「トンネルの中で後ろからは電車が迫ってきていた。逃げ場はない。『無理。絶対に無理よ』って(女性キャラに)言われるんだけど、主人公は『俺は諦めない。絶対に諦めないぞ』って言いながら女性を背負って走り出す。主人公は諦めないで走り続けて、トンネルから無事に抜け出すことができたんだ」

 レース後のインタビューで、アイゼア・ジュエットはアニメの1シーンを満面の笑みで説明している。

 聞いている記者たちの頭の中には「?マーク」が100個くらい浮かんでいる。(あれ、今、どういうレース展開で走ろうと思いましたか、って質問したよな。なぜアニメ。しかもそのアニメ分からないし、ちょっと何言ってるか分からないけど、楽しそうだからいいか)

脳天にビビビッとアニメの1シーンが降臨

 6月に開催されたアメリカの陸上オリンピック選考会、男子800m。このレースはドーハ世界陸上金メダルのブレイジャー、リオ五輪銅メダルのマーフィなどが大本命と見られ、彼らを中心にレースが進むとみられていた。

 ところが序盤250mで黄色の大学生のジュエットが先頭に立ち、400m50秒60のハイペースで進む。後半、他の選手も追い上げるがジュエットは必死に逃げる。ラストでマーフィにかわされたものの、2位を死守し、オリンピックの切符を手にした。

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「コーチに250mくらいから行けって言われていた。その地点に来た時に一瞬躊躇したんだ。でもアニメの『NARUTO』のシーンが脳天にビビビッて降臨して、そうだ、俺はナルトみたいに走るんだ。いくぞ、いくぞ、俺は諦めないぞ、そう思って飛び出した」

 それが冒頭のアニメのシーン(『劇場版 NARUTO-ナルト- 大活劇!雪姫忍法帖だってばよ!!』)の解説だった。

無類のアニメ好きで名門大学にも合格

 ジュエットは日本のアニメ・漫画が好きだが、その背景が少し興味深い。

 漫画との出会いは小学生のときだった。読解に少し難があり、教科書を読むのが苦手だったという。その状況を見た母ビーナスさんは、漫画なら文字をうまく読めるのではないかとアメリカの漫画を買ってきてジュエットに渡したのがきっかけだった。

「アメリカの漫画は色が派手で。僕は目があまりよくないので、その色が目にきつくて読めなかった。そしたら母が今度は日本の漫画を買ってきてくれたんだ。白黒で目にも優しくて内容もとっても面白くて、僕はすぐに夢中になった」

『ドラゴンボール』や『NARUTO』などの少年漫画から、『のだめカンタービレ』などの少女漫画まで、好きなジャンルは幅広い。多くの漫画やアニメに触れるうちに、学習能力も改善され、今では米国でも名門USC(南カリフォルニア大学)で奨学金をもらいながら陸上選手として活躍している。当然ながら本人の努力があってのものだが、日本の漫画とアニメというツールが彼の学習を補佐したというのも興味深い。

 勉強だけではなく、漫画やアニメはジュエットのスポーツ人生にとっても大きな役割を果たしている。

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「僕にとっては漫画やアニメは絶対的なものだ」

 今でこそ183cmの長身だが、子供の頃は小柄で痩せていた。

 バスケットボールなどほかのスポーツもプレーしていたが、「僕は小さかったし、あまり上手じゃなくて、レギュラーになれなくてとても悔しかった。陸上でもジュニア選手権などに出られるレベルではなかった。一生懸命やっても選ばれるのは他の子だった」。

 ミーティングでコーチからメンバーが発表されるたび、涙をこらえて家路についた。自分の部屋に入るとすぐに漫画を開いた。悲しい、涙が出るシーンのページを。

「気持ちを抑えすぎてうまく泣けないときは、悲しいシーンを見て泣いたんだ。アニメや漫画は僕らの心を開かせる魔法を持っている。喜怒哀楽が明確に表現されているから、感情移入しやすい。吹き出しの一言、一言に力があって、泣かせたり、元気にさせたり。言葉に強いパワーがある。僕にとっては漫画やアニメは絶対的なものだ」

 悲しい気持ちを開かせてくれるだけではなく、勇気もくれた。練習やレースでつらい局面やがんばらないといけない局面には、いつも「アニメのワンシーン」が降臨するという。

「(400m代表の)ノーマンや(400mハードル代表の)ベンジャミンと一緒に練習することもあるんだけど、彼らはラスト1本になると設定ペースよりも上げてくる。スピードのある彼らについていくのは僕にはきついんだけど、『負けないぞー』って思って食らいつく。その時も元気が出るアニメのシーンが頭に浮かんでくるよ」

 全米大学選手権(NCAA)では1600mリレーでアンカーも務めたが、チームの順位がかかった重要なレースとあって緊張感も大きかった。

「スタートする前に『NARUTO』の歌が頭に浮かんで、レースが始まる前からアドレナリンが爆発しちゃって、抑えるのが大変だった」

 自分の殻を破りたい時、一押しが欲しい時に助けてくれるのが、ジュエットにとってはアニメなのだ。 

卒業したら「『ハイキュー!!』のような陸上アニメを…」

 卒業したらアニメ関連の仕事に就きたいと思っている。

「今、『ハイキュー!!』を読んでいるんだけど、バレーボールの魅力が詰まっていてすごく面白い。僕も、そういう陸上アニメを作りたい。最初は国内レベルの話で、そこから世界選手権や五輪などに展開するんだ。砲丸投げの選手はキャラ立ちがいいから絶対に必要。皆の憧れキャラはアリソン・フェリックス。女子がキャーキャー言って追いかける金髪のイケメンも必要だよね。それはジャガー(3000m障害リオ五輪銀メダリスト)にお願いしようと思ってる。陸上アニメがあったら、子供たちにも陸上に興味を持ってもらえると思うんだ」

 登場人物も設定もすでに頭の中にあるようだ。2028年に開催予定のロス五輪までに実現したいとジュエットは話す。

リオ五輪銅メダリストのエヴァン・ジャガー(2017年撮影) ©Getty Images

 ジュエットにとって、今大会は念願の五輪出場となる。しかも憧れの東京の地で行われるわけだが、選手は厳しい外出規制があるため自由に出歩くことはできない。

「とても残念。日本のカルチャーに触れたかったし、アニメの聖地にも行ってみたかった。でも、いいんだ。空港から選手村、選手村からスタジアムへのバスからの景色を楽しみたい。それに僕は日本の空気を吸えるだけで十分幸せ。僕にとって日本はアニメの聖地だから、その空気を思う存分吸って、それをパワーに走ろうと思う」

 ジェエットの出場する男子800m予選は7月31日午前に行われる。アニメの聖地の空気を吸って、東京ではどんなシーンを頭に浮かべて走るのだろうか。ぜひ注目してほしい。

文=及川彩子

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