中日ドラゴンズで監督を務めた8年間、ペナントレースですべてAクラスに入り、日本シリーズには5度進出、2007年には日本一にも輝いた落合博満。それでもなぜ、彼はフロントや野球ファン、マスコミから厳しい目線を浴び続けたのか――。12人の男たちの証言から、異端の名将の実像に迫る『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』が発売1カ月で6刷8万部とベストセラーになっている。

 そのなかから、山井大介の“消えた完全試合”の翌2008年、中日スカウト部長だった中田宗男が抱えていた“苦悩”の場面を紹介する。星野仙一と落合博満、どちらの監督も知る中田が痛感した2人の差とは?(全3回の2回目/#1、#3へ)

星野仙一「その代わり二番手はいらんぞ」

「俺だって毎年、優勝したいよ。でもな、5年、10年先も考えなきゃならん。それがチームづくりじゃないか」

 中日のスカウト部長・中田宗男がまだ駆け出しのスカウトだったころ、この球団の監督に就任した星野(仙一)は言った。

「お前らが一番良いと思うやつを獲ってこい。その代わり二番手はいらんぞ。途中で諦めるな」

 星野の言葉は中田に使命感を与え、やがてスカウト人生を決定づける選手に巡りあうことになった。

 1986年のことだった。プロ野球界がランディ・バースと落合博満の両リーグ三冠王に沸いたその年、スカウト3年目で関西地区の担当だった中田は、大阪産業大学高校大東校舎という高校の1年生左腕に目を留めた。別の選手を目当てに地方大会に足を運んだのだが、なぜか、その細身のサウスポーが描いた綺麗なストレートの軌道が頭から離れなかった。

 まだ線は細いが、体力がつけば面白いかもしれない。

 思った通り秋の大会では、翌年の甲子園を春夏連覇することになるPL学園高校を相手に好投した。0ー1で敗れたものの、中田の予感は確信に変わっていった。

 中田はプロでは投手として一勝しか挙げられなかったが、もがいた経験の分だけ選手を測る物差しを身につけていた。スカウトとしての中田はいつも、ピッチング練習を終えた投手の指先を見ることにしていた。マメのできる場所によって力量がわかるのだ。

 その一年生左腕は、人差し指と中指に同じくらいの大きさのマメがあった。それは、スピンの利いたストレートを投げるピッチャーだという証であった。

「もし他球団に指名されたら、社会人に行きますから」

 そして何よりも注視したのは、バッターの内角に投げられるかということだった。投手はそこを攻め切れるか、打者はそこを打てるか、プロの世界ではその差が生死を分ける。

 中田は肌身をもって理解していた。

 くだんのサウスポーは、ホームベースに覆いかぶさるように打席に立つPL学園のバッターに対し、何食わぬ顔で胸元へストレートを投げていた。何球かユニホームの袖をかすり、その度に睨みをきかされるのだが、平然とまた同じところへ投げ込んだ。

  ゲームが終わったあと、中田は公衆電話ボックスに駆け込んだ。球団から支給されていたテレホンカードを差し込むと、事務所にいる当時のスカウト部長へダイヤルした。息急き切れていて、繋がるまでの時間さえもどかしかった。

「いやあ、久しぶりにこんなピッチャー見ましたよ! 僕はこいつが大阪で一番やと思いますよ」

 捲し立てる中田の声をスカウト部のトップは「そうか」と聞いていた。そして次の大会には自らやってきた。シーズン中にもかかわらず、一軍の投手コーチを連れてきた。

「監督がコーチと一緒に行ってこいと言ってくれたんだ。確かに、こいつはいいな。単独で指名できるようにやってみろ」

 それから中田は門真市にある彼の実家に日参した。ドラフト前には「中田さん、もし他球団に指名されたら、社会人のチームに行きますから」と言ってもらえるまでになった。中田は、どの球団であれ、指名されれば入団すべきだと返答したが、胸の内では星野を信じていた。必ずこの投手を1位で指名してくれる――。

 そして1988年の秋、中日はドラフト1位で18歳の今中慎二を単独指名した。その年は大分・津久見高校の川崎憲次郎や島根・江の川高校の谷繁元信など甲子園組が上位を占めていたが、球団と星野は全国の舞台を踏んでいない今中を選んでくれた。

