13年前の北京五輪で、ソフトボール日本代表を悲願の金メダルに導いた上野由岐子。当時26歳のエースは2日間で413球を投げ抜いた。東京五輪初戦翌日の7月22日に39歳となった上野、13年前の伝説を振り返る(インタビュー編へ)。【初出:『Number』2008年12月25日号】

 偉業と呼ばれるものは、得てしてそういうものなのだろうが、無数の「もし」に満ちている。もし、あのとき――というような。

 そして、いくつものそれを辿っていくと、まるで勝利の女神の「見えざる手」が介在していたかのような錯覚に陥る。

 この夏、北京五輪におけるソフトボールの金メダルもそうだった。

 その中における最大の「もし」。もし、監督が斎藤春香ではなかったら。

 そのことをもっとも感じたのは、アメリカとの決勝戦で、4番ブストスを敬遠した場面だ。エースの上野由岐子が「勝負の分かれ目だった」と振り返った場面でもある。

「監督である私は絶対に出ない」

 試合終了直後に行われた表彰式でのこと。金メダルをかけてもらった選手たちが放送席に向かって叫びながら、金メダルを突き上げる。放送席では、シドニーとアテネで代表監督を務めた宇津木妙子が号泣していた。

 感動的なシーンであると同時に、どこか不思議な光景でもあった。

 宇津木は代表のスタッフではない。だが、所属チームであるルネサス高崎での肩書き同様、代表チームの総監督のように映った。

 そのときに覚えた妙な感覚は以降も、日増しに強くなっていった。翌日、何度となく斎藤や上野の姿をテレビで見た。だが斎藤の声を聞いた記憶がほとんどない。その後もこの快挙は映像や活字で何度となく報道されたが、監督の斎藤の存在が希薄だった。宇津木や、ルネサス高崎の監督である宇津木麗華の方がはるかに露出度が高かった。

 こういう声をしてたんだ――。斎藤に話を聞いたとき、最初に感じたことは、そんなたわいもないことだった。

「周りの人は、もっと前に出ろって言うんです。目立ってこい、と。でも監督である私は絶対に出ないって決めてたんです。武士道が好きというか、青森県人の県民性なんですかね。『自分がやった』みたいのは嫌なんです」

『間違いなく上野を憎んでいます』

 ルネサス高崎に所属する上野は、宇津木の秘蔵っ子と言っていい。そんな上野のことを宇津木は自著『宇津木魂』の中でこう書く。

《私はつねづね、上野のたったひとつの欠点はひとに意地悪をされないところだと思っていました》

 だが、そんな上野がここ2年、代表合宿に行くたびに変化してきたのだという。

《さらに突っ込んで聞くと、ボソボソと不満を述べるようになりました。「ああ、上野変わったな」と私はとても嬉しくなりました。(中略)上野がひとを憎む。ということは相手もまた間違いなく上野を憎んでいます》

 宇津木は話す。

「上野は優等生だったからね。これだけ長くつきあってきて、一度も叩いてない選手なんて上野ぐらいじゃないかな。だから、憎まれて、もまれて、人をけ落としてでも自分を押し通すぐらいの強さを身につけて欲しかった」

 上野の「不満」は、端的に言えば、斎藤に対する不信感だった。

「監督の言動に対し疑問に思うことが多かったんです」

予選リーグでの“小さな事件”

 積もっていたフラストレーションがもっとも顕著な形で表れたのは、予選リーグの中国戦でのことだった。先発していた上野は、最終回、2番手の坂井寛子に交代させられたことに対し不快感を露わにした。

「降板するのが嫌だったわけじゃない。坂井さんにこの場の雰囲気を経験させたかったと言うので、だったらなんでもっと若い選手に投げさせないんだろうって思ったんです。言ってることと、やっていることに一貫性がなかった。だからそのあと、口には出してはいませんけど、態度には思いっ切り出ていたと思います。今考えると、よくあんなことできたな、と思うんですけどね……」

