2022年に開催される第19回アジア競技大会の正式競技として認められ、改めて注目を集めているeスポーツ。その日本人プレイヤーとして第一線を走り続けているのが、プロゲーマーのときど(36)だ。麻布中学・高校、東京大学・大学院へと進みながらプロゲーマーとなった彼に、プロを目指したきっかけ、意外な形でその夢を支えた家族との関係などについて聞いた。(全2回の1回目/#2に続く)

プロになるなんて、思ってもいなかった

――9歳の時に従兄弟とゲームで対戦したことが、プロゲーマーになるきっかけになったそうですが。

ときど 半年に1回、従兄弟と会っていて。彼の家にあったセガサターンで「バーチャファイター」を対戦してたんですよ。従兄弟は5つ上で、僕は小3で、その頃の5歳差ってすごく大きいじゃないですか。だからあまり勝てなかったんですけど、面白いなと思って。今度は勝ちたいから、また会うまでの半年の間にできるだけ練習しようって。

――それまでゲームはプレイされていなかったんですか。

ときど ずっとやっていましたけど、基本的にCPU相手に対戦することが多くて。言い方が悪くなっちゃうんですけど、同級生とやったりしても相手にならなかったんですよ。全然負けなかったので、従兄弟に負けて燃えたというか。

 従兄弟はやり込んでいるのもあったけど、攻略本も読み込んでいたんですよ、当時の僕は、対戦ゲームでもそういう本が出ているのを知らなくて。そこで、ゲームを本気でやってる人たちがいて、攻略本を書くようになるという道も知って。ゲームで生計を立てる、ゲームを仕事にしてる人がいるんだっていう。いまはこうやってゲームのプロでお金をもらってるけど、当時はそういうモデルがなかったので。さらにゲームに夢中になりつつも、自分がそういう道で生計を立てるようになるとは全然思ってもいませんでした。

「模試が良ければソフトを買ってもらえる」で麻布中合格

――ご実家はゲームに対して寛容なほうでしたか。

ときど 周りの家に比べたら、緩かったと思いますね。模試の結果が良かったら、ソフトを1つ買ってもらえるっていう。だから、勉強も頑張って。この前も親父に小言を言われましたからね。「すげぇ、買わされたわ」って(笑)。

――麻布中学のご出身ですが、そういった環境から合格を目指すことになったと。

ときど 勉強を頑張ったっていうよりは、純粋にゲーム目当てでやっていたら受かったという感じで。小学校の頃って、そんなに勉強やらないじゃないですか。僕はそういう見えやすい対価があったので、頑張りやすかったのかなって思いますね。

――次第に勉強に注力するようになりましたか。

ときど なりましたね。ゲームはハッキリとした目標があったわけじゃないですからね。従兄弟との対戦もありましたけど、2回目にやった時にまぁまぁいい勝負をして、3回目で勝ったんですよ。そこで一段落しちゃって、以降は普通にゲームを楽しんでいましたね。

――麻布中学に入ってからは、“模試とゲームソフト”に代わるようなものというのは。

ときど 勉強もしなくなったので、なくなっちゃったんです。ただ、麻布に通うことで行動範囲がグンと広がってゲームセンターにも通うようになったので、そこで対戦の奥深さみたいなものを垣間見ましたね。中学生どころか、高校生、大学生、社会人もやっていて。「まったく勝てないな」って思ってしまうくらいの強い人がたくさんいて、ゲームのモチベーションがすごく上がりましたね。そこでゲームの大会があることも知りましたしね。

「自分はやっちゃいけないものに手を出してるんだ」

――じゃあ、学校が終わったらゲーセン直行みたいな感じで。

ときど 毎日、寄っていましたね。僕、地元が神奈川の金沢八景なんですよ。最初は情報がないから、家の近所にあった駄菓子屋とゲーセンが一緒になった店でプレイしていて。強い人たちは、そこを卒業するというか、高みを目指して駅前のゲーセンに集まるんです。それで行ってみたら、本当に強い人たちがいて。で、地元だと、さらに強い人たちは横浜とか大船に向かうんです。僕の場合は、金沢八景が横須賀寄りだったので、そっちのゲーセンに通ってから、横浜と大船に。そういうのを繰り返して、あちこちから強い人が集まりまくってる新宿に行きましたね。

