「私の名前は、リストに載っていないことが判明した。ということは、私は行かないということ」

 そんな禅問答めいた物言いで、グランドスラム通算23回の優勝を誇るセリーナ・ウィリアムズが東京オリンピックへの不参加を表明したのは、ウィンブルドン期間中のことだった。

「決断の理由は色々あるけれど、今は話したくない。いずれ、話せる日が来るかも」と報道陣を煙に巻いたが、以前から、家族を同伴できない可能性を懸念してきた彼女である。今や、3歳になる愛娘の母である“4つの金メダリスト”にとって、東京に足が向きにくいのは、十分に理解できることだった。

 このセリーナを筆頭に、テニス選手の北米勢には、オリンピックを辞退する向きが強い。

©Getty Images

 テニスのオリンピック参戦資格は、6月14日時点の世界ランキングによって決まり、一カ国の上限は4人までと定められている。

 だが、来日するアメリカ代表の男子トップランカーは、国内4番手のトミー・ポール。

 女子でも、国内ナンバー1で世界4位のソフィア・ケニンを筆頭に、セリーナやマディソン・キーズらが出場を辞退している。またカナダでも、男子国内1位のデニス・シャポバロフは早々に不参加を表明。女子ナンバー1のビアンカ・アンドレスクも、ウィンブルドン後に出場辞退を発表した。

トップ選手が「五輪を回避して」北米大会に出る理由

 テニスプレーヤーたち……とりわけ北米を拠点とする選手たちが東京行きに二の足を踏む訳は、プロツアーのスケジュールとランキング構造にある。

 テニス選手たちは、世界各地を転戦しながら年間で20〜25ほどのトーナメントに参戦し、戦績に応じてランキングポイントと賞金を獲得する。

 そのポイントと賞金の両面、そして格式や栄誉的にも、大会群の頂点に位置するのが“グランドスラム”もしくは“メジャー”と呼ばれる四大大会。四大大会は毎年行われるが、ランキングポイントは原則1年で消失するため、1大会とも無駄にはできない。

 オリンピックの開催時期は、テニス界の“シーズン”で言えば、全仏オープンとウィンブルドンの欧州シリーズが終わり、8月下旬の全米オープンに向けた、季節の変わり目にあたる。全米オープンを重要視する選手ほど、いち早く北米入りして前哨戦シリーズに出場し、気候やコートにも慣れておきたいところだ。

 とりわけ、上昇気流をつかみたい若手、あるいはキャリアの終焉に近づきつつあるベテランほど、そのような思いは強いだろう。オリンピックではランキングポイントが付かないことを思えば、なおのこと。

 21歳を迎えたばかりのセバスチャン・コルダは、「父とエージェント、そしてアンドレ・アガシとも話し合い、今の自分にとって最良なのは、北米シリーズに集中することだという結論に至った」と言った。現在47位のコルダは、元世界2位のペトル・コルダを父に持ち、今季は元世界1位のアガシをアドバイザーにつけて急成長を遂げている。オリンピックを飛ばしてでも、この夏にさらなるランキングアップを狙うのは、テニスツアーの文脈からすれば妥当な判断だ。

なぜ東京五輪は「ランキングポイント」が発生しないのか

 かくも選手にとって重要なランキングだが、それを左右するランキングポイントがオリンピックで得られるか否かの背景には、国際テニス連盟(ITF)と、プロツアーの運営団体であるATP(男子)およびWTA(女子)との綱引きがある。

 オリンピックで主導権を握るITFは、なるべくトップ選手に参戦してほしい。だが、オリンピックと同時期、もしくはその直前直後に開催されるATPやWTA主催のツアー大会にしてみれば、オリンピックのせいでスター選手の参戦が減り、結果的に収入も減少する。そこで達した合意点が、ITFがATPとWTAに損失分を払い、その見返りとして、ATPとWTAはオリンピックにランキングポイントを与えるという取り決めだ。