 だが、坂井にスイッチした理由を斎藤に確認すると、上野の話とは異なっていた。

「いかに上野を温存しながら大会後半に持っていくかが勝負だと思っていた。だから1回でも休ませたかったんです」

 ただ、交代させられた坂井も困惑していた。

「上野は終盤、足を引きずりながら投げていた。だから、もっと早くに交代した方がいいと思っていたんです。でも、私は今日は出番はないって言われてたんで休んでいたら、突然、行って欲しいと言われて……」  

 同じ現場にいながら、まるで『薮の中』のようにそれぞれに言うことがずれている。いずれにせよ、選手と監督の間にコミュニケーション不足があったことは否めない。

「人間的に嫌いなわけではない」

 それでも、この小さな事件がのちに上野の2日間に渡る「413球」を生むことになったのは確かだった。

「自分がやってきたことを出し切るためにも変な遠慮はもうやめようと思いました。メディアとかにも最後は自分が全部投げるって言い続けて、そういう雰囲気をつくった。これまでエースとして、いろんな重圧を背負ってきたのでそれぐらいのアピールは許されるだろうって。これ以上オリンピックの舞台を誰にも壊されたくなかったんです」

 これまで宇津木の元では「右向けと言われたら右を向いていた」という上野が初めて見せた強い自己主張だった。だがここでも斎藤の認識は微妙な食い違いを見せる。

「中国戦のあと、部屋に上野を呼んで個人的に話をしました。わかってやれなくてごめんな、と。それで、これからは上野の活曜する番だから頼むぞ、って伝えたんです。あれで共通認識は持てたと思っています」

 このあたりが指揮官と選手の関係のおもしろいところだ。親子でいえば、完全に親離れした子と、それに気づかず未だ子離れができない親の関係に似ている。そして親離れした子が強いのと同じように、監督の手を離れていった選手ほど頼もしい存在はない。

 上野がまとめ役として絶大なる信頼を置いていた副キャプテンの伊藤幸子は話す。

「監督の言うことはもちろん、さらに自分たちでも考えてやっていこうと言い合っていました。あらゆることを超えていこう、って」

 伊藤は何度も「超えて」という表現を使った。それはどこか「飲み込んで」というニュアンスに近かった。選手たちは監督と対立していたわけではない。それは大会前、優勝したら監督に渡そうと手作りの金メダルをつくっていたことからも、また、表彰式の直後、斎藤を3回胴上げしたことからもうかがえる。上野も「人間的に嫌いなわけではない」と斎藤に対する思いを強調する。

「バカ役は計算してやってたんです」

 斎藤は2年前、代表チームの監督に就任したときこう考えたのだという。

「これは総監督の井川(英福)さんと一致した意見だったのですが、監督に依存させちゃダメだと。宇津木さんは、カリスマ性があって、素晴らしい監督でした。でも選手が頼り切ってしまう可能性がありましたからね」

 だから、斎藤も自立したチームになるよう意図してはいたのだ。ただ、実際にそのきっかけとなったのは、誤解を恐れずに言えば、斎藤の指揮官としての頼りなさだった。でも斎藤もそれを認める。

「自分自身、頼りなく見えた方がいいと思っていましたので。それで選手が育っていってくれるなら。上野も自分のとった態度を気にしていたのかもしれませんが、私からしたらぜんぜんオーケーですよ。今までが物静かで、謙虚で、黙々とやる方でしたからね」

 度量が大きいのか、それとも、本人が言うようにただ「本質的にのんびり」としているだけなのか。そのあたりが実に読みづらい。

 現役時代の斎藤と監督になってからの斎藤は別人格だと誰もが口をそろえる。選手の頃の斎藤は、チーム一の大酒飲みで、青森弁で吉幾三を熱唱するなど、伊藤いわく「天然系キャラ」だったそうだ。しかし斎藤は明かす。

