発売中のNumber1029号阪神タイガース特集「猛虎新風伝」では、怪物ルーキー・佐藤輝明ら現在、快進撃を続ける阪神の選手たちのインタビューに加え、阪神に過去吹き荒れた「新風」にまつわるノンフィクションも掲載。2001年、野村克也が命名した「F1セブン」の当事者たちに話を聞いた中で、本編に書ききれなかった「F1セブン」その後のエピソードをご紹介します。

 阪神タイガースのユニフォームを着た陣内智則が切り出した。

「F1セブンって覚えてます?」

 すると、スタジオ内にいた芸人たちから一斉に「あぁ〜」「おぉ〜」とどよめきが起こった。そして陣内は、「F1セブン」のメンバーを指折り列挙する。

「赤星(憲広)、藤本(敦士)、上坂(太一郎)、沖原(佳典)、平下(晃司)、高波(文一)、松田(匡司)……。《F1セブン》って言ったら、他の5球団が警戒するわけですよ……」

 画面上には赤星から松田まで、「F1セブン」と呼ばれた7選手の顔写真が1人ずつ表示されていく。2001(平成13)年、当時阪神の監督3年目を迎えていた野村克也が命名した「F1セブン」は俊足選手7名を並べた阪神の秘策だった。陣内が続ける。

「……ただ、ホンマに速いのは赤星だけなんです。パワプロで見たら、平下とか、走力Eなんですよ(笑)」

セ・リーグ新人王に選ばれてニッコリのF1セブン「1号車」赤星憲広。2001年、ルーキーだった赤星は39盗塁で盗塁王にも獲得

 その瞬間、スタジオ内は爆笑に包まれ、赤星以外の6選手の顔写真が、一瞬にしてカラーからモノクロへと変わっていく――。2020(令和2)年4月23日オンエアのテレビ朝日系『アメトーーク!』の一場面だ。この日は、「ありがとうノムさん芸人」と題して、野村克也追悼企画が放送されていた。この放送から1年以上が経過した今、番組内でも紹介された高波が苦笑いを浮かべる。

「僕と赤星だけが5秒台で、あとは6秒フラット前後だった」

「今でもF1セブンを取り上げていただけるのはありがたいし、嬉しいですよ。野村さんが亡くなられて、『アメトーーク!』でも紹介されました。陣内さんにはディスられたけど、僕らも速かったんですよ。確かに赤星は頭抜けていたし、誰も彼には勝てなかったけど、赤星だけカラーで、僕らを白黒写真にすることはないのにね(苦笑)」

 01年春のキャンプで突然誕生した「F1セブン」は、その年のオフ、野村の退陣とともに自然消滅した。しかし、そのインパクトは大きく、野村亡き後も、話題に出ることも多い。現在は福岡ソフトバンクホークスの選手寮副寮長であり、怪我をした選手のリハビリスタッフも務める高波は言う。

「報道陣との雑談の中から誕生したF1セブンでしたけど、その翌日にはさっそく50メートルのタイムを計ることになりました。僕と赤星だけが5秒台で、あとは6秒フラット前後だったと思います。もう20年も経ったのに、いまだに“F1セブンの高波さんですね”って言われます。メディアも巻き込んでの宣伝効果というのかな。野村さんというのは本当にすごいですね」

 新庄剛志が海を渡った後の話題作りに躍起となっていた野村克也。阪神監督としては就任した1999年から3年間ですべて最下位に終わった。それでも、高波は言う。

「結果は3年連続最下位でしたけど、僕自身は“野村さんでもダメなのか”という思いは何もなかったです。実際に野村さんが獲得した選手たちが主力となって、星野(仙一)監督時代に優勝しているわけですからね」

