「ボクは三塁のホットコーナーを守ってやってきた。三塁ベースはボクの恋人です。それが守れなくなったら、ボクはいさぎよく引退しますよ」(『週刊ベースボール』1971年9月27日号)

 1971年1月、当時34歳の長嶋茂雄が外野転向の声を否定し、語った三塁への愛。

 その10年後の81年から8年間にわたってその“聖域”を守った原辰徳は21世紀に入り、02年からは監督というポジションを“ミスター”から引き継ぐこととなる。

 では、若大将は2002年の監督就任以降、サードに誰を指名してきたのか。

 現在発売中のNumber1024号「20年目の原巨人」では8ページにわたり原巨人計14シーズンを中溝康隆さんのコラム5本とともに振り返っている。詳細は誌面をぜひご覧いただきたいが、その一部としてここではそれぞれの年に多くスタメン起用された三塁手を振り返ってみよう。02年〜03年(第1次原政権)、06〜10年(第2次原政権前期)、11年〜15年(第2次原政権後期)、19年〜(第3次原政権)と4つの時代に分けて、原巨人のホットコーナーの変遷を追ってみた。

(1)第1次原政権(02年〜03年)広島から来た江藤智

・第1次原政権(02年〜03年)

 02年 江藤智
 03年 江藤智/斉藤宜之

 長嶋監督から背番号33を渡されて期待をかけられたのが1999年オフに広島からFA移籍してきた江藤だった。

 巨人ファンの記憶に刻まれているのは移籍初年、2000年ミレニアムVの胴上げ試合で9回裏4点差ビハインドを同点に追いついた満塁本塁打だろう。美しい放物線を描くことでも知られたアーチストはその放物線と軌を一にするように、00年を頂点に本塁打数が徐々に降下。原巨人1年目となった02年は打率.242、18本塁打、56打点。翌03年も打率.268、17本塁打、43打点と成績に陰りが見えてくる。

 このサード江藤で浮かび上がってくるのは原巨人に起きた2年遅れの“2000年問題”だ。長嶋監督によって束ねられた2000年の「ミレニアム打線」は02年オフにゴジラ松井秀喜が抜け、江藤など他の主力も陰りが見え始め徐々にパワーダウン。原監督は「打率は気にするな。おれが現役でやっていたときの本塁打王なんだから」と江藤を励ましメインに起用しながら元木大介、後藤孝志、川中基嗣などを試し、03年シーズン後半からはこの年好調の斉藤宜之をスタメンに据える。清原和博のケガの際は江藤をファーストにし、次世代サードの育成を目指すが、その志半ばで原監督は03年退任となった。

(2)第2次原政権前期(06年〜10年)小久保→小笠原

・第2次原政権前期(06年〜10年)

 06年 小久保裕紀
 07年〜10年 小笠原道大

 06年、第2次原政権最初のミッションは前年リーグ5位となったチームの再建だった。03年オフにダイエー(現ソフトバンク)から無償トレードで加入した小久保が06年、史上初の生え抜き以外でのキャプテンに就任。だが06年途中にケガで離脱し、チームも大きく不振に陥り2年連続のBクラスに。他球団から来た経歴と主な打順こそ江藤と同じ6番ながら、小久保は個人成績のみでなく低迷期のチームの精神的支柱の役割も期待されていたのだ。

 06年オフに小久保はFAでソフトバンクホークスへカムバック。入れ替わるように日本ハムからFA移籍で巨人のホットコーナーに見参したのが小笠原道大だ。眼光鋭く、寡黙なイメージで“サムライ”と親しまれた小笠原だったが、2000年から伸ばしていた口ひげを『巨人軍は紳士たれ』の言葉に則り、入団会見の3時間前にスッと剃り落とし、外様サムライからジェントルマンにジョブチェンジ。入団してからは不動の3番として定着。持ち前のフルスイングでボールも打線もチームも引っ張り、07年原巨人の三塁手として初となるベストナインを獲得、MVPにも輝いた。08年には李承燁の二軍落ちと自身の手術した左膝の負担軽減のため、一塁に回ることも多かったが、07年から10年まで3割30本塁打を4年連続で達成と目覚ましい活躍を見せた。

