今号のNumberは長谷部誠特集だ。

 タイトルは『長谷部誠は知っている。』

 昔、インスタントコーヒーのCMで、宮本亜門は知っている、というコピーがあった。その宮本亜門をオレは知らねえよ、と友人と笑い合ったことがあるけれど、長谷部誠のことなら少しは知っている。

 長谷部誠が浦和レッズに入団してきたのは2002年の春先のことだ。ほっそりとして、端正な顔立ちをし、礼儀正しく、でもちょっと神経質そうな若者だった。

 藤枝東高校の出身、ポジションはミッドフィールダーらしい、そのふたつが彼についての最大限の情報だった。要するに、誰も彼のことはよく知らなかったし、さほど興味も示していなかった。長谷部誠はone of them、ただの無名選手だった。

「てめえら、やる気あんのかよ!」

 当時の浦和レッズは、JR浦和駅から20分ほど東に向かって歩いたところにある駒場スタジアムを本拠地としていた。僕はチームのオフィシャルフォトグラファーのようなことをやっていて、駒場でレッズの試合があるときは、だいたいいつも写真を撮りに出かけていた。

 その頃のレッズで一番覚えていることは、というかほぼこれしか覚えていないのだけれど、とにかくレッズは弱かったということだ(まあ今もあまり強くはないけれど)。

 スタジアムのゴール裏、特に南東のコーナー付近に陣取ったサポーターたちは、いつも試合前から殺気立っていた。

 おい、お前ら、わかってるよな、オレらの応援で勝たせるんだよ!

 試合前、コールリーダーはそんなセリフで仲間を鼓舞していた。でも、そんな熱い応援も虚しく、チームは不甲斐なく負けた。

 キレたサポーターたちは時々暴走した。発煙筒をピッチに投げ込み、その発煙筒の消化用の水もぶちまけ、目の前に群がるカメラマンには唾を吐き、試合終了1時間後には選手バスを囲んでいた。 

 てめえら、やる気あんのかよ!

 自分たちの応援で勝たせるって言ってたじゃんか。僕はそんなふうに考えたりもしたが、まあ、あの当時の浦和レッズは誰が応援してもたぶん勝てなかったと思う。

 長谷部誠が入ってきたのは、そういうチームだった。

高2の冬から目をつけていた

 なんで彼はよりによってあの頃の浦和レッズに入ることを決めたのだろう?

 よほどの物好きなのか? 弱いチームならすぐにレギュラーになれるから? あるいは、まだ誰も知らない藤枝東高校のミッドフィールダーには、そもそも選択肢そのものがそれほどなかったのかもしれない。

 当時浦和レッズのスカウトを務めていた宮崎義正(現三菱重工浦和レッズレディースの部長)によれば、長谷部に目をつけたのは2000年の12月、静岡県の国体選抜チームの合宿だったのだそうだ。面白い子がいるから一度見てみれば? 静岡サッカーに詳しい知人からの情報が始まりだった。

 そこから2カ月、宮崎はほぼ即決で長谷部の獲得に動き、翌年5月の連休明けには長谷部自身と直接話す機会を得た。その時点でもう一チーム、名古屋も長谷部に興味を示していたが、長谷部は最終的に浦和を選んだ。

 スカウトの宮崎自身が藤枝東のOBだったこと、最初に声をかけてくれたのが浦和だったこと、まあそこにはきっと長谷部誠っぽい理由があったのだろう。

 そして、ここが長谷部誠の凄いところだと思うのだけれど、彼がプロのキャリアを浦和レッズからスタートしたことは、結果的に200%正しい選択だった。

浦和レッズの「黄金時代」だった

 2002年、前任のブラジル人監督の後を継いで浦和レッズを率いることになったのは、オランダ人のハンス・オフトだった。ドーハの悲劇からすでに8年、ピッチを離れればチャーミングな人だったが、ピッチ内では相変わらず手堅い戦術を重んじる、厳格な監督だった。

 2002年、その年をスタート地点として浦和レッズは徐々に上昇軌道を描き始め、その後6年間でナビスコ杯、Jリーグ優勝、ACL優勝とタイトルを総なめにする(監督はオフトからブッフバルトそしてオジェックへと変わった)。

 ヴォルフスブルクへ移籍するまでの間、20代前半の長谷部誠は一人の若者が経験できるであろうほぼ全ての成功体験(といくつかの苦い体験)を手に入れることになる。

 日々の練習で周りにいるのは、田中マルクス闘莉王、小野伸二、三都主アレサンドロ、エメルソン、ポンテ、ワシントン、鈴木啓太……公式戦よりも紅白戦の方が大変な環境は、元々長谷部の中に眠っていた才能を一気に引き出した(ちなみに、浦和レッズが2006年にJリーグ優勝を決めたガンバ大阪戦でベンチに座っていたのは、都築龍太、坪井慶介、相馬崇人、小野伸二、永井雄一郎、田中達也、岡野雅行、全員が日本代表〔候補〕経験者である)。

