グレイシー柔術が“最強”と称されていた時代に、ひとりの日本人プロレスラーが格闘技界に大変革をもたらした。世界的なMMAブームの立役者となった男の名前は、桜庭和志。その姿を撮り続けてきたリングサイドカメラマンの長尾迪氏が、自身の写真とともに桜庭の足跡を振り返る(全2回の後編/前編へ)。

 ホイスを撃破した桜庭には、すでに次のグレイシーが対戦相手として用意されていた。ヒクソンの従兄弟であるヘンゾである。2000年8月27日の「PRIDE.10」で両者は対戦。お互いの寝技を警戒し、立ち技の展開が多かったが、最後は桜庭がチキンウィングアームロックを決める。ヘンゾの左肘はあらぬ方向へ曲がり、脱臼していたがヘンゾはギブアップせず、レフェリーが試合を止めた。ヘンゾは潔く敗北を受け入れ、桜庭の勝利を称えた。試合終了後、ヘンゾの実弟のハイアンが、兄の敵討ちを宣言。ついに桜庭はグレイシーを追う立場から、追われる立場になったのだった。

 この頃の桜庭は2カ月に一度のハイペースで試合をこなしていた。ヘンゾ戦からわずか2カ月後の10月に次の試合を行い、ハイアンとの試合も同年12月23日の「PRIDE.12」で行われた。ハイアンはグレイシーで最も凶暴と言われ、試合よりもストリートファイトに明け暮れている喧嘩屋だった。判定という結果だったが、内容は桜庭の完勝。彼はハイアンに付け入る隙を全く与えず、実力差をまざまざと見せつけた。

ああああ

 桜庭のグレイシー一族との試合内容と実績。関係者の間では、グレイシーの名誉を守るためには、ラスボスともいえるヒクソンが出陣するしかないだろう、と言われていた。

宿敵ヴァンダレイ・シウバとの邂逅

 桜庭の次戦は2001年3月25日の「PRIDE.13」。対戦相手はヒクソンではなく、後にPRIDEミドル級の絶対王者として君臨するヴァンダレイ・シウバだった。愛息ハクソンを亡くしたばかりのヒクソンは、試合ができる状態ではなかったのだ。この大会から、PRIDEはルールを改正した。最大の変更点は、グラウンド状態での蹴りによる攻撃が認められたこと。寝ている相手に対する膝蹴り、サッカーボールキックといわれる顔面への蹴り上げなど、格闘技界で最も過酷といえるルールとなった。

桜庭を踏みつけるヴァンダレイ・シウバ

 シウバはこの試合で、ルール変更を最大限に生かした。グラウンドで下になっている桜庭の顔面に、容赦ない膝蹴り、蹴り上げ、踏みつけ。桜庭の顔面は、みるみるうちに変形してゆく。レフェリーが試合を止めるのに、それほどの時間はかからなかった。リングサイドで撮影していた私はショックだった。桜庭が負けたこともあるが、見てはいけないものを見てしまった罪悪感に苛まれた。

 2001年11月3日の「PRIDE.17」で、桜庭はシウバにリベンジする機会を与えられた。同大会よりPRIDEは体重を2階級に分け、93.1キロ以上はヘビー級、93キロ以下はミドル級とし、この試合はミドル級の王座決定戦となった。しかしながら、1ラウンド終盤にシウバの投げ技で、桜庭は肩を脱臼しTKO負け。2003年8月にもミドル級グランプリの1回戦として3度目の対戦が組まれたが、結果的にこれがシウバとの最後の試合になった。復讐に燃える桜庭だったが、右フックで失神KO負け。シウバへのリベンジはかなわず、ベルトも巻けず。桜庭はその後HERO’Sなど他団体でも王者になるチャンスがあったが、結局のところMMAのベルトには手が届かなかった。

