中原誠名人に加藤一二三・九段が挑戦した1982年の名人戦七番勝負は、持将棋と無勝負の千日手を含めて、決着まで10局も要したという、将棋史に残る壮絶な名勝負だった。少年時代に「神武以来の天才」と称された加藤が、悲願の名人位を42歳で獲得するまでの軌跡をたどってみる。【棋士の肩書はいずれも当時】

 1958(昭和33)年4月。18歳の加藤一二三は順位戦でA級八段に昇進し、「神武以来の天才」と称された。この最年少記録は現在も破られていない。

 同年4月。宮城県から上京して高柳敏夫八段の内弟子になっていた10歳の中原誠が、棋士養成機関の「奨励会」に6級で入った。

 その時点では、若き天才棋士の加藤、棋士の卵の中原、という大きな隔たりがあった。

 1960年の名人戦で、加藤八段は大山康晴名人に初挑戦し、1勝4敗で敗退した。加藤は、ほかのタイトル戦でも大山に挑戦したが、大山の牙城をなかなか崩せなかった。

 その加藤よりも先に天下を取ったのは、7歳年下の中原だった。

 1972年の名人戦で、通算18期・連続13期も名人位を保持していた大山名人を、24歳の中原八段が破って新名人になった。

加藤は中原に何と20連敗をしていた

 1973年の名人戦は「将棋界の若き太陽」と称された中原名人に、「神武以来の天才」の加藤八段が挑戦し、大いに注目された。

 両者の対戦成績は、名人戦の開幕まで、中原が13勝1敗と大きくリードしていた。

 そんな状況でも、大山九段は「こういう極端な数字は、何かの拍子でがらりと変わります」と語り、中原のライバルの米長邦雄八段は「加藤さんの票田がそろそろ開く頃です」と選挙にたとえて語った。両者は加藤の勝利を予想した。

 しかし同年の名人戦は、中原が加藤に4連勝し、名人位を初防衛した。

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 加藤は名人戦で中原に敗れた後、以前に洗礼を受けてクリスチャンになった教会のミサで、神秘的な経験をした。そして、「いつの日か名人になれる」と確信したという。

 加藤は中原との公式戦の対局で、1969年から1976年までの8年間で、何と20連敗もしていた。

 しかし、中原の将棋を詳しく研究していくうちに、自信を持って戦えるようになったという。攻めが強い中原に対して、「それ以上に鋭く攻める」ことを心がけた。やがて苦手意識を払拭し、棋王戦、王将戦などのタイトル戦で中原を打倒した。

第8局までもつれ込んだ82年の名人戦

 1982年の名人戦は、名人位を連続9期も保持していた中原名人に、加藤九段が挑戦した。

 第1局は「持将棋」(双方の玉が敵陣に入り合って決着がつかないこと)となり、名人戦は波乱含みで開幕した。

 第2局(持将棋は1局分とみなした)以降は、3勝3敗と拮抗した。それらの対局の間には、中盤での「千日手」(同一手順や同一局面が繰り返されて無勝負)が2局も生じた。

 当時の対局規定では、2日目の午後3時を過ぎて千日手の場合、次の対局日程に繰り延べて指し直した。

 そのために、4月中旬に始まった名人戦の日程は延長され、第8局は7月30・31日に行われた。

 名人戦第8局の対局場は、東京・千駄ヶ谷の将棋会館。改めて「振り駒」が行われ、加藤が先手番となった。戦型は、前9局と同じ「相矢倉」。持ち時間は各9時間。

 1日目の午後、中原はいきなり攻め込んだ。そして、夕方の「封じ手」で指し掛けた。

 2日目は、激しい攻め合いとなった。加藤は、54分、140分、65分と長考を重ね、中盤で残り時間は1時間を切った。

台風接近の中、東京の将棋会館に多くのファンが

 当時は、現代のようなリアルタイムのネット中継はなかった。将棋ファンは、東西の将棋会館などでの大盤解説会に行くしか情報を得られなかった。

 2日目の東京は、日中は晴れていたが、台風が接近して夕方から風雨が強くなった。それでも500人を超す将棋ファンが「天下分け目の戦い」を観戦に東京の会館を訪れた。新A級棋士の谷川浩司八段は戦況を詳しく解説した。

