くっきりと張りのある声。意志を感じさせる美しい顔立ちに、しなやかな身のこなし。マネージャーに付き添われて取材場所に現れたのは、プロフィギュアスケーター・安藤美姫だ。

 取材者の話にしっかりと耳を傾け、自分の言葉で、誠実に、しかもたくさん話してくれる。ただ瞳の奥に、和らぐことはあっても消えない硬さがある。「初めてお会いする方にはどうしても壁を作ってしまうところがあって」。彼女がそう教えてくれるまで、少し時間がかかった。でも、自らそれを口にできるようになったこと、それ自体が安藤美姫の濃密な、33年間の人生を物語っていると、のちにわかった。

 名古屋で育ち、9歳からフィギュアスケートを始めた安藤が、女子史上初の4回転ジャンプに成功したのは14歳のとき。その後、16歳でシニアデビューを果たした天才少女は、トリノ五輪代表選考を前に激烈なメディア攻勢に晒されたという。あれから18年――。当時のことについて、話を聞いた(全3回の1回目/#2、#3に続く)。

安藤美姫さん

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「スケートより、メディアとの距離感と闘っていました」

 17歳の時には女子高生の制服姿にスケート靴という象徴的な姿で雑誌『Number』の表紙も飾ったこともある彼女だが、「結構、みなさん衝撃だったみたいで。覚えている方も多い表紙だと思います」と、15年以上前を振り返る。

 2000年代の女子高生ブームの中、少々特殊な視線とともに巻き起こった「安藤美姫フィーバー」以降、世間では彼女に対して好不調の波が激しく“スキャンダラスな美人トップスケーター”というイメージが根強く存在してきたことは否定できない。だが、名古屋のひとりの女子高生スケーターの日常をスキャンダルにしてきたのは誰かと言えば、それを報じるメディアでもある。

 ノイズだらけであったろうフィギュアスケート人生の中で何と闘ってきたかと問うと、「フィギュアに対して、きつかったとか辛かったとか闘っているとかは、あまり思ったことがなくて。むしろスケートというより、メディアの皆さんとの距離感と闘っていました。今はメディアの方とも理解し合えるようになりましたし、お仕事もいただきながら良い関係性を築けています」と話す。

「私が14歳で4回転を成功した当時は、フィギュアスケートはマイナーなスポーツでした。今でこそいろんなスポーツ誌に取り上げられたりしていますが、大きな大会でなくても記者の方がいらして取材をしてもらう環境はなかったですね」

 だが18歳の時、トリノオリンピックを前にして、安藤を取り巻く状況は一変した。

『Number』の表紙を飾った

四六時中カメラを向けられる日々で

「若手選手で、過去に4回転を飛んだということも大きかったのか、その頃から急に注目をされるようになって。ただ自分の中ではすごくいろいろ疑問がありました。自分のやっていることはこれまでと変わらないのになんでだろうと。スポーツニュースやスポーツ誌などの普通の取材ならまだしも、『高校生で旬』という見方から、ゴシップ誌や男性向け成人誌に毎日追いかけられるようになって……」

 家や学校の前の木陰に隠れる記者たちにカメラを向けられる日々。当時、安藤の中にあった感情は怒りなどではなく、「恐怖」だった。「外に出ることが怖い時期がすごく続いたので、スケートに集中できませんでした。それを跳ね返すぐらい強ければよかったんですけれど」。いったいどこの女子高生が日本中の大人の男たちの好奇の視線に晒され、四六時中カメラを向けられる毎日を跳ね返すことができるのだろうか。さらに世間の目は激しさを増す。

「中学3年生ぐらいから女性になるための体の変化がすごくあった方なので、外見に関して言われることが増えました。そういう声を自分の中でいかにすっきりさせるか、対応するかがすごく大変で、スケートよりも自分には難しかった。だからか、特にトリノの頃はスケートのことをあまり覚えてないんです。1年間の記憶がぽっかりと抜けていて。きっと忘れたかったんだと思います」

