ラ・リーガ3シーズン目を迎えた久保建英。ヒザの負傷により離脱を強いられたが、保有元のレアル・マドリー、現所属のマジョルカではどんな評価をされているのか。各クラブの現地番記者に記してもらった(翻訳:工藤拓、全3回/マドリー番後編、マジョルカ番編も)

 フットボール界はいつの時代も若いタレントの話題に敏感だ。まだ髭の薄いニューフェイスが現れるたび、人々は明るい未来を予言し、希望を膨らませる。だが多くの場合、それは現実からかけ離れた妄想に終わってしまうものだ。

 久保建英がバルセロナではなく、レアル・マドリーの選手としてスペインに戻ってきた際も、生じた期待感は極めて高いものだった。あれから2シーズン半。光と影を経験する中で、その才能が霞んだことは一度もなかった。むしろ彼が他とは一線を画す、成功を約束された選手であると考えるべき根拠は、至るところに見て取ることができた。

 久保の才能をどう評価し、どのように伸ばしていくか。それは彼に関わる全ての人々にとって大きな挑戦となる。だが、それに対する答えを持っているのは本人だけだ。そして少なくとも、これまで彼が見せてきたパフォーマンスには、疑念よりも確信を抱かせるだけの説得力がある。

技術を擁し、肝っ玉の据わった若者という印象

 久保がスペインに戻ってきた当時は、彼がコパ・アメリカで見せたパフォーマンスが話題となっていた。レアル・マドリーは卓越したテクニックを擁し、大胆で、肝っ玉の据わった若者と契約した。国際舞台で認知されるきっかけとなった大会を通し、久保はそんな印象を我々に与えていた。

コパ・アメリカでの久保 ©Getty Images

 プレシーズン中に同様のインパクトを残した後、久保は戦いの場をマジョルカに移した。当時のマジョルカはプリメラ・ディビシオンに昇格したばかりで、華やかな世界とはかけ離れたクラブであり、献身性と守備面のハードワークを何よりも重んじるビセンテ・モレノがチームを率いていた。

 ヨーロッパ初挑戦の若者にとっては難しいプレー環境だったが、久保はフィジカル面のハンディキャップを乗り越え、日本人選手に対する「上手いが戦えない選手」という一般的なイメージを払拭していった。シーズンが終わる頃には、1年前よりも優れた選手に成長していた。

得意ではなかった守備のコンセプトを吸収した

 マジョルカでのシーズンを通し、久保はフットボールの理解を深めていった。ビセンテ・モレノの信頼を勝ち取るためには、いち早く守備戦術を学ぶ必要があったからだ。実際、彼が先発に名を連ねはじめたのは、その点で信頼できる働きができるようになってからのことだ。

 以前は得意ではなかった守備のコンセプトを、久保は要領よく吸収していった。

 ポジショニングに注意を払い、ボールが逆サイドに渡った際のスライドの動き、サイドバックへのサポートなどを精力的にこなした。サイドのスペースケアを気にかけ、リトリートをサボることもなくなった。エリートのレベルにおいては、これまで自分の引き出しにはなかった要素も必要になる。そう理解することで、久保は進化の第一歩を踏み出したのだった。

19-20シーズン、当時バルサのメッシにチェックする久保 ©Getty Images

 一方、攻撃面の能力について疑いの目が向けられることはほとんどなかった。彼が持つプレービジョン、リズムの変化、運び、抜き去るドリブルのテクニックは、最初の1分から見て取ることができたからだ。ビセンテ・モレノは4-4-2や4-3-3、5-2-3といったシステムを使い分けていたが、久保はほぼ常に右サイドを主戦場とし、それらの能力を発揮していた。

彼は縦方向への推進力を持っているから

 カウンタースタイルを確立していたチームにおいて、久保は守備から攻撃に移るトランジションの案内役に適していた。彼のフットボールは縦方向への推進力を持っているからだ。

 時に右サイドに開き、時に相手ボランチの背後でライン間のポジショニングを取ってパスを引き出す。そこで最適なプレーを選択することで攻撃を活性化させ、時間とスペースに余裕がない状況では、少ないタッチ数で素早くボールをさばいた。ファーストタッチで違いを作り出すことが多く、マーカーを置き去りにするドリブル突破は味方に数的優位の状況をもたらした。

 しかし、それでもラスト数メートルにおけるフィニッシュの精度には疑問符が付けられた。得点力に欠ける選手だという曖昧な評価が向けられたが、恐らくそれは正しい指摘ではない。

 久保はスペイン1年目のシーズンに4ゴール4アシストを記録しただけでなく、かわすドリブルの成功数がリーグ8位、被ファウル数が同10位にランクインした。それらは彼がスペインでのデビューシーズンに上々のパフォーマンスを発揮したことを裏付ける数字に他ならない。

ビジャレアルは正しい選択に見えたが……

 だがこうした数字以上に特筆すべきことは、彼が自身のスタイルに適した環境とは言い難かったチームにおいて、困難な状況に晒されながらも持てるポテンシャルを発揮してみせたことだ。

 この年、最終的にマジョルカは降格したが、久保は自らのパフォーマンスをもってキャリアアップのチャンスを手にした。多数のオファーの中から選んだのはウナイ・エメリが新監督に就任し、後にヨーロッパリーグを制したビジャレアル。当初は誰もが正しい選択をしたと考えたが、現実は違った。

ビジャレアルではエメリ監督の元でプレーしたが…… ©Getty Images

 久保が成長し続けるためには継続してプレーできる環境が必要だったが、エメリは彼を特別扱いしなかった。ビジャレアルは質の高い選手を揃え、常に試合の主導権を握ろうとするチームだ。ビセンテ・モレノと同様に、エメリも守備面で献身性を要求するという点を除いて、マジョルカとは対照的なフットボールを志向していた。

 その中で久保はエメリの信頼を得ることができず、期待されていた活躍を見せることができなかった。

エメリいわく“SBの攻め上がるスペースを……”

 4-4-2をメインに戦うビジャレアルにおいて、久保は中盤の両サイドに加え、セカンドストライカーとしてもプレーできると考えられていた。だがジェラール・モレノやサムエル・チュクウェゼ、モイ・ゴメス、そして頭角を現しつつあったジェレミ・ピノらとのチーム内競争は想像以上に厳しかった。

 エメリは久保を中盤の右、いわゆる7番のポジションで起用するのがベストと考えていたが、このポジションのファーストチョイスはチュクウェゼだった。さらにはプレーエリアが重なるジェラールとの関係構築もスムーズにはいかなかった。

 トップ下ではプレス時に周囲とうまく連動できず、サポートの動きが遅れるシーンも目についた。そしてエメリいわく、左サイドでは中央へのカットインができず、サイドバックの攻め上がるスペースを消してしまう場面があった。

 それでも久保はピッチ上で戦い、主張すべきだったが、ベンチスタートが続く状況に耐えかね、誤った形で列車を降りてしまった。結局ビジャレアルでは合計687分のプレー時間(その大半はヨーロッパリーグのグループステージだった)で1ゴール3アシストを記録するにとどまった。

<第3回:マドリー編後編に続く>

文=ハビエル・シジェス/ディアリオ・アス

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