 中田はドラフト会場の片隅でひとり、拳を握った。

星野は《計算の立たない高校生が好きだった》

 シーズンが始まると、星野は今中をいきなり一軍で投げさせた。中田の目に狂いはなかった。細身のサウスポーは1年目から勝ち星をあげると、2年目には10勝投手になり、5年目には17勝をあげて沢村賞投手になった。中田は自らの仕事が球団の血肉になり、その行く末を左右するのだと実感した。

 星野は未知数で計算の立たない高校生が好きだった。1986年の近藤真一と山﨑武司に始まり、87年の立浪和義も、そして88年の今中も、スカウトが見つけてきた原石を上位で指名し、ゲームに使った。

「お前ら、使えんやつばっかり獲ってきやがって」

 そう毒づきながらも、宇野勝らベテランをコンバートしてまで、彼らが試合に出るためのポジションを空けた。まだ無色透明の才能たちを怒鳴りつけ、蹴り上げ、熱く抱擁しながら自分色に染めていった。そうやって星野のカラーが色濃い、血縁のようなチームをつくりあげていった。

 やがて原石たちが宝石として輝き始めると、星野は「ようやく使えるようになってきたやないか。お前らの目は間違ってなかったなあ」とスカウトたちを労った。中田たちは星野のその熱に触れたくて、よく一軍の球場に足を運んだ。

落合は「高校生はひとりもいらない」

 一方で、落合の手法は対照的だった。

 監督に就任することが決まると、落合はまずグラウンドで動く選手たちをじっと見ていた。パズルのピースを眺めているかのようだった。何日かすると、スカウト部長である中田に言った。

「お前、いい選手獲ってくるよなあ。この選手たちをトレードせずに底上げすれば、このチームは勝てるよ」

 そして本当に、1年目からリーグ優勝を果たした。

 落合は自分の色を押しつけることはしなかった。むしろ、特色のある選手たちを用兵によって生かした。若さや未知の可能性よりも、習熟した技術を重んじた。だから、新人選手にいきなりポジションを与えることは決してなかった。

 中田は、落合が監督になって初めてのドラフト会議で、こう要望されたことが忘れられなかった。

「今年、高校生はひとりもいらない。すぐに使える選手、勝つための即戦力を獲ってくれ」

 スカウトとして忸怩たる思いがあったが、その考え方には、落合自身の野球人生が影響しているような気がした。

「今年は監督と戦うことになるかもしれない……」

 中田はまだ日体大の学生だったころから、3つ上の落合を知っていた。東芝府中の落合といえば、アマチュア球界で知らぬ者がいないほど名の通ったバッターだった。だがなぜか毎年ドラフトになると指名されなかった。そして、中田が中日に入団するのと同じ1978年に、ようやくロッテから3位で指名された。

 監督としての落合は、甲子園や大学野球という華やかな舞台に縁がなくても、遠回りしながら確かな技術を身につけた逸材を探しているようだった。かつての自分のような選手が埋もれているかもしれないという潜在意識が垣間見えた。

「ポジションは8つ埋まっています」

 成熟を重んじる落合にとって、それは最上級の表現なのかもしれない。ただ、今と引き換えに未来を失ってはならないと中田は考えていた。

 球団事務所は昼前になっても相変わらず、しんとしていた。ブーンという冷房の唸りだけがあった。中田は新聞を閉じると夏物のジャケットを手にした。二軍の試合でも観にいこうかという気になった。無性にこの球団の未来を担う才能たちを見たくなったのだ。

 ビルの外に出ると、本格的な夏の到来を告げる大きな太陽がアスファルトを焼いていた。

 そろそろ、ナゴヤドームにも行かなくてはならない……。

 中田は毎年、この時期になると、現場の指揮官とその年のドラフトについて話し合うことにしていた。

 今年は監督と戦うことになるかもしれない……。

 そんな予感があった。中田の胸にはすでに1位で指名するべき高校生の名前が浮かんでいた。そしてそれは、おそらく落合の意に反する選択であった。<続く>

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文=鈴木忠平

photograph by BUNGEISHUNJU