 中盤では中原が優勢だったが、空模様と同じく盤上も急変した。中原に疑問手が続出し、終盤では形勢がついに逆転した。

 長考派の加藤は持ち時間をいつも使い切り、「一分将棋」の秒読みに追われるのが常だった。しかし本局では、持ち時間を少し残すことを意識したという。終盤の土壇場の局面で、8分の残り時間があり、相手玉の詰みを懸命に読んでいた。

残り時間1分、詰みを発見すると……

 控室の研究では、中原の玉に詰み筋が確認されていた。

 しかし、加藤はなかなか指さない。ある変化手順の詰みがわからなかったという。やがて残り1分の時点で、やっと詰みを発見した。

 本局の担当記者は、そのときの光景を、メモに次のように記した。

「一分将棋になった加藤は膝を突き、立ち上がって《ヒャー》と声をあげる。次いで《フーム、なるほど、なるほど》」

控室にも響いた《ウヒョー》という奇声

 実際に、対局室から10メートルほど離れた控室にも、加藤の《ウヒョー》というような奇声が聞こえたという。それは勝利の雄叫びだったのか……。

 7月31日午後9時2分。名人戦第8局で加藤は中原に勝った。

 加藤は3回目の名人戦挑戦で、悲願の名人位を42歳で獲得した。

 加藤は、1982年の名人戦の最終局での心境と、終盤で勝ち筋が見えた状況について、後年にインタビューや著書で、次のように語った。

「対局中は、数日前に読んだ旧約聖書の一節の《あわてないで落ち着いてことを進めろ》という言葉を、何回も心の中で唱えました。終盤で詰みを見つけると、《あっ、そうか》と叫びました。世間では、私が喜びのあまり、興奮して奇声をあげたと言われています。しかし、その言葉の裏には、いつの日か必ず名人になれると信じて精進してきたことが叶うんだ、という万感の思いが込められていたのです」

1982年の加藤一二三©Koji Kakuta

40年以上前は求道者のように寡黙だったが

 私こと田丸が40年以上も前に抱いた加藤の印象は、求道者のように寡黙で近寄りがたかった。しかし、名人を獲得して以降は、それで大きな自信を得たようで、とても明るくて饒舌になった。食欲も旺盛になった。

©Tadashi Shirasawa

 加藤名人は1983年の名人戦で、21歳の挑戦者の谷川八段に2勝4敗で敗れ、初防衛は成らなかった。

 名人を失ったうえに「無冠」となった中原九段は、一時的に低迷したが、過激な棋風に転じて新境地を開いた。1985年の名人戦で、谷川名人に挑戦して4勝2敗で破り、名人復位を果たした。

 私が以前に撮影した中原、加藤らの盤外の写真を紹介する。

ゴルフ同好会の名前が「桂馬会」だったワケ

 写真は、1974年に神奈川県のゴルフ場で行われた棋士たちのコンペに参加した中原。ボールを着実に進めていく「自然流」のゴルフだった。扇子に書いた「平歩青天」の文言は、ゴルフ場での楽しい気分だという。

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 写真の手前は、同年のゴルフコンペに参加した大山。粘り強い棋風と同じく、ゴルフでもリカバリーショットを得意にした。

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 この棋士たちのゴルフ同好会の名称は「桂馬会」。ボールが駒の香車のように真っすぐに飛ばないからとか。

 写真は、2012年の将棋イベントで、5面指しの指導対局をした加藤。説得力のある解説に、相手や周囲の人たちは聞き入っていた。当時から加藤は、「ひふみん」の愛称でテレビのバラエティ番組に出演するなど、盤外でも人気者だった。

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文=田丸昇

photograph by Kyodo News