シウバの右がカウンターでヒットし、リングに大の字に倒れる桜庭

 時期は前後するが2002年8月28日、K-1とPRIDEがタッグを組んだ合同イベント「Dynamite!」が、国立競技場で開催された。9万人以上の観客を集めた同大会は日本のリングスポーツ史上最大のイベントであり、今後も動員数の記録が破られることはないだろう。そんな歴史的な大会で、桜庭はPRIDEの代表としてメインイベントに登場し、ミルコ・クロコップと対戦。試合を優位に進めていたが、下からの蹴り上げを顔に受け、眼窩底骨折によるTKO負けになった。眼の下を大きく腫らした桜庭は、涙ながらにこう語った。

「夏休みも最後なのに、たくさん応援に来てくれたのに……。負けてしまい、すみませんでした……」

 大舞台でメインイベントを任された桜庭。負けてもマイクを持つその姿は、私にとって忘れられない、切なすぎる真夏の思い出になった。

ミルコ戦後、眼窩底骨折という重傷を負いながらマイクを握った桜庭はファンに謝罪した

「危ない、試合を止めろ!」深刻だったダメージの蓄積

 初期のPRIDEでは無差別級で戦い、さらに過酷なルール変更の影響もあり、この頃から桜庭の動きは精彩を欠くようになった。身体にはダメージが蓄積され、怪我が治りきらないまま次の試合をすることも多かった。観客は桜庭を求めていたし、格闘技界も桜庭を欲していた。これがエースの宿命なのだろうか。それとも桜庭という漢の性なのだろうか。

 桜庭は2005年大晦日の試合を最後に、PRIDEから離脱した。2006年8月5日に、前年度に旗揚げした新興団体HERO’Sで活動を再開。メインはもちろん桜庭の試合だ。桜庭はリトアニアのケスタティス・スミルノヴァスのパンチの連打でKO寸前に追い込まれた。私も撮影しながら思わず「危ない、試合を止めろ!」と声が出るほど危険な状態だった。最後は桜庭が腕十字で勝つには勝ったが、試合直後に検査入院するほどのダメージを受けた。

 私は桜庭がHERO’Sへ移籍する前後あたりから、彼の試合を撮影することが辛く感じるようになった。組み技主体の選手との試合は非常に興味深く、特に寝技の攻防は撮影のやり甲斐があった。しかし、打撃を得意とする選手との対戦は、パンチをまともに被弾することが多くなり、痛々しいのだ。年齢を重ねれば重ねるほど反射神経は鈍くなる。若いときなら避けることができた打撃に、身体が反応しなくなっていた。

グロッキーな状態で試合を続けたケスタティス・スミルノヴァス戦は、レフェリーの判断が物議を醸した

 リングサイドで撮影する私にも同じ感覚がある。以前なら撮れていた瞬間的な写真が、微妙なタイミングで遅れてしまうのだ。ただ、私の場合はカメラの進歩に助けられた。36枚しか撮れないフイルムカメラから、無制限に撮れるデジタルカメラに変わった。一瞬を狙う撮り方から、撮り始めるタイミングを早めることで決定的な瞬間を逃さない撮り方に変えた。それにより今日まで最前線で仕事を続けることが出来ている。

 リング上の選手は、己の身体だけがすべての武器である。だからこそ、現役で試合をする限り、年齢という壁は常につきまとってくるのだ。

突如カムバックしてRIZINに“恩返し参戦”

 2007年6月、ロサンゼルスで行われた桜庭の試合は非常に印象的だった。リングサイドでニコラス・ケイジをはじめとするハリウッドスターが観戦する中、桜庭はセミファイナルに登場。ホイス・グレイシーとの7年ぶりの再戦だった。ホイスは典型的な組み技の選手だ。日本での試合のように過度な期待やプレッシャーもない中、桜庭は実にのびのびと試合をしていた。これが桜庭本来の試合スタイルである。まるでホイスとの再会を試合で楽しむような、明るいファイトだった。この大会は屋外ということもあり、ときおり吹く夜風も心地よく、試合には判定で敗れたものの、桜庭の生き生きとした姿が印象的だった。

