その強さは単なる世界王者の肩書を超越し、周囲に影響を与え、周囲から求められる存在となった。WOWOWで生中継される次戦のダスマリナス戦、その先の4団体制覇の向こうに彼が見据えるものは?
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 シャープに削られたアゴのラインが、試合が近づいていることを教えてくれた。6月19日(日本時間20日)、ラスベガスでの防衛戦が決まった井上尚弥が都内のスタジオに現れたのは5月上旬のこと。試合まで1カ月半という段階で、その肉体はかなり絞られているように感じられた。

 挑戦者は井上が保持するバンタム級のWBAスーパーとIBF王座のうちIBFのランキング1位、フィリピンのマイケル・ダスマリナスだ。舞台は2試合連続でアメリカの大手プロモーション、トップランクが主催するラスベガス興行のメインイベント。日本人選手としては過去に例を見ない快挙と言えるが、周囲の興奮をよそに、世界で“モンスター”と称される絶対王者の反応はいつも通りクールだった。

「まあ、こういう状況(コロナ禍)なのでアメリカでの試合になりましたけど、それに関して思うところはないですね」

「相手に何もさせず、圧倒的に勝つだけです」

 そしてこう続けた。

「相手はランキング1位の選手ですけど、その先を視野に入れています。この試合の次に統一戦ができる可能性はかなりあると思ってるんです。だから今回は相手に何もさせず、圧倒的に勝つだけです」

 ダスマリナスと日本の関係は深く、かつてWBCバンタム級王座を12度防衛した“神の左”こと山中慎介のスパーリングパートナーを務め、2019年には弟の拓真のパートナーとして大橋ジムに通ったこともある。

 挑戦者の紹介が試合ではなく、練習パートナーとしての実績というのだから物足りない印象は否めない。井上は老舗ボクシング専門誌「ザ・リング」の全階級の選手を順位付けしたパウンド・フォー・パウンド・ランキングで長く2位にランクされている。両選手の格の違いは明らかだ。

「今はみんな統一戦を望むようになりました」

 それでもなお、井上は今回の試合を前に「モチベーションは高い」と言い切った。「勝って当たり前」と言われる試合であっても、微塵も気を緩めないのが井上だ。加えて今回は、この先に見据えるバンタム級の主要4団体制覇という揺るぎない目標が大きなパワーを生み出している。

 世界にはメジャー4団体があり、WBAとIBFを保持する井上にとって残るはWBCとWBOということになる。世界王者が4人いるという状況は、「いったいだれが一番強いの?」という素朴な疑問を常に生み出す。だから井上は唯一無二のチャンピオンを目指す。デビュー以来、一貫してこだわってきたことでもある。

「(対戦する相手は)強い選手と、強い選手と、というのは常々言ってきましたからね。昔は世界チャンピオンが普通にランカーと防衛戦をするのがボクシング界の常識でした。それを変えたいという思いはありました。今はみんな統一戦を望むようになりましたし、日本選手の意識もだいぶ変ってきたんじゃないかと思います」

 チャンピオンが強い挑戦者を迎え撃つ。それは選手のやりがいを満たすだけでなく、ファンにとっても喜ばしいことは言うまでもないだろう。

今回の試合はヴァージンホテルズ・ラスベガスでの開催。井上は再びメインイベンターだ ©Getty Images

最初からスーパースターだったわけではない

 振り返れば井上が初めてライトフライ級で世界チャンピオンになったのが2014年4月のこと。あれからもう7年が、プロデビューからは8年8カ月がたった。

 今や世界屈指のトップファイターとなった井上とて最初からスーパースターだったわけではない。世界で影響力を持つ選手になるまでには実に気の長い、地道な努力があった。

 初めて世界チャンピオンになったとき、井上は周囲の反応を「こんなものか」と感じた。思っていたほどは注目されず、世界王者の存在を知らない人も多かった。

 ライトフライ級からスーパーフライ級にクラスを上げて2階級制覇を達成したのは'14年暮れのことだった。このクラスでは王座を7度防衛し、知名度も上げたが、それでも満足にはほど遠かった。

「スーパーフライ級は長く防衛しましたけど、じゃあどんな相手と対戦したかと言えば……振り返るとちょっともったいなかった気がしますね」

ボクシングの試合そのもので人々を魅了したい

 防衛回数が長くても、KOの数が多くても、それが評価に直結する時代ではなくなった。試合の価値を高めるためには対戦相手の質が重要であり、好選手と試合を重ねなければ王者としての価値は高まらない。

