5月の関東学生陸上競技対校選手権(関東インカレ)で女子三段跳を制した内山咲良は、東京大学医学部医学科の6年生。文武両道を地で行く逸材の素顔に迫るべく、東京五輪選考会でもあった日本選手権直前の6月23日、中学・高校陸上部の後輩である筆者がインタビューを行った。(全3回の前編/中編はこちら)

――勉強でも競技でも人並み外れた結果を残していますが、どんな信念を持って過ごしてきましたか?

内山 中学で陸上を始めた時は、日本選手権に出ようとも出られるとも全く思っていなかったから、今このレベルで陸上を続けているのは予想外なんです。だからあまり一貫して考えていることはないものの、最近よく思うのは、今自分がここにいるのは自分の力だけで実現しているのではないということです。

 例えば大学入学以降に短距離が速くなったのは、コーチに色々教えてもらった結果で、その人がいなければ無理だったと思います。記録が伸び悩んだ大学3年の頃は、同期と「こういう風に走ったらいいのでは」と話し合う中で、自分の跳躍の理論が出来上がってきたこともありました。

 そもそも医学部生でありながら練習ができて、遠征ができて、大会に出られている。これ自体が大学のおかげです。そういうことに気付けるようになってからは、そこに対する感謝を忘れてはいけないと強く思うようになりました。

「全ての歯車が噛み合って急に伸びた試合」とは

高校3年時、和歌山インターハイに走幅跳で出場した(写真は本人提供)

――中学時代は都大会入賞、高校でインターハイ出場、大学では日本選手権入賞とステップアップを続けています。ターニングポイントになった大会は?

内山 人生を変えてきた大会はいくつかあったのですが、中でも印象深いのは高2の秋の都高校新人大会。自己ベストを大きく更新して、初めて関東大会に出ることができました。そこから上の大会に出るという選択肢が見え始めて、インターハイに続く道が見えてきました。

 大学で一番うれしかったのは3年の3月末の大会で、関東インカレの標準を三段跳で切れたときですね。その日は気温4度くらいのすごく寒い大会だったのですが、自分がやってきたことがようやく形になった。それが本当にうれしかったのを鮮明に覚えています。

 4年の春、12m56を跳んだ順天堂大学競技会もとても印象深いです。試合の中で自己記録がどんどん更新されて、自分の中で全ての歯車が噛み合って急に記録が伸びた試合でした。それまでもやもやと努力を続けていたことがようやく形になって、自分の壁を破れた試合だったという点で感慨深い試合でした。

 大学4年生の全日本インカレで13mを跳べたことも大きな意味を持っていたと思いますが、やはり次の大会に繋がるような記録が出て道が開けた大会は、自分の中ですごく印象に残っています。

――そもそも中学で陸上を始めたとき、跳躍を選んだのはなぜですか?

内山 もともと短距離系がいいなと思っていて。確か中学校の最初の大会で、種目の選択肢が100mか走幅跳だったんですよね。100mの日はピアノの発表会があったか何かで出られなくて幅に出ました(笑)。100mは人が多かったし、走幅跳で続けてもいいかなと思える記録が出たので、そこに落ち着きました。

陸上を教養科目みたいな感じで学べた

――中高は陸上の強豪校ではありませんが、どんな練習が今に繋がっていると思いますか?

内山 他の学校の練習について聞くと、ただ走り込むようなしんどすぎる練習をしているところもあると思うんですけど、そうではなくていろいろな動き方を学ぶことができたのは良かったです。

 例えばハードルを使った動き方の練習があったり、自分の種目にこだわりすぎず、いろいろなものをやってみようという姿勢があったり。結果的に動きの引き出しがすごく多い選手になれたかなと思います。そういう意味では最初から"最短距離で結果を出す"ための画一的な練習をするのではなく、中高時代に陸上を教養科目みたいな感じで学べたのは良かったのかなと思います。

――指導者に恵まれたのですね。

内山 そうですね。中学の長岡樹先生、高校の征矢範子先生は共にそういうモットーだったと思います。中学の時は四種競技に取り組んだりする中で、体の使い方を覚えていきました。高校ではさらに、練習の内容を自分たちで考えさせてくれたことで、練習を組み立てられるようになりました。征矢先生には精神面でもかなり鍛えられましたね。当時の私は都大会レベルの人間だったので、その上に繋げるにはどうしたらいいかという考え方がなかったんです。そこについて先生から学んだ部分は大きかったと思います。

漫然と練習するのではなく、具体的な課題と向き合った

――都より上のレベルで戦うためのメンタルとは、その前の段階とどのように違ったのでしょうか?