 そして小笠原という「引っ張るサード」の存在は07〜09年のリーグV3に結実するのである。

(3)第2次原政権後期(11年〜15年)あの男に“帰宅命令”も…

 ・第2次原政権後期(11年〜15年)

 11年 古城茂幸/亀井善行
 12年〜15年 村田修一

 第2次原政権後期5年間はサードには苦労の色がにじむ。11年は小笠原を負担軽減のため一塁に固定し、ホットコーナーは戦国時代に突入した。開幕戦はライアルがスタメンに名を連ねるも定着せず、古城茂幸と亀井善行(2012年まで登録名・義行)をそれぞれ32試合でスタメン起用し、困ったときに頼れる2人を中心に乗り切った。

 12年には横浜(現DeNA)から村田修一を獲得。これまでも外から巨人の三塁にふさわしい人材を求めてきたが、原はその誰よりも同じ福岡出身、右打者、そして4番を任された村田に厳しく接したと言っていいだろう。

 12年9月7日には優勝争いをするチームにあって第1打席三振、第2打席ゲッツーと一人アウトを量産する男に下ったのは2回裏の守備に入るタイミングでの選手交代かつ“帰宅命令”。終わってみれば打率.252、12本塁打、58打点の村田を64試合4番に据えながら、チームは日本一に。チームの浮沈を握っていたように思えた巨人のホットコーナーだが、12年は4番三塁が不調でも原巨人は頂点に立ってみせた。その強さと余裕が村田の不振によって余計に際立つ。といっても、村田は翌13年8月に月間46本のヒットを集めるセ・リーグ新記録を達成し、シーズン打率も3割超え。そして13年オフには生え抜き以外では初となる選手会長にまで上り詰めた。

 この5年間を振り返ると、原巨人はホットコーナーに苦労しながらも、村田を教え諭し我慢し、かつ起用し続けられる余裕があった。しかし15年第2次原政権の最終シーズンは34歳となった村田が絶不調でチームも2位。実は15年終盤にはこの年1年目の岡本和真をスタメンサードとして11試合に起用。そうやって次世代のサードを探し求めるさなかに、原監督は再び退任となる。

(4)第3次原政権(19年〜)岡本の開花

・第3次原政権(19年〜)

 19〜20年 岡本和真

 原巨人にようやく誕生した生え抜きの4番サードの右打者。目をかけていたつぼみが就任前年の18年に開花。高橋由伸監督が我慢して起用し続け3割、30本塁打、100打点を達成。19年の序盤こそビヤヌエバに三塁を譲り一塁で出場も、中盤からホットコーナーを奪取、20年には「軽い腰痛」で欠場した2試合を除き全試合にスタメン三塁手として出場した。岡本は村田の背番号25を受け継いだが、原監督の接し方は村田の時の厳しさとは全く異なる。不調時は「ビッグベイビーが困っている」と優しさを見せ、活躍すると「ビッグベイビーから若大将になる足掛かりとして、階段を上っている気はしますね」と言って成長を喜ぶ。時おり苦言を呈すことはあれど、今年のキャンプでは「大人になったなと。キャプテンシーも含めてあるんだなと思った」と表情はとても柔らかい。

 と、これまで原巨人の三塁を振り返って分かるのは、正三塁手をスタメンで固定できた年はほぼ優勝しているということだ。02年の江藤、07年〜09年の小笠原、12年〜14年の村田、19年〜20年の岡本は100試合以上スタメン出場を果たしている。02年の江藤、08年の小笠原、19年の岡本はチーム事情によって一塁起用も多かったが、最終的に三塁に固定され、合計すると100試合以上でスタメン出場。一方、優勝できなかった03年江藤、06年小久保、11年の亀井と古城、15年村田はスタメンでの出場が100試合未満となっている。

 唯一の例外が10年の小笠原。100試合以上のスタメン出場を果たし3割30本を達成も投手陣が絶不調と、正三塁手の存在感が成績に直結しなかった。

「年代記クロニクル」では原巨人で活躍した主力選手たちの成績をシーズンごとに振り返っており、中溝康隆さんのコラムと合わせて読むと長年のG党は懐かしい気持ちになること間違いなしである。

文=齋藤裕(Number編集部)

photograph by KYODO