 ところが「強い選手と試合がしたい」と願っても、これがなかなか簡単ではないところが難しい。世界チャンピオンになれば、周囲のさまざまな思惑が渦巻き、本人の希望が必ずしも通るとは限らないのだ。

 たとえば政治的な力学が好選手との試合を許さないこともある。高額なファイトマネーがマッチメークを困難にさせることがあるし、放送プラットフォームの違いが障壁になることもある。そもそもその選手に人気を含めた“実力”がなければ周囲を動かすことは難しい。井上自身、スーパーフライ級時代は統一戦を望みながら、それをかなえることはできなかった。

 価値を高めるためには、拳以外の力が必要になることもある。さまざまなプロモーション活動を通して名前を売ることはその一つだ。しかし、井上はテレビのバラエティー番組に出たり、熱心にSNSを展開したり、ということにあまり関心を示さなかった。まったくしないわけではないが、あくまでボクシングの試合そのもので人々を魅了したいという気持ちが強かったのだ。

「そこのところは今でも変らないですね。それが時代に合っているのかと言えば分からないですけど」

「無理して階級を上げようとは思っていない」

 井上は己の拳に磨きをかけ続けた。そして'18年、WBSS(ワールド・ボクシング・スーパー・シリーズ)という各団体の王者、元王者を集めた世界一決定トーナメント開催という幸運に巡り会う。これに優勝した井上の名声は断然高まり、ついに理想に近いポジション、つまりは大きな舞台でだれもが認める選手と拳を交えることができる、という地位を手に入れたのである。

 他団体チャンピオンが統一戦を望む井上に激しく反応しているのはその証拠と言えるだろう。現在はバンタム級だけでなく、一つ上のスーパーバンタム級のチャンピオンまでがモンスターにラブコールを送るようになった。

「もうバンタム級には敵がいないから階級を上げろみたいな雰囲気はありますけど、無理して上げようとは思っていないんです。適正な階級じゃなければ意味がないし、まずはバンタム級で4団体統一です。スーパーバンタム級に上げるのは来年、再来年……どうなんでしょうね」

「無観客でやったら100%勝ちます」

photograph by Kiichi Matsumoto

 井上の影響力は今や絶大だ。近年、日本人ボクサーへの海外からのオファーが増えている。それはモンスターのパフォーマンスが日本人ボクサー全体の評価を高めていることが理由の一つだろう。

「無観客でやったら100%勝ちます」、という井上のセリフに心を震わせたのはスポーツクライミングの東京オリンピック金メダル候補、楢﨑智亜だった。「ああ、カッコいいなと思いました。イレギュラーな要素を排したら必ず自分が勝つ。そう言い切れるまで実力を高めたい」(Number1025号)。井上という存在はボクシングの枠を超え、他競技のトップ選手にも影響を与えるようになっているのだ。

 そんな井上が昨年からちょっと気になる発言をするようになった。現役生活が折り返し地点を迎えたと言うのである。そして引退の年齢を35歳と区切ってもみせた。

「ゴールは決めておこうかと思っているんです。目標がこのタイトルを獲るとか、何階級制覇するとかじゃ、いつか達成するじゃないですか。だから年齢をゴールにして、そこまでしっかりやろうと考えているんです」

 圧倒的な勝利を重ねながらも、日々のハードなトレーニング、極度の緊張を強いられる試合を重ね、井上の体もノーダメージというわけにはいかない。最近は、追い込んだ翌日に以前に比べて疲れが抜けきらない、という変化も感じるようになってきた。

「ライト級はないです。そこは分かります!」

 もし現役生活が35歳までだとすれば残された期間はあと7年。当面の目標はバンタム級の4団体制覇で、次にくるスーパーバンタム級進出まではうっすらと見えている。では、さらにその先にはどんな世界が広がっているのか。最終的にはライト級あたりでファイトする可能性もあるように思えるのだが……。

「いや、それは絶対にないです。先のことは分からないですけどライト級はないです。そこは分かります!」

 苦笑いしながら強く否定したかと思ったら、さらりとこう付け加えるのだ。

「まあ、5、6年前にバンタム級でやるなんて思ってもいませんでしたけどね」

 この先、モンスターが何をしでかすのかは本人さえも分からない。それはファンの楽しみであり、井上の楽しみでもある。

井上尚弥vsマイケル・ダスマリナス 6月20日(日)午前10時30分〜、WOWOWプライムで生中継

文=渋谷淳

photograph by Kiichi Matsumoto