濱中、赤星、上坂で「平成の新少年隊」

 現在は不動産会社に勤務する上坂太一郎も懐かしそうに、当時のことを振り返る。

「僕は、野村監督のことが大好きでした。チャンスをたくさんもらいましたし、野村さんがもう少し続けていたら、全然違った野球人生だったんじゃないのかなって思います。野球界からは離れたのに、今でも、F1セブンのことを言われます。何だかこそばゆいですけど、今となってはありがたいお話ですよね」

 野村の後を継いだ星野監督時代、上坂の出番は少しずつ減っていく。あまり話題にはならなかったものの、2001年に野村は濱中治、赤星、そして上坂の三人を「平成の新少年隊」と称して売り出そうとしたこともある。上坂の口から白い歯がこぼれる。

「単純に男前だったからじゃないですか(笑)? 僕が1番を打って、2番が赤星さん、3番が濱ちゃんっていう並びだったんですけど、最初に聞いたときは、“一体、野村さんは何を言っているんだろう?”って思いましたよ」

 プロ生活はわずか8年に終わった。それでも、「F1セブン」の一員として、上坂の名前を記憶するファンは多い。上坂は恩師である野村にあいさつもできないまま退団したことがずっと心残りだった。しかし、一度だけ生前の野村と対面する機会を得たという。

「亡くなる1年ぐらい前にカツノリさんを通じて、沖原さんと一緒にご自宅に行く機会がありました。普通の会話をしているときには普通の《おじいちゃん》なのに、いざ野球の話になると、たちまち《監督》になるんです。目つきも変わるし、話している言葉も一つ一つがカッコいいんです。ご高齢であっても、野球の話になると監督に戻る。それが、印象に残っていますね」

「僕はF1セブンで一番遅かったと思います(笑)」

 阪神時代に野村の下に仕え、後に楽天時代にも野村監督の下でプレーした沖原佳典。現在は古巣、楽天のスカウトを務めている。

「赤星を筆頭に、F1セブンの中に僕も一応、名前を入れてもらっていたんですけど、僕自身は、まぁ遅くはなかったけど、あの中で言えばそこまでの速さはなかったんです。田中秀太には、“沖原さん、そんな速くないのに何で入ってるんですか?”って言われていました。実際、僕はメンバーの中でも一番遅かったと思います(笑)。監督の意図としては、そうやってまずは選手たちを売り出すと同時に、足を使う野球をするんだっていうことを、他球団にアピールしていたんだと思いますね」

 高波、そして上坂同様に、沖原もまた、「F1セブンはいつ終わったのかはよくわからない」と笑った。

「始まりはわかるけど、いつ終わったのかは僕が聞きたいぐらいですよ(笑)。F1セブン自体は野村さんが退団されたときに消滅したけど、こうして取材を受けたり、“F1セブンのメンバーでしたよね”と今でも言われます」

「プロに誘ってすまなかったな」

 沖原は大学、社会人を経て野村の最終年となる01年に阪神に入団した。ドラフト指名において、野村の強い推薦があったという。沖原は28歳のオールドルーキーだった。生前の野村は、ずっとそのことを気にかけていたという。

「現役時代はそんなことはなかったんですけど、僕が引退してからはお会いするたびに、“社会人ならば安泰だったのに、プロに誘ってすまなかったな”と言われました。亡くなる前年にご自宅にお邪魔したときにも、そう言われました……」

 感慨深げに語る沖原の手元には、阪神時代の「野村ノート」が大切に置かれている。

「現役時代よりも、引退後コーチになったときに、このノートのすごさ、ありがたみが理解できました。本当に、僕にとっての宝物です」

 01年シーズンに突然誕生し、その年限りで自然消滅した「F1セブン」。チームは最下位に終わり、野村は退任した。決して目覚ましい成果を挙げたわけではなかったものの、あれから20年のときを経てもなお、当事者たちにはそれぞれの「F1セブン」の思い出が息づいている。そして、冒頭で紹介した陣内智則だけでなく、多くの野球ファンの記憶に刻まれているのは間違いない事実である。

文=長谷川晶一

photograph by Sankei Shimbun