長嶋、王、バースから古田、桑田、清原まで……球界を彩った24人のスターたちは「最後の1年」をどう過ごしたのか? 去り際の熱いドラマを描いた『現役引退――プロ野球名選手「最後の1年」』(新潮新書)が発売された。そのなかから、いまやタレントとして大活躍の長嶋一茂の“現役引退”までを紹介する(全2回の前編/後編へ)。

「何が起こったかと思った。エンペラー(天皇)が球場に来たのかと思ったよ」

 1988(昭和63)年4月9日、巨人の助っ人ビル・ガリクソンは、東京ドームで突然起こったすさまじい拍手に、マウンド上で面食らった。8回表二死、ヤクルトの攻撃。ジャイアンツのホーム球場なのに、その巨人ファンも大騒ぎしている。皇族でも来場したのだろうか? 元大リーガーは戸惑う。まさか、代打を告げられて打席に入った背番号3の新人が原因だとは思いもしなかった。この長嶋一茂のプロ初打席は3球目を打ち二塁ゴロに終わるが、4月27日の神宮球場では同じガリクソンから、プロ初安打初本塁打をバックスクリーンにぶち込んだ。異様な大歓声に包まれる神宮劇場。なんと、巨人が勝利したにもかかわらず、試合後のヒーローインタビューには“プラチナボーイ”が呼ばれた。

「ビル、お前さんはそれだけで有名人さ。長嶋監督の息子・一茂にプロ入り第1号ホームランを打たれた投手として、名前が残るよ」

プロ入り初ホーマーを放つヤクルト・長嶋一茂

 数年後、「週刊ベースボール」の企画で元同僚を訪ねたクロマティはそう笑い、メジャー復帰して20勝投手にもなったガリーを茶化す。88年当時のナガシマジュニアへの注目度は、イチ新人選手としては、プロ野球史上最高クラスだった。なにせ日本一有名な男を父親に持つ青年が、そのオヤジと同じ職業に就いたのだ。

野球を辞めた“息子”がヤクルトに入るまで

 87年ドラフト1位で立教大学からヤクルトへ。チームを率いる関根潤三監督とは、一茂が中学1年のときに一緒に大リーグ観戦ツアーに参加して以来の再会。実はヤクルトと大洋の2球団が1位で競合したドラフトの目玉は、小学5年時に一度野球を辞めている。リトルリーグでプレーするも、マスコミの無神経な取材攻勢に嫌気がさしたのだ。だが、中学3年の秋に事件が起きる。

 父・長嶋茂雄が巨人監督の座を追われたのである。男のケジメで辞任と報じられたが、事実上の解任だ。自分は息子であると同時に日本一のナガシマファンだ。オヤジの仇討ちはオレがやる。自著『三流』(幻冬舎文庫)によると、鉛筆やカバンや廊下の壁に「リベンジ」という文字をカッターナイフで彫るという、なんだかよく分からない行動の果てに、一茂は高校から再び野球の道へと戻った。

 もともと体力面は図抜けていた。身長181センチ、握力は80キロを超え、校内で柔道大会があれば圧倒的な強さで優勝してみせた。彼は間違いなく“逸材”だったのである。この「素材としては素晴らしい」という評価は立教大で通算11本塁打を放ち、プロ入りした後もずっとついてまわることになる。均整の取れたマスクに加え、筋骨隆々の肉体でフリー打撃をしたらとんでもない飛距離の打球をかっ飛ばす。ここで大学通算打率が2割台前半なんて冷静な突っ込みは野暮だろう。なにせ、浪人生活を送るミスターに世間がナガシマロスを感じていたところに、“長嶋茂雄の息子”という泣く子も黙る黄金アングルを持つルーキーが登場したのだ。新人類を超える“超人類”とまで称されたスーパースター候補が11月18日にドラ1指名されてから、26日の正式契約までのたった8日間で、ヤクルトの株価は310円高。発行株式数でかけ算すると280億円分も急騰したことになる。「週刊文春」によると、某スポーツ紙は江川電撃引退と東尾修(西武)の麻雀賭博でシーズンオフの駅売り月間販売記録を樹立。ところが、88年前半のカズシゲフィーバーで、あっという間にその数字を塗り替えてしまった。