山田暢久は神奈川で監督をしている

 今回の記事では、その6年間で当時のチームメイトだった、山田暢久、永井雄一郎、田中達也、の3人に、当時の長谷部誠にまつわるエピソードを聞かせてもらっている。

 『心を整える。』を読んでもわからない、3人が語る若き長谷部誠のエピソードも面白かったけれど(雑誌を読んでください)、彼と同時代に浦和レッズの栄光を共に築いた彼らの「今」も同じように面白かった。

 長谷部がレッズに入団した年から19年が経った今、山田暢久は神奈川県社会人一部リーグに所属する「イトゥアーノFC横浜」の監督をつとめている。

 レッズ一筋で20年、山田は誰からも愛されたレジェンドだった。やるときはいつも80%の出力、時に「お前もうちょっと本気で実力出してくれよ」というプレーを見せることがあったが、元々がとんでもない才能と身体能力の持ち主だったから、80%でもすごい選手だった。その点では、いつも100%で挑んでいた長谷部とは好対照だ(ちなみに山田も長谷部と同じ藤枝東高校の出身である)。

 その天才が浦和でもなく地元の藤枝でもなく、神奈川県の戸塚という土地で子どもくらい年の離れた選手を相手にサッカーを教えている。

「え? その動きから教えなきゃいけねえの? って感じですよ」

 だったらオレが自分でやった方が話は早えなと、昨年には選手に復帰したが、早々に膝を痛め今年1月には前十字と半月板の手術を受けた。

 浦和レッズでの現役時代にはケガとはほぼ無縁、肉体にメスを入れるのは人生で初めてだった。

「やっぱさあ、ウォーミングアップって大事だな、って」(おいおい、笑)

永井雄一郎は42歳の現役プレーヤー

 永井雄一郎は浦和を出た後、清水エスパルス、横浜FC、アルテリーヴォ和歌山、ザスパクサツ群馬でプレーを続け、今現在は解説者の仕事をこなしつつ神奈川県リーグの社会人クラブチーム「はやぶさイレブン」でコーチ兼プレーヤーとしてサッカーに関わっている。

 浦和時代の永井は長髪をなびかせタッチラインを疾走し、ゴールを決めれば感情を爆発させた。と同時に、ベンチに座らされ、試合に出る機会を与えられなければ、たとえチームが優勝を決めてもさほど喜びもしなかった。

 ある意味でとても自己中心的で難しい若者だった彼が(まあサッカー選手なんてみんな難しいんだけど)42歳になった今、こんなセリフを熱く口にする。

「42歳でも現役でやらせてもらっているというところに関してはもっと突き詰めたいし、ちゃんとその経験や学びを理論だてて、下の子たちにも還元していかないといけないです」

 人はみんなちゃんと大人になる。

J2の田中達也が思い出す“無名の”長谷部誠

 そして、田中達也。その切れ味鋭いドリブルとサッカーに対する情熱で、サポーターの中では一際人気者だったスーパータツヤは、J2のアルビレックス新潟で現役を続行中である。『心を整える。』の中にも出てくるが、田中達也は浦和レッズ時代長谷部が最も仲良くなった選手だった。

「あいつね、ああ見えてすぐにキレますから。練習でシュート外して、下手すぎだろってからかわれても、言葉の使い方間違えて、馬鹿じゃね?って突っ込まれても、すぐ怒り始めるんです」

 年齢もほぼ同じの旧友が今でもブンデスリーガの第一線で活躍している。仲良しであるが故に、その存在は昔も今も強烈に意識する。

「ハセがオレのことどういうふうに思ってるかは知りません。あいつのいるレベルとオレのいるレベルが全然桁違いなこともわかってます。でも、ハセは自分がプレーしている活力というか、あいつがやってるならオレはまだ負けれねえわ、辞めれねえわ、っていう気持ちは常に持ってますよ」

 それぞれが思い出す、長谷部誠とはどういう若者だったのか? 答えは三人三様、もしかするとそれは皆さんの知らない長谷部誠だったりするかもしれない。

 そうそう、一つ思い出した。 

 あれは2011年の9月、ウズベキスタンのタシュケントで行われたワールドカップ予選だった。日本は前半に先制され、後半に追いつき、試合は1−1の引き分けに終わった。ウズベキスタンは手強い相手だったが、日本は勝ちに行って引き分けた、そんな試合だった。

 試合終了後、やや視線を下に向けて歩く選手たちの先頭に立って、スタンドの片隅で応援してくれていた日本人サポーターたちのところへ向かう長谷部キャプテン。その前に立ち塞がって写真を撮ろうとする僕たち日本人カメラマンに向かって、彼は珍しく激しい口調で、手のひらを左右に大きく振りながら、「どいて!どいて!」と叫んだ。

 ああ、だから彼は仲間から信頼されるんだな、怒鳴られながらそう感心した記憶がある。

文=近藤篤

photograph by Atsushi Kondo