怪物や天才が集まるプロ野球でも、ドラフト1位は特別な存在だ。だからこそ、チームの誰よりも注目され、期待される。

 しかし、そのプレッシャーに押しつぶされ、成績を残せないまま、ある者は数年で他球団にトレードに出され、ある者は戦力外通告を受ける。自分の能力のなさに絶望し、故障に苦しみ、誰かの言葉に傷つき、人間関係に悩む……。

武田一浩、小宮山悟…80年代後半、六大学→プロ入りの投手たち

 筆者が立教大学野球部に入部したのは86年4月。東京六大学リーグにはのちにプロ野球で活躍するドラフト1位がたくさんいた。エースたちのプロ野球での通算成績を挙げてみよう。

 猪俣隆(法政→86年ドラフト阪神1位) 43勝63敗3セーブ、防御率3.68
 武田一浩(明治→87年ドラフト日本ハム1位) 89勝99敗31セーブ、防御率3.92
 小宮山悟(早稲田→89年ドラフトロッテ1位)117勝141敗4セーブ、防御率3.71
 葛西稔(法政→89年ドラフト阪神1位) 36勝40敗29セーブ、防御率3.59
 高村祐(法政→91年ドラフト近鉄1位) 83勝102敗9セーブ、防御率4.31

 名球会入りするほどの大投手はいなかったが、10年以上、プロ野球で投げ続けた。筆者と同学年の小宮山はメジャーリーグ(メッツ)でもプレイし、44歳でユニフォームを脱いだ。

 しかし、東京六大学で活躍していた野手のドラ1は、プロでレギュラーをつかめなかった。大学時代に通算11本塁打を放った長嶋一茂(立教→87年ドラフトヤクルト1位)はプロ9年間で161安打、18本塁打、打率.210という成績。東京六大学で通算打率.356、17本塁打の大森剛(慶應→89年ドラフト巨人1位)は8年間で29安打、5本塁打、打率.149に終わっている。

長嶋一茂「大野(豊)のボールなんて、全然見えない」

 投手がプロで活躍の場をつかんだのに、打者の成績はなぜ振るわなかったのか? 大学4年間で一度もリーグ戦に出場できなかった筆者に、その理由はわからなかった。ドラフト1位だけでなく、プロ野球から指名される選手たちは、アマチュア時代はただただすごかった! からだ。

「長嶋さん、プロはどうですか?」

 神宮球場ですれ違った時、先輩にそう聞いたことがある。

「プロ野球はアマチュアとは違うんだ。広島(東洋カープ)の大野(豊)のボールなんて、全然見えない」

 そんな言葉が返ってきた。

 プロ野球とアマチュア野球は地続きではない。どんなに輝かしい栄光も実績もそこには持っていけないのだ。

 その後、スポーツライターとして、多くのドラフト1位選手を取材するようになった。将来を嘱望されながら夢破れた選手たちに、「なぜユニフォームを脱いだのか?」と聞いた。

人気球団の重圧、イップス…「ずっとプロ野球選手でいたかった」

 人気球団のプレッシャーについて『期待はずれのドラフト1位』(岩波ジュニア新書)で話してくれたのが、99年ドラフト会議で阪神タイガースに1位指名された的場寛一だった。弥富(現・愛知黎明)時代に甲子園出場経験はなし。その後、九州共立大学に進んだ彼は、走・攻・守が揃ったショートとして高い評価を受けていた。的場が入団当時をこうふり返った。

「キャンプで、報道陣がバッティングケージの後ろにずらっと並んで、私にカメラを向けています。一球ごとにシャッターが切られるのですが、その『カシャッ、カシャッ』という音が重なって、すごい重圧を感じました」

 的場のプロ野球人生には、ひざの靭帯移植手術、右肩の脱臼など、故障がつきまとった。阪神での6年間で出場したのは24試合だけ。記録したヒットは7本。戦力外であることを告げられたのは、タイガースの優勝に沸く05年の秋だった。

「阪神にいた6年間はケガばかり。『今度こそ!』と思ったらケガでチャンスをフイにする、そんなプロ生活でした」

 一方、華々しいスタートを切っても、それを長く継続するのは難しい。

 増渕竜義は、駒大苫小牧の田中将大(楽天イーグルス)が目玉だった06年ドラフトで東京ヤクルトスワローズから1位指名を受けた。07年10月4日にプロ初勝利、11年には22試合に先発し、7勝を挙げている。しかし、27歳という若さでユニフォームを脱ぐことになった。

