錦織圭がまたも厚い壁に跳ね返された。

 ノバク・ジョコビッチにはこれで17連敗(通算2勝18敗)。ガエル・モンフィスと並び、ジョコビッチにもっとも長く負け続けている対戦相手となった。最後に勝ったのは7年前、準優勝した14年全米の準決勝での対戦だ。

 連敗記録は誇れるものではないが、両者の戦いにはそれほど長い歴史があったことを最初に示しておきたい。あと少しで勝てそうなこともあれば、直近の対戦だった東京五輪のように、こてんぱんにやられる試合もあった。19年全豪など、ジョコビッチと当たる前に接戦の連続で疲れが溜まり、試合にならないこともあった。

ジョコビッチにどうしたら勝てるのか?

 この厚い壁にどう挑むか。対戦の2日前、錦織はこう話していた。

「やりたいことは、なんとなく頭に入っている。やりたいことがしっかりできて、自分のプレーが良ければチャンスはあるのかなと」

 お、と思った。ここは「今までと違うことをやらなくてはいけない」くらいにとどめておいてもいいのに、「やりたいこと」があるという言葉を選んだ。内容は明かさなかったが、対戦に前向きな気持ちを持っているのが感じられた。

 サーブ&ボレーを続けたり、ドロップショットを連発したりといった奇襲を考えていたわけではないだろう。そんな目くらましが通用する相手ではない。では、「やりたいこと」とは何だったか。

 試合が始まってまもなく、その輪郭が見えてきた。

 ボールが良く伸びている。しかし、ウィナーを狙いにいってはいない。ボールの質を高いレベルに保った上で、比較的安全なセンター付近とクロスに深く打つことを意識しているようだ。そうしてチャンスの拡大を待ち、満を持して角度をつけたクロスやダウン・ザ・ラインを放つ。序盤はそんなプレーだった。

©Hitomasa Mano

「じっくりラリー戦をしてみよう」――これが「やりたいこと」だった。

 過去の対戦では「先にブレークされて余裕を持たれ、思い切りプレーされる」流れが増えていた。これを避けるために、リスクのあるプレーを減らした。そうして、できるだけ相手のミスを誘い、「プレッシャーのかかるスコア」に持っていこうという狙いだ。

 ジョコビッチは強靱な精神力の持ち主だが、事前のゲームプランが大きく狂い、スコアで先行されるとプレッシャーがかかり、メンタルが揺らぐことがある(強敵と認める相手との対戦時に限っての話だ)。このことは過去の対戦で分かっていた。

 ただ、じっくりやるというのは普段から実践しているテニスではない。錦織は言う。

「早い展開からどんどん打っていくのが自分のテニス」

 我々にも「早い展開」のイメージが強い。じっくりやるというのは、180度とは言わないまでも、大幅なアジャストが必要だ。それをジョコビッチにぶつけたのだ。

ジョコビッチも賞賛「彼のプレーは素晴らしかった」

 戦術は見事に効いた。相手のミスを誘い、まさしくプレッシャーを与えた。ジョコビッチも試合後、錦織の戦術に脅威を感じたことを明かした。

「彼はあまりミスをしなかった。いつも彼はリスクの高いテニスをする。何年も前から何度も対戦しているから、僕にはよく分かっているんだ。でも、(今日の)彼のプレーは素晴らしかった。僕に時間をくれなかった。彼は僕を居心地悪くさせよう、守りに入らせようとしていた」

©Hiromasa Mano

 ところがジョコビッチは、すぐさまこの戦術に対応してしまう。コメントには実は続きがある。

「1セットか1セット半くらいは、それ(錦織の狙い通りのプレー)ができていた。彼のペースに順応してからは、気分よくプレーできた」

 第2セット以降、錦織は序盤のプレーの精度が持続できなくなった。そこがジョコビッチの適応力だ。錦織には次第に疲れが目立ち始め、ジョコビッチが調子を上げてきたときに、それを押さえ込むギアの切り替えもできなかった。錦織の戦術はジョコビッチにひと太刀浴びせることには成功したが、骨を切るには至らなかった。

