今季、初戦となった5月31日の100mは10秒25。追い風3.6mの条件を考えれば残念なタイムだった感は否めない。しかしサニブラウン・アブデルハキーム(タンブルウィードTC)はその初戦後の代表記者会見でレースの収穫と課題を聞かれ、こう答えた。

「レースに挑むためのウォームアップやそれまでの段階自体も久しぶりだったので、気持ち良く走って、ケガがなければ今回の試合はそれでいいのかなと思っていたので。レース自体はあまり良くはなかったのかなと思うけれど、久しぶりに気持ち良く100mを走れたので自分的にはプラスかなと思います」

試合の少なさを不安視する声もあるが……

 その言葉からうかがえるのはポジティブな自己評価。2019年10月のドーハ世界選手権以来約1年7カ月ぶりとなるレースだったが、試運転としては上々といった感触を匂わせた。

 すでに100m、200mで東京五輪参加標準記録を突破しており、日本選手権では3位以内に入ればどちらも代表入りが決まるが、100mは今季この1本だけ。200mにいたってはレースを走っておらず、試合の少なさを不安視する声もある。だがその点も彼は意に介していない。

「試合に出て体を作っていくのもありと言えば、ありだと思うんですけど、練習でしっかり走れていれば試合で問題ないというのは2017年のシーズンで分かったので、そこに関しては心配はしていないです」

今季初レースとなった米フロリダ州の陸上競技会で100mに出場し、10秒25を記録 (C)KYODO

「ピーキングはあくまでオリンピック」

 ちなみに2017年は彼の飛躍の年。日本選手権では本命視されていない中で100m、200mの2冠を獲り、そこから試合を挟むことなく挑んだロンドン世界選手権では200mで史上最年少となる決勝進出を成し遂げ、7位入賞している。大舞台に向けた仕上げ方には確固たる自信があり、それは今も揺らいでいない。

 泰然自若というべきだろうか。初戦後の会見の言葉だけでなく、それ以前のレースを走っていなかった間もサニブラウンの発言は常に落ち着いていた。

 シーズン前の3月、彼に直接話を聞く機会があった。来たる東京五輪で掲げた目標は100m、200m、そして4×100mリレーすべてで金メダルを獲得すること。では世界中の注目が集まる100mでの目標達成のためにどんなプロセスを歩み、途中でどのくらいの記録を出しておきたいか。そう質問すると彼は一笑に付すかのようにこう答えたことが印象的だった。

「想像すると気持ちが昂ってしまう」

「考えたこともないですね。オリンピックの舞台で速く走れればそこまでは正直、どんな形でもいいと思っています。ピーキングを持っていくのはあくまでオリンピック。それだけです」

 目指すオリンピックのファイナルについても「想像すると気持ちが昂ってしまうので、あまり考えるのは良くないかなと思います。自分にできることを積み上げ、毎日コツコツと課題をクリアしていく先にあるのだと考えています」と自然体で準備を続けると語っていた。東京五輪までは結果に一喜一憂しないという姿勢もブレていない。

9秒台の強豪たちと共に練習

 落ち着きの背景にはここまでのトレーニングが順調だったことも大きい。2019年11月にプロ転向し、2020年8月に現在のタンブルウィードTCへと練習拠点を変更。2017年に師事していたレイナ・レイダーコーチの指導を再度仰いでいる。

 当初、コーチからは「以前より重心が下がり過ぎている」との指摘を受けたというが、それも今は高く維持できるまでに改善した。また課題としていたスタートも動きにばらつきをなくすために再現性を高める練習を続け、5月のレースでもその成果を垣間見せている。

 2019年に当時の日本記録、9秒97を出した時に「間延びしてしまった」という60m以降の走りも腕振りを重視しながら、ストライドをコントロールする取り組みを続けている真っ最中だ。

 5月のレースではこの最後の部分こそ発展途上の印象を受けたが、そこまでは決して悪い動きではなく、本人も「最初の部分は2019年と比べても、結構いいスタートの出方ができていたので、そこは練習通りにできていて良かったなと思います。強みの後半もバラけて失速してしまうところが少しずつ直ってきているので、そこをもう少し伸ばせたら」と一定の手ごたえを口にした。

 ちなみにタンブルウィードTCにはリオデジャネイロ五輪で100m銅メダル、200m銀メダルのアンドレ・ドグラス(カナダ)、今季100mで9秒77の世界歴代7位で走っているトレイボン・ブロメル(アメリカ)がおり、練習を共にしている。しかしアドバイスを受けることはあっても、彼らを目標やライバルとして考えたことは一度もないと話す。目指すのはただ自分の走りを磨き、試合で発揮することのみ。彼はそういう選手なのだ。

「スポーツは何ができるのか」と自問自答

 この1年半余りで走り以外でもサニブラウンに大きな変化が生まれた。プロに転向し、コロナ禍に見舞われる中、次世代のアスリートへメッセージを送り、自分を応援してくれるファンへの恩返しをするプロジェクトに関わるなど、積極的に周囲とのコミュニケーションを取ってきた。そして多くのスポーツが無観客で行われている中、「スポーツは何ができるのか」と自問自答を繰り返してきたという。

「競技はアスリートだけでは成り立たない。応援してくれるファン、運営してくれるスタッフがいるからこそのスポーツだと身に染みて感じました。だからこそ頑張っている姿を試合で見せることが大切だと思っています」

「絆」と記されたニュースパイクで金メダルを

 プロとしての自覚が生まれ、意識も行動も変わったということだろう。そしてそれに周囲も応える。今回の東京五輪、リレーの予選と決勝で履くために契約を結ぶプーマから「HAKIM KIZUNA SPIKE」と銘打たれたカスタムスパイクが提供されることが決まっている。ソールには漢字で「絆」の文字が記され、日の丸もあしらわれた。応援してくれるファン、リレーをともに走る仲間とのまさに「絆」が表現されている。

「自分のためにカスタムスパイクを作って頂けるっていうのは世界のトップアスリートでもなかなかないですし、とてもありがたいこと。サポートしてくれる方たちの気持ちを感じますし、自分がこれを履いてファイナルで走れば、皆さんをその舞台に連れていくことになります。そこで何としても金メダルを取りたいと今まで以上に思うようになりました」

 自分には背負うものがあるのだ。この22歳はそう話した。

(C)UDN SPORTS

日本選手権、出るからには2冠を目指す

 日本選手権を前に山縣亮太(セイコー)が9秒95で走り、日本記録保持者の称号は失った。だがここまで見てきた通り、周囲の状況に流されていない彼だけに、その点も気にはしてはいないはずだ。目指す高みはさらに上にある。100m、200mに出場予定の日本選手権、予選からラウンドを上げていくごとにレース勘を取り戻し、走りを磨いていくだろう。

「練習はしっかりできているので、そこを試合で出せるかどうかのところ。いい予行演習なのでいかに他の選手にとらわれずに自分の走りができるかを試せる機会なのかなと思います。出るからには2冠を目指してオリンピックに向けていいスタートが切れれば」

 見据えるのはただ7月の東京の舞台。そこでの頂点だけが今の彼の興味だ。

文=加藤康博

photograph by UDN SPORTS