鷲宮高では1年生の秋からエースとして活躍。2006年のドラフト1位でヤクルトに入団したが……

 彼は『敗者復活』(河出書房新書)で「イップスが原因だった」と明かした。

「僕の場合、右ひじを痛めたということが少し影響していると思います。故障した箇所を意識しすぎ、コントロールを考えすぎて、自分の本来の腕の振りがわからなくなってしまいました。僕は、イップスに勝てなかった……それがなければ、ずっとプロ野球選手でいたかった」

「指導されればされるほど、フォームがバラバラになっていく」(田口竜二)

 インターネットが普及していなかった80年代、甲子園で活躍することがプロへの近道だった。当時、抜群の強さを誇ったのがPL学園(大阪)。エース・桑田真澄、四番・清原和博がいたチームは、常に優勝候補に挙げられていた。

 桑田と清原の実力を疑う者はいなかった(事実、彼らはプロ入り後すぐに活躍し、球界を代表する看板選手に成長した)から、PL学園を苦しめたチームは認められ、「桑田を打つ」「清原を抑える」ことで選手の評価は上がった。

 都城(宮崎)のエース・田口竜二も、PL学園との戦いを通じて、全国に名をとどろかせたピッチャーのひとりだ。

都城のエースとして活躍。1984年のドラフト会議で南海ホークス(現・福岡ソフトバンク)から1位指名を受けた。

 84年春は準決勝でPL学園と11回延長戦を戦い、その夏も3回戦で再び対戦した。いずれも敗れはしたものの、堂々としたピッチングで、このサウスポーが桑田・清原に並ぶほどの実力を秘めていることを証明した。田口は84年ドラフト会議で南海ホークス(現・福岡ソフトバンク)から1位指名を受けた。

 入団時の印象を『敗者復活』で次のように明かした。

「春季キャンプ前に合同自主トレがあって、プロの先輩たちと一緒に練習したのですが、体力面は問題ありませんでしたが、投げることに関しては全然ダメだなと思いました。プロのピッチャーは軽く投げても速い。私がいくら力いっぱい投げても勝てない。それまで『自分は秀才だ』と思っていましたが、普通の人だと思い知らされました」

 プロに入れば技術を教えてくれるコーチがいて、よりよいフォームを手に入れられるだろうと考えていた。

「自分の感性を押しつける人が多く、コーチが言っていることが私には理解できませんでした。指導されればされるほど、フォームがバラバラになっていく。アドバイスを聞くたびに、投げられなくなる。自分がもっとちゃんとしていればよかったのですが、批判され、否定されることでどんどんうまくいかなくなっていきました」

「野球だけで一生生きてはいけない」

 未完の大器は、敵と戦う前に自分を見失ってしまった。ストレートの威力がなくなり、カーブも曲がらない。甲子園で見せたピッチングとは程遠かった。

 田口は90年までホークスで5年間プレイしたが、一軍での登板は一度だけ。プロ2年目の86年に1イニングを投げたという記録が残っている。

 コーチに反抗的な態度をとる選手にチャンスは与えられなかった。納得いかなくても「はい」と答えれば関係性を保てたのかもしれないが、田口にはそれができなかった。

「指導に根拠を求めても、きちんと説明できるコーチはいませんでした。疑問をぶつけると嫌われ、『文句は成績を残してから言え』と言われてしまう。おそらく、『文句を言ってないで、黙ってやれ』ということだったのでしょう。意見を言うなんて生意気だと思われたんじゃないかな。まともな意見交換はできませんでした」

 田口は現役引退後、ホークスのバッティングピッチャー、二軍の用具係、マネジャーを担当したのち、白寿生科学研究所に勤務し、主にアスリートのセカンドキャリア支援を行うようになった。さらに、20年、21年は独立リーグ・石川ミリオンスターズの監督をつとめた。

 ドラフト1位として栄光はつかめなかったが、ずっと野球のそばにいる。

「野球だけでずっと食っていける人はひと握りです。野球だけで一生生きてはいけないのだから、勉強をしなければならないし、人間的にもしっかりしていなければ。『野球だけ』では世間をわたっていくことはできません」

 田口には、アスリートのセカンドキャリア支援から得た教訓がある。

 本当に大切なのは、いま何を見て、どこを目指して頑張っているのか。そのために何を学んでいるのか。

「野球をやめた瞬間に、『どんな人間なのか』を問われます。そこがダメなら世の中では通用しません。やっぱり、最後は人ですよ」

文=元永知宏

photograph by Sankei Shimbun