内山 自分に足りないものときちんと向き合うようになりました。例えばスタートダッシュなど短い距離を速く走る練習が得意ではなかったのですが、高2の夏に一生懸命取り組んだら秋に結果が出たということがあって。漫然と練習するのではなく、具体的な課題と向き合ったのは、高校で記録が伸びた大きな理由だと思います。

 そして2年秋の関東新人大会で入賞したことで関東合宿に呼んでもらえたのですが、そこで自分以上のレベルの選手と一緒に練習しました。自分には足りないものがいっぱいあるなと気づいてからは、より高いレベルに向けて頑張ろうという気持ちになりました。

――自立した選手としての土台ができた時期でもあったのでしょうか?

内山 それは大いにあると思います。先生の指示した練習が絶対だ、という姿勢で従っていたのではなくて、自分で考える余地がかなりありました。大学では先輩方からメニューをもらうこともあるのですが、自分で考えないといけないことも多かったので、その環境には比較的適応しやすかったと思います。

インターハイでの試技の様子(写真は本人提供)

大学に入って「今までのやり方を捨てた」

――では、大学でさらに一皮むけた要因は?

内山 今までのやり方を捨てたことかなと思います。3年の冬に走幅跳から三段跳に変えるという選択をして、練習の内容もかなり大きく変えました。それまでは高校の冬練でやっていた走り込みなどの練習にウエイトを置いていたのですが、記録が伸び悩んでいたところに短距離のコーチから「もっと短い距離で強度の高い練習をしないと、それ以上の結果はないよ」ということを言われて。

 不安もあったのですが、今までのやり方でダメだったんだから大きく変えないといけないなと切り替えて、種目も練習内容も変えるという決断をした結果上手くハマりました。そこで変化に対してひるまなかったことが良かったのかなと思います。

大学3年の終わりに「関カレを狙える」

――三段跳に適性を見出したのはいつですか?

内山 実は高校の関東合宿で「三段跳をやったら?」と言われたことがありました。でも三段跳は当時インターハイの種目になかったので、インターハイを目指すなら走幅跳しかないし、三段跳に軸足を置くのは難しいということでやりませんでした。大学1年の時は体を戻すことが最優先だったのでやらず、2年の時は怪我してしまい、冬練でも跳躍練習を積むことができませんでした。

 だから、3年時も当初は三段跳にチャレンジする余裕がなかったんです。ただ、一度だけお試しで三段跳に出てみたら、思ったより良い記録が出て、「これだったら関カレを狙えるな」と思って3年の終わりから挑戦することにしました。

――ちなみに高校の部活引退後、グラウンドで三段跳の練習をしている先輩を目にした記憶があります。

内山 走幅跳が終わったら三段跳をやってみようかなという気持ちは高校の時からありました。ただなかなか機会がなくて……。大学では対校戦がすごく多くて、チームとして出るので枠を埋めないといけない。100mと走幅跳と、砲丸投か400mのどちらか、リレーの4種目がデフォルトになっていたので、他のことをやる余裕があまりなかったです(笑)。

内山咲良(Sakura Uchiyama)

1997年生まれ、神奈川県出身。東京大学医学部医学科6年。筑波大学附属中入学とともに陸上競技を始め、主に走幅跳に取り組む。3年時に都中学通信7位入賞。同高校3年時に南関東高校総体で3位に入り、全国高校総体への出場を果たした。2016年、国内最難関の東京大学理科III類に現役合格し進学。大学4年時に本格的に三段跳を始め、同年、日本学生対校選手権で準優勝。5年時は日本選手権6位。今季は関東学生対校選手権優勝、日本選手権8位。自己記録は、走幅跳5m78、三段跳13m00。

第2回「東大現役合格に医学、勉強との両立」編に続く。関連記事からもご覧になれます>

文=町田華子

photograph by Kyodo News