 新宿のゲーセンは東口のモア通り街に「モア」という有名な店があって、高校生になってからはそこに通うようになりました。

――新宿に通い出してから、本格的にゲームを仕事にしようというビジョンが見えてきたと。

ときど いやいや、全然です。むしろ、年齢を重ねるにつれて、「自分はやっちゃいけないものに手を出してるんだな」って感じてきちゃって。

 やっぱり周囲からは、ゲームって良くは思われていなかったんですよね。うちの親はゲームに対して寛容なほうでしたけど、それでも「ゲームセンターでゲームやっています」とは言えなかった。

――ゲーセンは不良の溜まり場みたいな。

ときど ゲーセンはそういうイメージだったし、ゲームそのものがめちゃくちゃ悪い扱いでしたから。マニアックというよりオタクのイメージ。麻布の友達にはゲーセンに通ってることを言えましたけど、大学では言い出しづらい雰囲気でしたね。

 振り返ると、麻布は僕らみたいなマニアックな趣味を持つ人が多かったし、他人が好きなものを尊重する校風というか。人ってみんなそれぞれ違うから、好きなことも違うってことをちゃんと理解してたんですよ。

「絶対に受験頑張るから」→海外大会でまさかの優勝

――麻布中学では、一緒にモアに通うゲーム仲間は。

ときど いましたけど、ずっと続いた人は多くなかったかな。僕は本当に没頭しちゃうタイプだから、自分より強い人がいる空間にいると、「絶対に勝ってやる」とのめり込んじゃって。高2で海外の大会に初めて行ったりして、夢中になって気づいたら高校が終わってたみたいな。

――海外への遠征費は、どうやって捻出されました?

ときど 親に頭を下げて。「これが終わったら、絶対に受験を頑張るから」って。その後も、ずっとやってましたけど(笑)。

 一緒に行ったプレイヤーのなかで僕が最年少だったんですけれど、「おまえ、学校いいところなんだから英語できるだろ」なんて言われて、向こうのプレイヤーたちに挨拶させられたりして。無茶振りすんなぁと思ったけど、いい経験だったと思いますよ。

――各国からもプレイヤーが集まっていたと思いますが、実力はどうでした?

ときど 技術力に関しては、日本のプレイヤーのほうが高かったなと思います。というのは、用いられるゲームって日本産なんですよ。しかも、日本には昔からゲームセンターという練習場があって、それこそ強い人たちが毎日のように対戦してたわけじゃないですか。

 海外はそういう感じではなく、誰かの家に集まってやることが多い。ゲームセンターもあるんですが、90年代に廃れていてプレイヤーが切磋琢磨する場にはなっていなかった。ただ、アメリカなんかは人口が多いので才能があったり、身体能力が高い人がいて。そういうプレイヤーは、違う要素で勝負してくるので面白いんですよ。そこも含めて学びが多かったし、優勝もできたし、自分の中では得るものが大きかった経験ですね。

 優勝には親も驚いていました。賞金も20万円以上はあったので旅費とかもカバーできましたし。親には返さなかったけど(笑)。大学に進んでからも海外大会に出ましたけど、その費用はちゃんとバイトをして稼いでました。

真剣な眼差しで試合中のときど選手(CAPCOM Pro Tour 2019 アジアプレミア)

「東大一択」小さい頃から“すごさ”を叩きこまれていた

――「ときど」という名前をつけたのは、このあたりで?

