで追い込んでいきます。

 オリンピックでは極限までコンディションを上げ、今年のベストじゃなく、いままでの選手人生のベストを発揮したい。そこを目指してるので、モチベーションは高いですよ」

新シーズンへ向けトレーニングする増田。宇都宮ブリッツェンが出場するJCLロードレースツアーは3月27日開幕©Utsunomiya Blitzen

九分九厘不可能と見られていた逆境を跳ね返して

 日本代表の座も九分九厘、いや、それ以上にほとんど不可能と見られていた逆境を跳ね返して掴み取った。代表選考期限を5日後に控えた昨年10月12日、代表争いのポイントランキング3位の増田は、最終決戦となったスペインのレースで2位の中根英登(30=NIPPO・デルコ・ワンプロヴァンス/プロコンチネンタルチーム ※今季はEFエデュケーション・NIPPO/ワールドチーム)を僅差で逆転。これは東京五輪の代表争いの中でも、最も劇的だった対決の一つに数えていい。

 代表争い序盤の山場だった2019年6月、全日本選手権を終了した時点で、ポイントランキングは増田が201.8点で1位、新城が99点で3位、中根はさらにその下にいた。

 しかし、新城は8月、イギリスのレースで72点を獲得し、計171点として増田を猛追。中根も10月のジャパンカップで70点を稼ぎ、計115点で4位に上昇している。

 そして、昨年1月、新城はオーストラリアのツアー・ダウンアンダーで120点を獲得。計311点で増田を抜き、代表争いのトップに立った。新城がこのまま首位を独走して1人目の代表枠を手中に収めるだろう、と見られていたのには、自転車界独特の理由がある。

国内が主戦場ではポイントが稼げない

 選手がレースで獲得するポイントは国際自転車競技連合(UCI)に定められたもので、これに日本自転車競技連盟(JCF)が独自の係数を乗じたポイントが代表選考ランキングに加算される。この係数にはレースのランクによって大きな格差があり、トップクラスのワールドツアーの一部やツール・ド・フランスなどのグランツールならUCIポイントの最高10倍、ヨーロッパツアーは2〜4倍。一方で、多くのアジアツアーは係数1.0でまったくポイントが増えず、日本国内の全日本選手権は0.5倍と、逆にポイントが半分しか加算されない。

 海外のチームでポイントを稼ぐチャンスに恵まれた新城や中根に比べると、国内を主戦場とする増田が背負ったハンデは小さくなかった。しかも、コンチネンタルチームの宇都宮ブリッツェンはUCIの定めたカテゴリーに阻まれ、ワールドツアーに参加することさえできない。ヨーロッパのツアーに出場するにも、その都度、主催者と粘り強く交渉を重ねる必要があった。

「コロナで出られるレースがなくなって」

 自分の置かれた状況は、増田も承知の上で代表争いに臨んでいた。が、コロナ禍の影響だけは、どうにもならなかった。

 増田が2位にいた昨年3月、ツール・ド・とちぎがコロナ禍で中止になった。以降、5月のツアー・オブ・ジャパン、6月の全日本選手権、10月のツール・ド・北海道と、ポイントを稼げるUCIレースも次々に中止。オリンピックの1年延期により、代表選考期限も当初の5月31日から10月17日に延ばされたが、それまでに日本国内のUCIレースが再開されるかどうかはわからない。

「5、6、7月は本当に辛かった。コロナで出られるレースがなくなって、いくらトレーニングをしても肉体を磨いても、それを発揮する場がない。オリンピックを目指して頑張ってきたのに、自分はどうしたらいいんだって、ずっとやり場のない気持ちでいました」