アメリカで行われたホイスとの再戦。ハイレベルな寝技の応酬でファンを沸かせた

 2010年5月から2011年9月にかけて、桜庭はキャリア初の4連敗を喫した。このまま引退かと思われたが、2015年の年末に突如、カムバックすることになった。この年、榊原信行氏が新しい格闘技団体RIZINを立ち上げ、そのイベントに参戦したのだ。榊原氏はPRIDEの立ち上げメンバーの一人で、2003年からは社長としてその手腕を発揮。日本にMMAを根付かせた人物だ。PRIDEは2007年にズッファ社(UFCの運営会社)に売却され、消滅した。この突然とも思える桜庭の復帰は、PRIDEでお世話になった榊原氏への恩返しだったと、私は思う。

 桜庭の対戦相手は青木真也。青木は世界のベルトも何本も腰に巻いたことのある強豪だ。桜庭にとってはかなり厳しい試合になることが予想されたが、やはり結果は惨敗だった。現代MMAの最先端をゆく青木は強く、どちらかと言えばオールドスクールの桜庭のMMAは歯が立たなかった。グラウンド状態で強烈なパウンドを受け続け、レフェリーが試合を止めたのだが、桜庭は最後までタップをしなかった。桜庭は絞め技でタップすることはあっても、打撃ではなかった。これもプロレスラーとしての誇りだったのだろうか。

試合後に青木真也に声をかける桜庭。青木はマイクで「まだ桜庭さんの代わりになれないです。引退しないでください」とリスペクトを示した ©RIZIN FF Susumu Nagao

桜庭が語った「プロレスラーとしての矜持」

 2018年、桜庭はQUINTET(クインテット)という寝技の格闘技大会をスタートさせた。ルールも自分で考え、試合では膠着禁止。5人1チームによる勝ち抜き制の団体戦を導入し、選手が常にアグレッシブに一本を狙えるよう大将戦以外に判定はなく、勝敗は失格を除けば絞めか関節技のみで決まる。選手たちには桜庭の信条としている「魅せる」試合を望んだ。もちろん桜庭はプロデューサー兼選手として、旗揚げ戦に参加した。

 QUINTETでは一切の打撃が禁止されているので、感情的で凄惨な試合になることはなく、選手間同士の遺恨も生まれにくい。試合後には爽やかな表情をしている選手も多い。観客は試合の展開の早さ、一瞬で決まる関節技に魅了される。明るく楽しく華のある真剣勝負は、桜庭にとっての理想郷のような気がする。

クインテットは、

 桜庭の戦いの歴史は日本のMMAの歴史でもある。当時、難敵グレイシーから一本勝ちした選手は、世界でも桜庭ただひとりだった。MMAがグレイシー柔術を中心に回っていたあの時代、「彼らは決して勝てない相手ではない」ということを証明し、世界中の格闘家に勇気を与えた彼の偉大な足跡は、間違いなく永遠に語り継がれていくだろう。

 少しだけ私の個人的なわがままを言わせてほしい。それは桜庭とヒクソン・グレイシーとの対戦だ。ヒクソンは既に引退しているので、桜庭とMMAの試合をすることはできない。それならば、グラップリング(組み技)の試合はできないだろうか。それが無理なら、エキシビションでもいい。私は両者が同じリングで組み合う姿を見たいのだ。

RIZINの旗揚げ興行で桜庭に花束を贈るヒクソン・グレイシー ©RIZIN FF Susumu Nagao

 最後にUFCの殿堂入りのときの桜庭スピーチを抜粋する。

「ボクはアスリートであると同時にプロレスラーです。プロレスで学び、プロレスから吸収した細胞がDNAとして染み付いています。お客さんに伝わる試合をすること、それがプロレスラーとしてのボクの矜持です」

 魅せることこそがプロである。そんな桜庭の活躍を、私はこれからも撮り続けていきたい。

文=長尾迪

photograph by Susumu Nagao