ときど 中学に入った頃になります。今の自分の専門は「ストリートファイター」というゲームなんですが、当時は他のタイトルを遊んでいて、そのゲームの中で、飛んで、キックして、「どうした!」っていう掛け声と共に必殺技を決めるという戦い方しかやらなかったんですよ。そうしたら対戦する人たちもウンザリしちゃって、「それしかやらないから、これからはおまえの名前は『ときど』で決まりだ」って言われて。「と」んで、「き」ックして、「ど」うしたっていう頭文字を取って「ときど」なんですよ。

 昔のゲームの大会って、みんな自分でつけたリングネームで出ていたんです。それで自分の名前を考え出すのに困っていたので、もう「ときど」でいいやって。

――大学は東京大学に進まれたわけですが、理科一類の一択で狙ったのですか。

ときど 一択ですね。東大がいかにすごいところかということを、小さい頃から叩き込まれていたんでしょうね。とにかく東大ならどこでもいいだろうと思って、自分的に一番入りやすいと思った理科一類を選んだんです。理科一類は工学系、二類は理学系、三類は医学部と分かれるんですけど、一類は募集人数が多いから狙えるなって。

――何を学んでいたんですか。

ときど 2年までは準備期間というか。専門的なものはやらず、数学とか英語とか幅広く学ぶんです。そのなかで興味がある研究室を選んで、3、4年はそこで学ぶ。研究室に学部が配属される形なんですよ。

 で、僕はマテリアル工学科に。そこは材料工学で、物の基盤となる材料について研究してました。東大に入っても勉強しなかったから点数が低くて、そんな状態で入れて就職もしやすいといったらそこしかなかったと。積極的に進んだ感じではありませんでした。

大学院時代に訪れた転機

――プロゲーミングチームに入られたのは、大学院時代ですよね。

ときど アメリカのThe Traveling Circusというチームです。僕がいたマテリアル工学科は、9割方が大学院に進むんですよ。なんだかんだで研究も楽しかったし、就職もしたくないから、僕も大学院に進もうと思ったんですけど、点数が足りなくて希望した研究室に行けなくなっちゃって。それで違う研究室に入ったけど、そういう背景もあって研究にのめり込めなかったり、気持ち的にもどこか投げやりになっていて迷惑も掛けていたと思うんですよ。

 こんなことだったら就職しとくんだった、と思っていたら、よく対戦していた梅原(大吾)さんが日本人初のプロゲーマーになると聞いて。「そういう道があるのか!」とハッとすると同時に、ならば自分もその道に進んでいいんじゃないかと。そこへタイミング良く、The Traveling Circusから声を掛けてもらったんです。でも、相当悩みましたけどね。

――周囲に相談したり。

ときど ずっと人には言えなかった趣味だし、相談したところで返ってくる答えもわかってたんですよ。だけど、悩んで悩んでどうしようもなくなっていろんな人に相談すると、やはり「とりあえず、大学院の勉強をがんばれよ」って予想していた答えをされてしまう。それを聞いて、「やっぱり、そうだよな」って。

怖かった親父だけが…「大学院なんかやめてプロゲーマーになれ」

――お父さんはどうでしたか?

ときど 背中を押してくれたのが、親父だったんですよ。もう、わけわからんですよ。あんだけ「東大! 東大!」と言ってたのに、「お前はどうしようもない奴だから、普通の会社に行ったって、成功しないって。だったら、東大大学院なんかやめてプロゲーマーになれ」って。

 親父って、大学の先生だったんです。すごく怖い人。すごく真面目な人。とにかく堅いイメージで。なので、最後の最後まで相談しなかったんですね。話をした時はぶっ飛ばされるのを覚悟していたら、そう言ってくれて。僕が欲しいような答えを返してくれる人は1%もいないと思ってたけど、思いっきり目の前にいたじゃんって(笑)。

――東大を出ていると、どうしてもプロゲーマーの前に「東大卒」をつけられてしまうことが多いと思いますが、どこか引っ掛かる部分は。

ときど いやいや、逆にありがたいというか。やっぱり東大を出てなかったら、ここまで注目してもらうこともなかっただろうし。僕自身も「東大卒」を使わせてもらっているくらいですから。(後編に続く)

文=平田裕介

photograph by Shiro Miyake