 その間にも、ヨーロッパの自転車界は着々とレース再開に向けて動き始める。この状況を打開するべく、増田は7月、日本スポーツ仲裁機構に選考基準の見直しを申し立てた。

「何とか、この不公平な状況を訴えたかった。結局は認められませんでしたけれども」

 当時は、清水裕輔監督やチームメートたちに不安を打ち明けているうち、ふと涙が溢れ出したことも何度かあったという。

娘が「パパは一番になるよ」と

「あのころはすごく孤独を感じていました。この辛さだけは誰にも理解してもらえない。当事者である自分にしかわからないんだと、ずっとそういう孤独感に苛まれていた」

 そんな増田の荒んだ心を癒やしてくれたのは、幼稚園に通っていた一番下の娘だった。お絵描きの時間に富士山と五輪マークの絵を描いて「オリンピック行くよ」「パパは一番になるよ」と笑いかけてくる。そんな末娘の無垢な笑顔が、天使のように見えたという。

 そうした最中の8月、ついに3位の中根が増田を逆転した。中根はフランスのワールドツアーでUCIポイント4点を獲得。×係数6で24点、計282点となり、274.8点の増田を7.2点上回って2位に浮上したのだ。

「何かレースに出なければいけない。ただ指をくわえて代表選考を眺めていて、カヤの外に置かれたままでは、納得できない。それでマレーシアや台湾、インドネシアや韓国と、出られるレースを探し回ったんですけどね」

 しかし、そうした国々のレースもほとんど中止。唯一、10月に開催されるタイのレースも、飛行機が大幅に減便された影響で2〜3週間のキャンセル待ちを強いられた。何とか入国できても、レースの前にタイ政府指定のホテルで2週間完全隔離されるという。

絶望的な状況で得たバスクでのチャンス

 絶望的な状況の中、スペイン・バスク地方のレース〈プルエバ・ビリャフランカ・デ・オルディシア〉が最後の候補として残った。増田が何度か出場したことのあるレースで、コロナ禍によって7月末の開催が10月12日に延期されていたのだ。海外チームの招聘に苦慮していた主催者はブリッツェンの要望を受諾。宇都宮のスポンサーや地元企業が追加の遠征資金を提供することも決まった。

「やっとレースに出られる。そこから、自分自身に、1枚2枚とギヤがかかりました」

 このレースには中根も出場し、期せずして直接対決が実現する。加算されるポイントは10位以内でUCIポイントの4倍、25位以内で3倍。ランキングで増田が中根を上回り、代表の座を掴み取るには、このレースで中根の上位に入り、なおかつ25位以内でフィニッシュすることが絶対の条件だった。

「前評判はみんな散々でした。ワンチャンスに賭けてスペインまで行ったところで、玉砕して帰ってくるんじゃないかと。でも、この最後のレースに出られずに代表選考が終わっていたら、悔しさを一生引きずったでしょう。走りさえすれば、結果が良くても悪くても、死ぬまで後悔せずに生きていけると思った」

これまで、3度の大きなけがを経験している

昨年10月、スペイン・バスク地方のレースに参戦©Utsunomiya Blitzen

 総距離165kmで、上りの多い周回コースを5周。しかも当日は雨が降り、最高気温9℃という寒さだった。その上、序盤から激しいアタックがかかり、アシストしてくれるはずだった6人のチームメートは2周回で脱落し、その全員がリタイアしてしまう。

 増田は、最後の最後につかんだチャンスで、残り140km超をたったひとりで走りきらなければならなくなった。しかも、同じ先頭集団の中には、ヨーロッパのプロチームの一員として出場し、自分より7歳若い中根がいる。

「中根選手の存在をまったく意識しなかったかと聞かれれば、それはやっぱりウソになる。でも、そういうライバルに気を取られて自分の走りに集中できなかったレースは、結果も良くない。だから、俺は俺の走りをするだけだと、そういう気持ちでした」

 増田はこれまで、3度の大きなケガを経験している。最初は若いころ、トレーニング中に大型犬と接触し、鎖骨と骨盤を骨折。2度目は2010年、人力飛行機のパイロットとして飛行距離の世界記録に挑戦中、墜落して腰椎圧迫骨折の重傷を負った。日本大学時代に日本記録を樹立した研究室の活動にOBとして参加した際の事故だった。3度目は2011年10月のJプロツアー最終戦で落車し、右半身の鎖骨や肩甲骨など5カ所を骨折。一時は選手生命を危ぶまれ、治療とリハビリに約3カ月を要した。

