彼らの間にある特別な共感に思い至ったのはオリンピックが始まる少し前のことだった。サーフィンにおけるオリンピックの意義を聞かれた五十嵐カノアが、質問に答えてこんなことを言ったからだ。

「サーフィンとバスケットボールとスケートボードの選手、みんなが集まって試合をする。そんなすごいことができるのはオリンピックだけ。サーフィンはチームスポーツじゃないから、これまでは自分のことにしか集中していなかった。日本代表になってまずは日本代表のサーファーで力を集めてみんなで金メダルを獲ろうと。そしてオリンピックに来て、バスケットの八村選手とかスケートボードの堀米選手とかを見たら、もっと日本のために頑張ろうと思った。そこがオリンピックの面白いところでもあります」

 アメリカで活躍する日本人アスリート仲間である八村塁の名前が上がってくるのはなんとなく想像できたけれど、横乗り系のつながりもあって堀米雄斗とは数年前から親交があったのだという。

「一緒に金メダルを獲って一緒に写真を撮ろう」

 サーフィンの会場は東京から遠く離れた千葉・一宮町にあるが、五十嵐は開会式に参加した際に堀米と顔を合わせ、競技開始日が同じであると知ると「一緒に金メダルを獲って一緒に写真を撮ろう」と誓い合った。

堀米雄斗の公式Twitterより

まずは堀米が金メダル獲得、そして…

 まずは約束通りに堀米がスケートボード男子ストリートで金メダルを獲り、それから2日後、五十嵐も金メダルの目前まで迫った。世界ランキング1位のガブリエル・メディナ(ブラジル)に挑んだ準決勝では、残り10分を切ったところで驚嘆のエア・リバースを決めて逆転勝ち。決勝では同じブラジルの世界2位、イタロ・フェレイラに敗れたとはいえ、日本中に競技としてのサーフィンの魅力を存分に伝える熱戦を繰り広げた。

「(堀米と)一緒に金メダルを獲りたかったので残念だけど、一緒にメダルの写真を撮ることはできる。それはよかったです」。その戦いぶりに堀米もInstagramを通じて「おめでとう〜」とメッセージを送った。

 こうして2人の初めてのオリンピックは幕を閉じたのだった。

競技を始めたきっかけは「父親」だった

 今回から五輪に採用された新競技で、それぞれメダル獲得を期待された2人は、どちらもカリフォルニアを拠点にしている。よくよく考えてみると、キャリアには似通った部分が多いだけに、両者が共感を覚えるのは競技の特性を抜きにしても自然なことなのかもしれない。

 競技を始めたきっかけも「父親」だったという共通項がある。

 五十嵐の場合、自らがサーファーだった父・勉さんが子どもたちを世界で通用するサーファーに育てるため1995年にカリフォルニアに移住。その2年後に五十嵐はアメリカで生をうけた。幼い頃の父との思い出はすべて波の音とともにあったという。

「お父さんは仕事をしていたので、一緒にいる時間はそれぞれが学校と仕事に行く前の朝だけでした。シンプルにお父さんと一緒に海で遊んでいる感じで印象に残ってます。サーフィンはホームという感じで、お父さんと一緒にできるスポーツで子供の時はただ楽しんでいました」

©JMPA

 世界一、ましてや五輪でメダルを獲得しようなどとも想像すらしていない、ただ父子で波と戯れる日々だった。赤ん坊の頃から父のスケートボード遊びに連れられて、物心ついた頃にはデッキの上に乗っていた堀米も同様である。

 2人ともすでに独り立ちしたアスリートに成長したが、今回の五輪でのメダル獲得にはいずれも父の小さな支えが隠れていた。堀米は大会前や予選の後、父・亮太さんからSNSのダイレクトメッセ―ジで精神面でのアドバイスをもらっていたし、千葉が地元の五十嵐の父は大会期間中に会場近くに滞在していた。五十嵐も「会場で応援してもらうことはできなかったけど、近くで見てくれていると思うと気持ち的には大きかった」と、その存在を身近に感じるだけで心強く思っていた。

マイナースポーツの厳しさ「なんでスポンサーがつかない?」

 本場アメリカの環境も彼らの成長に大きな役割を果たした。アメリカで生まれ育った五十嵐は言わずもがな。日本では経験できないサイズや種類の波にもまれ、その技術を磨いていった。堀米も高校卒業後に本格的に拠点をアメリカに移し、日本とは比べ物にならないほど豊富なパークやストリートのセクションに挑むことで格段に飛躍を遂げた。

 こんな話がある。

 堀米が海外遠征をするようになった当時、スポンサーだったスケートボードショップ『instant』の本間章郎オーナーは「うちでは渡航費までは出せない。新しいスポンサーに変えれば渡航費まで出してもらえる。だから行ってこい」と送り出したというのだ。

 五十嵐と同日に銅メダルを獲得したサーフィン女子の都筑有夢路はメダルを獲った喜びとともに国内で競技を続ける苦労を語っていた。

「今年のオーストラリア遠征も母と2人で行っていました。でも2人では手が回らないことがたくさんあって、その分、練習時間を削らなければいけなかった。サーフィンの選手もサッカーや野球と同じくらい努力しているのに、なんでスポンサーがつかない、注目されないんだろうという思いをしてきたんです」

堀米も五十嵐も“日本人のボーダー”を越えてきた

 IOCが若年層のファン拡大を目論んで招き寄せた人気スポーツとはいえ、日本国内だけを見ればマーケットはそこまで大きくはない。長く日本にとどまっていれば環境的にも、金銭的にも頭打ちになるときがくる。それを見越した上で周囲が後押ししてくれた環境の中、五十嵐は18歳のときに史上最年少の若さで最高峰の「チャンピオンシップツアー」に参戦し、'19年には日本人として初優勝。堀米も同じように'18年にはスケートボード最高峰の「ストリートリーグ」を日本人で初めて制し、従来の“日本人のボーダー”を越えて活躍し続けてきた。

 アメリカンドリームを叶えた2人は、すでに競技に専念できる最高の環境を手に入れている。'19年のBloombergの記事では、10社以上とスポンサー契約を結ぶ五十嵐の収入は2億円を超える。堀米も同様に10社以上とスポンサー契約を結んでおり、大会の賞金も高額だ。

 国の枠を越えたグローバルスターとして今回のオリンピックを契機に、野球なら大谷翔平、テニスなら大坂なおみ、サーフィンなら五十嵐カノア、スケートボードなら堀米雄斗という風に国内でも認知されていくだろう。

©JMPA

日本の枠を越えたグローバルスターに

 そんな2人が今大会で抱いた感慨は不思議と一致していた。

「自分が良いサーフィンをした結果、サーフィンが世界に、メジャースポーツに少しでも近づいていたら嬉しい。(メディナとの準決勝で)エアを決めたとき『世界が見てくれるエアだ』と思った。1人でもカノアを見てサーフィンしたくなった、うれしくなったと言ってもらえれば成功。それはメダルよりも大切なこと」(五十嵐)

「五輪を通じてスケートボードの楽しさ、カッコよさを皆さんに伝えられたと思う。スケートボードはまだそんなに知られてないと思うので、スケートボードの楽しさをいろんな人たちに伝えていきたい」(堀米)

 まだもうひとつ共通点があった。堀米が寿司、五十嵐が切り餅。普段はアメリカにいるからなのか、若きカリスマたちの好物はなぜかことさら日本っぽかった。そういえば、大坂なおみもカツ丼だったような……。

文=雨宮圭吾

photograph by JMPA