人生とは分からないものだとつくづく思う。

 高校で競技に見切りを付けて今頃は調理師になっていたはずの男が、熱烈な勧誘を受けて大学でも競技を続け、あれよあれよとチームのエースに成長。社会人2年目にはオリンピック代表にまで上り詰めることになるのだから。陸上競技を続ける道を選んだ5年前、当時の伊藤達彦(Honda)自身も、こんな未来が待っていようとは思ってもいなかったのではないだろうか……。

 もっとも、五輪への道は決して生易しいものではなかったが。

伊藤達彦は5月3日に行われた日本選手権10000mで優勝し、相澤晃に続いて五輪への切符を手にした

年が明けてウォーキングすらままならない状態に

「正直あきらめていた」

 5月3日、日本選手権10000mで東京オリンピック代表を決めた伊藤は、レース後のインタビューでこんな言葉を口にした。

 昨年12月の日本選手権では、相澤晃(旭化成)に敗れ即内定とはならなかったものの、終盤まで相澤と競り合い、東京オリンピックの参加標準記録を突破。オリンピック出場にあと少しで手が届くところにまで近づいた。

 しかし、好事魔多しとは、こういうことを言うのだろう。勝負の年を迎えて早々、悪夢を見せられることになる。

 元日のニューイヤー駅伝のレース中に、両脚の大腿骨を疲労骨折。さらには、右脚のハムストリングスの肉離れにも見舞われたのだ。

 4カ月後に日本選手権が迫っているにもかかわらず、走ることはおろか、ウォーキングさえもままならず、焦りばかりが募った。

「1カ月ぐらいで治るかなと思っていて、2月の頭からジョグをし始めて、と計画を立てていたんですけど……」

 そろそろ復帰できる頃かと思ってMRIをとると完治しておらず、医師からは“まだ走れない”ことを言い渡された。さすがに、伊藤も「心が折れた」と言う。

はっきりと見えていたはずのオリンピック

 もどかしい日々は続き、結局、まるまる2カ月間走れなかった。

 ようやく走れるようになったのは3月に入ってから。ポイント練習(強度の高い重要な練習)をこなせるようになるまでには、さらに1カ月を要した。はっきりと見えていたはずのオリンピックが、うたかたのようなものに感じたのも無理はないだろう。

 だが、そこから本番までの仕上がりが早かった。

「正直、スタミナもスピードもすごく落ちているかなと思ったんですけど、ポイント練習をやっていくうちに、自分の予想以上に走れるようになりました。2〜3週間前からは前回の日本選手権の前とほぼ同じメニューをやっていたんですけど、前回よりも速いタイムでできたので、今回はかなり自信をもって挑むことができました」

驚異の回復を実現させた地道な取り組み

 復帰早々に出場した4月10日の金栗記念選抜陸上では、5000mで13分45秒12とまずまずのタイムで走っている。

 驚異の回復を見せた裏には、もちろん地道な取り組みがあった。全く走れなかった期間は、トレーナーの指導で補強練習に取り組みフィジカル面の強化を図り、プールに通ったり、バイク(自転車)でインターバルトレーニングをしたりして心肺機能の維持に努めた。苦しい時期ではあったが、「ケガをしていた時間も無駄じゃなかったな」と思うことができたという。

 こうして、地元・静岡で開催された5月3日の日本選手権10000mのスタートラインには、堂々と立つことができた。

 しかし、この日の伊藤は“らしくない”レース運びをしているように見えた。

駒大の田澤廉、鈴木芽吹に先行を許しながら

 伊藤といえば、昨年の日本選手権でも見せたように、抜かれてもすぐに抜き返そうとする負けん気の強さが特長だが、この日は慎重にレースを進めていた。常に先頭を窺える位置に着けながらも、決して前に出ようとはせず、大学生の田澤廉、鈴木芽吹(ともに駒大)にも先行を許していた。長期のケガがあったことを知らずとも、もしや本調子ではないのではないか……と思わせた。

駒大の田澤廉(中央)、鈴木芽吹(右)につき続ける伊藤はらしくなかった

 だが、そんな心配は不要だった。

「優勝して東京オリンピック内定を決める」

 そんな強い決意を持って伊藤はレースに臨んでおり、じっくりと勝機を窺っていたのだ。

 男子10000mの五輪参加標準記録を破っている日本人選手は、すでに内定を決めている相澤の他には伊藤しかいない。日本代表選手の選考要項には『第105回日本陸上競技選手権大会(以下「第105回日本選手権」という)3位入賞以上の成績を収めた競技者であって、第105回日本選手権当該種目終了時点までに参加標準記録を満たした競技者』という文言があり、これに則ると、伊藤は3位以内に入れば内定を得られる可能性が高かった。それでも、伊藤は優勝にこだわった。

「だいぶ余裕がありました」

 残り700m付近、満を持して伊藤が勝負に出た。

「残り1000mでいこうか、600mでいこうか、悩んでいたのですが、少しペースが落ちた時があったので、そのタイミングで出ました。だいぶ余裕がありました」

終盤、オープン参加のケモイ(右)とデッドヒートを繰り広げた

 地元の観衆の大きな拍手の後押しを受け鮮烈なスパートを炸裂させた伊藤は、田澤と鈴木を一気に置き去りにした。最後は、ペースメーカーをしていたロジャース・シュモ・ケモイ(愛三工業)と競り合うようにしてフィニッシュ。有言実行の日本選手権優勝で五輪内定を勝ち取った。

「五輪では相澤晃には絶対に負けたくない」

 驚異の復活劇を飾った伊藤は、五輪の舞台で相澤との再戦を心待ちにしている。

「同学年の中では相澤選手を一番ライバル視しており、その相澤選手が先にオリンピックを決めたのは悔しかった。オリンピックでは相澤選手には絶対に負けたくないという思いで臨みます」

レース後、伊藤は田澤(右)と鈴木(左)を称えながら感謝を表した

 もちろん戦うべき相手は相澤だけではない。だが、箱根駅伝や日本選手権といった大舞台で度々熱戦を繰り広げ敗れてきただけに、伊藤にとって相澤はどうしても意識せざるをえない選手なのだ。オリンピックという舞台で、2人がどんな名勝負を見せてくれるか、心待ちにしているファンも多いだろう。

文=和田悟志

photograph by Asami Enomoto