 それでも錦織は「次にやるときは怖さも減るかなと。何もできず簡単に負けてしまうのが続いていたので、それは若干、克服できたのかなと思う」と振り返った。

 確かにこの試合は、ジョコビッチとの今後の戦いにヒントを提示した。

7年前は「激しくボールを“しばく”」作戦が成功したが…

 過去の対戦では、早い展開に加え、激しくボールを“しばく”(以前、錦織がよく使った表現だ)プレーを試みた。ボールをつぶすような強打である。コートの中に入って相手の時間を奪った上で、高い打点からフラット気味に叩くのだ。14年の全米ではそれが成功し、勝ちにつながった。同年のATPファイナルズや翌15年のローマでも、その猛攻が見られた。それらを現地で観戦した筆者は、心が浮き立つ思いだった。錦織らしさはそこにあると信じていた。

ジョコビッチに勝利した2014年全米準決勝 ©Getty Images

 だが、そのATPファイナルズでもローマでも、錦織は勝てなかった。猛攻は1セットしか続かず、精度が落ちて反攻を許した。ボールをしばき続けるのは至難の業なのだ。完璧なフットワークでタイミングを合わせ、全身をムチのようにしならせなくては打てない。これを続けていたら、体がもたない。もちろん、エラーのリスクも最大級だ。

 ジョコビッチ陣営が、猛攻はせいぜい1セットしか持たないと見切っていた節もある。確かに手がつけられないが、浮き足立つことなく、嵐が通り過ぎるのを待てばいい、セットを取られても、最後には間違いなく勝てる、と。

 ただ、錦織側が攻めなければジョコビッチを崩せないと考えたのは自然だ。実際、成功体験もあった。だから、早い展開を土台に、攻め急ぎや攻めすぎを我慢し、攻めるべきところで攻める、そんなテニスを模索した。それが、14年全米での勝利から今日まで7年に及んだジョコビッチへのチャレンジだった。

「まだ差はあるが、だいぶ近づいている気はした」

 今回も届かなかったが、錦織は「この何回かの対戦では一番良かった」と話した。「だいぶ前にローマとマドリードで対戦したときくらい惜しい試合はできた」という。

 これは16年のマドリードオープンと同年のイタリア国際を指している。マドリードはストレート負けだったものの、第2セットはタイブレークまで粘った。後日、錦織は「まだ差はあるが、だいぶ近づいている気はした」と話した。一方のローマは、第3セットのタイブレークで決着がつく接戦だった。両者の総獲得ポイントは錦織が111、ジョコビッチが112だった。

 この大会で、錦織は対戦前にこう話していた。

「じっくりプレーして、我慢しながら、できればチャンスを見てアグレッシブに、というのがベストだと思う」

「じっくり」は、実は5年前に錦織が意識したキーワードでもあったのだ。これをほぼ完璧に実践し、ジョコビッチといかに戦うかという難問の答えに最も近づく試合となった。

2016年にジョコビッチに惜敗したマドリードOP ©Getty Images

単に「17分の1」で片づけられる試合ではない

 だが、試行錯誤はその後も続くのだ。どの程度までリスクを抑え、安全にいくか。そして、いかに精度を落とさずに攻められるか。「じっくり」の案配と、ギアを切り替える勘所を見つけるのは容易ではなかった。また、ジョコビッチ側も事前の研究をもとに、試合の中での微調整で対応してきた。

 今回の対戦で錦織は「じっくり」の方向に大きく振れた戦術を試みた。これは少なくとも「1セット半」ほどは成功し、ジョコビッチをあわてさせた。一つの大きな成果だろう。十分な体力で臨み、「じっくり」から「アグレッシブ」へうまくギアを切り替えれば……。そんな期待も持たせてくれた。

 これは単に「17分の1」で片づけられる試合ではなかった。

文=秋山英宏

photograph by Hiromasa Mano