 18の健康な少女が記憶を失くした痛烈な1年。忘れたいと願ったのは、彼女自身が自分を守るための唯一の方法だったのかもしれない。

トリノ五輪で挑戦した4回転「納得できていた一方で…」

 そんなメディアの狂乱の中で迎えた2006年トリノオリンピック。ヒートアップする日本のメディアを避けるべく、直前から活動の場をアメリカに移して調整をしていたが、アメリカにも記者は追いかけてきた。さらに、足の指を骨折するトラブルにも見舞われ、身体的にも精神的にも万全な状態とは言えなかった。それでも、安藤は自分の意思を通して4回転ジャンプに挑んだが、結果は失敗。最終15位で初めての五輪を終えた。

4回転ジャンプに果敢に挑戦したトリノ五輪 ©Takuya Sugiyama

「やっぱり(4回転を)成功させたかった。でも、自分の挑戦に対して後悔はないです。骨折をして身体的にも精神的にもベストな状態ではなかったけど、『4回転を飛ぶこと』にチャレンジできる人は他にいなかった。オリンピックという大きな舞台で挑戦できるなら、したいと強く思ったんです。

 ただ、自分の目標の1つでオリンピックに出て、4回転にチャレンジできたというところには納得できていた一方で、日本代表として戦えていたかというところでは反省すべきところもあった。そう考えると、世間やメディアの方が求めていた結果ではなかったので、厳しい声も受け止めることができました」。五輪直後、彼女に対する報道はネガティブで攻撃的なものが多く、日本の反響にも中傷の言葉が溢れていたという。

「応援してくださる人なんて、もともといなかった」

 安藤は、トリノ五輪を滑り切ったら「スケートをやめる」と決めていたという。「スケートは好きですけど、そのスケートをやっているがために見世物みたいに扱われて、自分の人生までぐちゃぐちゃになってしまうのであればもうやめた方がいいのかなと思いました。1つの目標だった五輪にも出させていただいたし、もう自由になりたいなと」。

 しかし、安藤を悩ませていた“世間の熱狂”は急冷を迎える。トリノ五輪直後の報道が一通り終わると、メディアも潮が引いたように安藤の前からいなくなっていった。

「みなさんが望むような結果につながらなかった後は、もうスポーツ誌の取材もないですし、テレビの方も来なくなり、追いかけてくる方もいなくなって。大人の世界というか、社会の動きですよね。初めは皆さん応援してくれてるからそうやって自分の前に集まってくるのかなと思ってたんですけど、そうではなかった。正直、自分は旬な年齢だったし、話題性もあったから……」

 応援してくださる人なんて、もともといなかったのだ、と安藤は思った。そんな時、1人の女性に声をかけられた。「五輪会場の外で日本から見にきた方が『こんな大きな舞台で4回転に挑戦してくれてありがとう。すごく勇気をもらったわ。日本から来た甲斐があった』と言ってくださったんです。その言葉が、それまでのどんなネガティブな言葉よりも大きく心に響いて。この世界にそういう風に思ってくれる人がまだひとりでもいるんだったら、もう一度スケートで頑張りたいって素直に思えたんです」

「誰も信じない」もう一度リンクへ

 こうして身体的にも精神的にもボロボロだった安藤は、もう一度リンクに立った。「スケートをはじめた9歳のことから教えてもらっていた門奈裕子先生のところに戻って、ジャンプを一からやり直して自信をつけました。そこからニコライ・モロゾフコーチをはじめ、その頃奥様だったシェイ=リーン・ボーンさんにも、表現力や曲の意味を考えながら表現するという、フィギュアスケートのもう一つの魅力を教えてもらいました」

 そして、「誰も信じないことで自分を守る」ことにした。

「とにかく人はまず信用しない、という生き方をトリノの後はしていて。言葉は悪いかもしれないですけども、誰も信じないようにすることで、傷つかなくなりました。そこからですね、強くなれたというか、久しぶりにスケートのことだけを考えて試合に出られるという環境になったんです」。

 安藤は、当時を振り返りながら冷静にこう付け加えた。「その頃は本当に、人のために何かをするという余裕がなく、自分を守るという気持ちで精一杯でした」。幸か不幸か、「人を信じない」ことで心の平穏を取り戻した安藤は、現役生活における“全盛期”を迎えることになる。

(【続きを読む】トリノで“誰も信じなくなった”安藤美姫が世界女王に返り咲くまで「記録ではなく記憶に残る選手になりたかった」へ)

文=河崎環

photograph by Nanae Suzuki