「あの頃は、いつもバカ役でしたからね。でも計算してやってたんです。そうすれば受け入れてもらえるというのがあったから。みんな、サイちゃん(斎藤)は何も考えてないんじゃないの?って思ってたと思いますよ」

 無頓着なように見えて、そんな繊細な部分ものぞかせる。

「上野と心中する」って言って欲しかった

 決勝トーナメントの準決勝、アメリカ戦の先発は大方の予想では坂井だった。坂井もそのつもりで準備していた。

「いかに万全な状態で上野を決勝で投げさせるか。考えはみんな同じだと思っていたので、スタメンを聞いたときは驚きましたね」

 斎藤はその理由をこう説明した。

「坂井は予選で疲れていた。だから負けても悔いの残らないメンバーで行こうと。たとえ準決勝で負けで3連投になっても上野ならやれるんじゃないかと思っていた」

 しかし、口下手な面があるせいだろうか、その思いは上野には届いていない。

「いつも『行くか?』って聞かれて『行きます!』と。『任せた』って言ってほしかったんですけどね。『上野と心中する』ってメディアには言っていましたけど、それを自分にも伝えて欲しかった。だから必死でアピールしていたんです。投げたい、と」

 上野は自分が感情を表に出し続けたことで「周りの選手がどう思っているか心配だった」と口にするが、伊藤はこう話す。

「それだけかけてるんだなって気持ちになってましたよ。上野がこれまでどれだけ努力をしてきたかはみんな知っていたので」

「私は敬遠は大っ嫌い」もし、監督が斎藤でなかったら……

 アメリカとの決勝戦前、チームはかつてないほど結束していた。

 最大のヤマ場は6回裏に訪れた。1死二塁で4回裏にソロホームランを許している4番ブストス。監督の斎藤がマウンドヘ行く。

「『勝負するか?』って聞き方したら『勝負する』って言うかもしれないと思ったので、『どうする?」って」

 だが斎藤が考える以上に上野は成長を遂げていた。試合を完全に支配できるようになっていたエースに問うまでもなかったのだ。

「なんで聞くんだろう、と。絶対、敬遠だと思っていましたからね。自分の勝負なんていらない。どんな手を使ってでもとにかく勝ちたかったんです」

 この後、次打者には勝負に行きながらも四球を与えてしまい、1死満塁。だが後続を断ち、上野はこの最大のピンチを脱した。

 宇津木はこのシーンに触れ、意外にも、こんな風に語っていた。

「私だったら絶対、勝負だね。みんなはいい作戦だったって言うけど、私は敬遠は大っ嫌い。そんなんで勝ってもおもしろくない」

 それを上野に伝えてみた。もし、宇津木がまだ監督で、勝負しろと指示されていたら、

 と。すると苦笑いを浮かべながらこう答えた。

「勝負する振りして、歩かせたかも……」

 いや、アテネ五輪の後も字津木が代表監督を継続していたならば上野はやはり宇津木の指示に従っていたのではないか。従っているという意識さえないままに。

 宇津木は勝利に徹しているようで、勝ち方に美学を求める。宇津木では勝てなかったかもしれない、そう思えるのはそんな点だ。

 いろいろな偶然もあったかもしれない。あるいは、斎藤が言うように必然もあったのだろう。いずれにせよ、やはりこう思うのだ。もし、監督が斎藤春香でなかったら。女子ソフトボールは、金メダルを獲れなかったのではないか、と。

 そしてもうひとつ。宇津木が「神がかり的」と称するそれ以外の「もし」。斎藤が監督だったことも含め、これらをひとつの方向に束ねていたものの存在を忘れることはできない。

「女子ソフトボール界の金メダルヘの執念というか……怨念だろうね」

 宇津木の掠れた声がその言葉に重みを加えていた。

(【インタビュー編】「左足は脱臼し、右手中指はえぐられていた」ソフトボール上野由岐子(39歳)が語っていた“あの413球の裏側” へ)

文=中村計

photograph by Sankei Shimbun