 だが、その持ちつ持たれつの関係性も、2012年のロンドン大会を最後に終了。その理由は、選手間でオリンピックのプライオリティが上がり、対価を払わずともトッププロの参戦が見込めるとITFが考えたから……というのが、WTA関係者から聞いた話ではあるが、真偽は定かではない。

2010年のロンドン五輪で、日本人初となるメダルを獲得した錦織圭 ©JMPA

 いずれにしても、ランキングポイントが無いことは、選手の判断に影響を及ぼしているのは確実だろう。その点に関しては錦織圭も、「ランキングを上げるためには、オリンピックはなかなか優先できない」と、欠場選手たちに理解を示していた。

世界1位ジョコビッチは五輪出場を決断

 プロテニス界におけるランキングポイントの価値を思うとき、思い出されるのが、ノバク・ジョコビッチが口にした「我々にとって、ポイントは通貨だ」の文言である。ITFとATP/WTA間で金銭とポイントがトレードされたことを思えば、まさに言い得て妙の表現だ。

 それほどまでに、ランキングポイントの価値を知るジョコビッチは、悩んだ末にオリンピック出場を決意した。その事実は、国を代表して立つ表彰台の中央が、彼の中で如何に高い地位かを物語る。5年前、キャリアの絶頂期で迎えたリオ・オリンピックの初戦で敗れ、涙をぬぐうことなく歓声に応えコートを後にした時から、今への挑戦は始まっていた。2019年には、オリンピックと同会場の有明コロシアムで開催された楽天ジャパンオープンに初参戦し、「オリンピック会場の様子や気温などを少しでも知っておきたかった」と明言した程だ。

テニス人気が低いギリシャのトップ選手は……

 ギリシャの国旗を背負う男子のステファノス・チチパスや女子のマリア・サッカリらも、五輪への想いは強い。それは、オリンピック発祥の地を自負する国の出身である以上に、国内のテニスという競技に対する理解度に依るところが大きいようだ。

 ギリシャにおいて、テニス人気はもともとそれほど高くなかったという。グランドスラムなどに足を運ぶ取材者も、ギリシャからはたいがい一人だ。

 その唯一と言える記者のビッキー・ヨルガトゥ氏によれば、チチパスは先の全仏オープンでグランドスラム準優勝の快挙を成したにもかかわらず、その戦果は、必ずしも正しく評価されなかったという。

©Hiromasa Mano

「決勝で逆転負けを喫したことで、ステファノスは『メンタルが弱い』『甘やかされて育ったお坊ちゃんだから、根性がない』などの不当な批判を一部から受けた。ウィンブルドンの初戦で敗れた時は、『恥さらしだ』とまで言うテレビのコメンテーターも居た」

 そう証言するヨルガトゥ氏は、「もしステファノスがオリンピックでメダルを取れば、彼のギリシャでの評価は一変するだろう」とも予測した。シングルスでのメダル獲得が期待されるチチパスは、サッカリと組んで混合ダブルスに出ることも公言している。

大坂なおみは16歳のときから「東京で金」

 女子の方で、オリンピックのメダルへの渇望を最もまっすぐ口にしてきたトッププレーヤーは、恐らくは大坂なおみだ。まだランキングが300位前後だった16歳の頃から、「有明コロシアムは自分のホームのように感じる。東京オリンピックで金メダルを取りたい」と夢を語っていた。

「オリンピックに出られることそのものが特別なのに、日本のファンの前でプレーできるなんて、夢のよう」

『TIME』誌に寄稿したコラムで、大坂はそう綴っている。

スポーツ界のアカデミー賞と呼ばれる「ESPY」で、最優秀女子選手賞と最優秀女子テニス選手賞の2冠に輝いた大坂なおみ ©Getty Images

 実際には、無観客が決まったため、有明コロシアムに広がるのは、夢見た光景とは異なる景色だ。最近の「メンタルヘルス」発言等により、望まぬ形で注視を集めながらの戦いになるかもしれない。

 それでも、グランドスラム優勝などの夢は「次の大会で叶えたい!」と性急に追ってきた彼女にとって、東京オリンピックは、長く待ちわびた約束の時だ。

文=内田暁

photograph by AFLO