550万円のソアラを買って「ローンって何ですか?」

 あまりの人気で電車にも乗れず、新人はマイカー禁止という球団ルールも変更された。さっそく550万円の新車ソアラを購入して、報道陣からローンで買ったのか聞かれると、「ローンって何ですか?」なんて聞き返す規格外のお坊ちゃんぶりも披露。春先の底冷えするオープン戦でガスストーブの上にグラブを乗せて温め、ベンチの大爆笑をさらう父親譲りの天然エピソードも報じられ、ペナントレースではなかなか思うような結果が出なかったが、東京ドームでのジュニアオールスターではデビュー17試合で10本塁打を放ったアジアの大砲・呂明賜(巨人)との競演も話題に。メジャー時代は名三塁手で鳴らした同僚のデシンセイからは守備のノウハウを伝授してもらい、グラブの上につける特製リスト・プロテクターをちゃっかり貰った。

©BUNGEISHUNJU

 2年目は、遠征の際にスリッパのまま家から車を運転してきてしまい苦笑いのままバスに乗り込んだり、ロッカーで着替えるふりをしてバナナをもぐもぐ。ナゴヤ球場の雨天練習場でコーチから特打ちを勧められるも、「暑いからやめておきます」なんてあっさり断るマイペースぶりは崩さず、1年目に続いて4本塁打も打率・250へと上昇。この頃のヤクルトは万年Bクラス常連、勝敗よりも広沢克己や池山隆寛がブンブン振り回し、三振かホームランかというのびのび野球が売りで、一茂も明るく元気にプレーを楽しんでいた印象が強い。

ノムさん「あいつは、人のいうことを聞かんから…」

 だが、そんな雰囲気は90年の野村克也監督就任で一変する。

 考える“ID野球”を前面に、プロとして戦う集団へと変貌していくのだ。その流れに完全に乗り遅れ、3年目は自己ワーストの35試合の出場でわずか1本塁打。膨らみすぎた期待は、やがて批判と、あまりに早急なトレード報道へと繋がっていく。3年目を終えた時点で、ダイエー(現・福岡ソフトバンクホークス)やオリックス、さらに華のある選手を求めていた大洋ら複数球団が興味を示した。ノムさんには金田正一が「週刊ポスト」の企画で直撃しているが、「すべてなりゆきのまま、何も考えとらん……珍しいやつや」とか「(しみじみと)あいつは、人のいうことを聞かんから……」なんてほとんどサジを投げられる始末だ。

 さすがに危機感を覚えた背番号3は、92年自主トレで当時中日の落合博満に自ら電話をかけ、西伊豆3泊4日の弟子入りをする。まずは一茂の緊張をほぐすため落合夫妻は隣町のパチンコ屋へ。しかし、ギャンブルをまったくやらないお坊ちゃん育ちのジュニアはどうしていいか分からない。夜はアドバイスされたことをレポート用紙にまとめていたら、長男の福嗣くんに次々に破られ、何度も書き直すハメに。それでもあの一匹狼のオレ流打者が、「純粋な気持ちが最高。きっと伸びるよ」とやさしい言葉をかけている。

©BUNGEISHUNJU

 しかし、すでにヤクルトに一茂の居場所はなかった。時に陰湿なイジメのようなことをしてくるコーチ陣には我慢の限界だった。プロ5年目のシーズン、周囲の反対を押し切りドジャース1Aのベロビーチへ野球留学。このシーズン、一軍出場は0だったが、ヤクルトは14年ぶりのリーグVを飾っている。そして、オフにはついに長嶋茂雄が巨人監督に復帰するのだ。父子鷹実現に期待が高まる中、巨人の保科昭彦球団代表は獲得に否定的なスタンスを崩さず、一茂もヤクルト残留を直訴して11月7日には年俸1100万円で契約更改。だが、父・茂雄が「今年ダメならユニフォームを脱がせる」と球団サイドを説得して金銭トレードでの獲得が決定した。

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文=中溝康隆

photograph by JIJI PRESS