 その後、一度はヨーロッパのプロチームと契約しながら、コンディションを崩して帰国。宇都宮に復帰すると、今度は2017年に甲状腺ホルモンが過剰に分泌するバセドー病にかかっていることが判明した。さらにその年9月、無理を押して出場したツール・ド・北海道で、またしても落車による鎖骨骨折が重なった。

自転車界で付けられた異名は「不死鳥」

 しかし、そのたびに増田は蘇った。宇都宮のファンと自転車界で付けられた異名は「不死鳥」。何度も絶望的な状況をかいくぐってきたフェニックスの走りは、雨の降りしきるスペイン・バスク地方でも健在だった。

 終盤、中根がついに先頭集団から遅れた。が、最終周回の5周目、増田も先頭集団から脱落する。雨と寒さに体温を奪われ、手先、足先がかじかみ、身体が思うように動かない。増田は先頭の後ろの5人のグループに入り、先頭交代しながらついていこうと試みた。

 無線のイヤホンから、清水監督の声が飛び込んできたのは、そのときである。

「よおし、いいぞ! そのまま行け! そのグループにいれば25位以内に入れる!」

 もうほとんど力は残っていない。それでも、増田はペダルを踏み込んだ。いったい、疲労困憊だった身体のどこにそんなエネルギーが残っていたのか、自分でも想像がつかない。ついにフィニッシュラインを超えたときは、自分が20位に入ったことも、中根を上回ったこともわからなかった。

「増田さん、やりましたよ! 逆転です!」

「よっしゃ! 勝ったぞ! という感覚ではなかったです。終わった、やりきった、とにかく持てる力は出し尽くした。それだけ」

 しばし朦朧としていた増田の傍らに、リタイヤしていた後輩のチームメート、鈴木譲が駆け寄ってくる。彼が耳元で叫んだ。

「増田さん、やりましたよ! 逆転です! オリンピックに行けるんです!」

 増田はこのレースでポイント3、×係数3で9点を獲得し、283.8点。リタイヤした中根は282点のまま。実に、僅か1.8点の差で、日の丸を背負う資格を奪い返したのだった。

「最後の最後まで頑張れたのは、それまでに大きなケガや病気を経験したおかげだと思います。まだ20代で、それほど苦労もしてない選手だったら、周囲の声にブレたり、コロナ禍に呑まれたりして、もうダメだと自分から諦めていたかもしれません」

五輪では「言葉は悪いけど、漁夫の利を得る」

 増田の本当の勝負は、東京オリンピックの開会後、今年7月24日午前11時に始まる。東京・武蔵野の森公園をスタートし、神奈川、山梨、静岡をめぐって富士スピードウェイでフィニッシュする244km。増田はすでにプレオリンピックでショートカットされたコースを実際に走り、その感触を確かめている。

「厳しいコースです。上り坂が多く、長くてキツい。一つ一つの坂に破壊力がある。僕の自転車競技人生の中でも、これは間違いなく最も厳しいコースでしょう」

 そう語る増田はもともと、上り坂を得意とするクライマーだ。やはり上り坂の多かったスペインの最終レースを走り抜いた彼にとっては、お誂え向きのコースとも言える。

©Utsunomiya Blitzen

「これほどのコースは、代表選手が5人出場する強豪国でも、協力し合ってレースをコントロールするしかない。2人しかいないわれわれ日本は、そういう強豪国のレース展開に乗りながら、大集団の力を借りて脚を温存し、言葉は悪いけど、漁夫の利を得る。そういうレース展開にしなければならない」

 オリンピックが開催されれば、増田の走りは多くの日本人に勇気を与えるだろう。五輪の本番で、「不死鳥」の戦いを見たい。

文=赤坂英一

photograph by Utsunomiya Blitzen