ホンダF1でマネージングディレクターを務めてきた山本雅史が2022年の1月末をもって、ホンダを退社することが明らかになった。

 山本がマネージングディレクターとなったのは2019年。それ以前はモータースポーツ部長として、ホンダのモータースポーツ活動を牽引していたこともあり、山本は技術者ではなく、いわゆる「文系」のバックグラウンドを持つ人物だと思い込んでいる方もいるようだが、そうではない。

 山本がホンダに入社したのは1982年。しかも、それは東京・青山に本社がある本田技研工業ではなく、埼玉県和光市の本田技術研究所だった。高校時代に機械工学機械科に在籍し、ホンダに入社した山本が目指したのはエンジン設計だった。しかし、最初に配属されたのは市販する新車のデザインやモーターショーに出すための車を作る和光研究所にある試作ブロック。山本は上司を訪ね、こう言った。

「僕はエンジンの設計をやりたくてホンダに入ったんです」

 それを聞いた上司は次のように諭した。

「石の上にも3年という言葉を知っているか。社会人になったばかりなんだから、まず3年は社会勉強だと思って、いまの仕事を頑張りなさい」

 その言葉を胸に、山本は将来の夢を実現するための勉強だと信じ、与えられた仕事に懸命に取り組んだ。

ホンダでの使命を知った3年間

 3年後、その上司が仕事場にやってきて、こう言った。

「3年経ったぞ。どうするんだ?」

 3年前に相談したことを覚えていてくれたことに山本は感謝し、こう答えた。

「いまの仕事も、やってみると面白いです」

 そのときから山本は、こんな思いを抱いていたのかもしれない。

「組織が大きくなれば、いろんな人材が必要となる。ならば、自分を必要としてくれるところで、頑張ればいい。そして、そんな人たちが活躍できるかどうかは、その人材を束ねるリーダー次第だ」

 そのことを山本は、のちに取り組んだソーラーカー・プロジェクトで実体験する。

 オーストラリア大陸を縦断するソーラーカーレース「ワールド・ソーラー・チャレンジ」に参戦するため、本田技術研究所の若手エンジニアを中心にしたプロジェクトチームが結成され、山本もその一員となった。最初に参加した90年にいきなり2位を獲得したホンダは、2度目の参加となった93年にそれまでの記録をすべて塗り替えて新記録で優勝を果たした。このときの山本は、ソーラーカーの開発だけでなく、ドライバーも担当した。20代前半にカートの全日本選手権で腕を鳴らした経験を持つ山本だったが、この経験は組織のプロジェクトを背負って走るドライバーの気持ちを理解する良い機会となった。

 その後、山本は世界中の2輪、4輪ファンから注目を集める世界最速を目指すイベント「ボンネビルスピードウィーク」に挑戦する企画を提案。16年に見事世界記録を樹立した。そのときのマネージメント力が買われ、16年からF1活動に参画することになる。しかし、山本を待っていたのは、かつてないほどの逆風だった。

アブダビの決勝レース後、ホンダとレッドブル双方のスタッフが揃っての記念撮影。山本MDはここに至る信頼関係を築いた立役者だ ©Red Bull

窮地のホンダを救った決断

 第4期F1参戦3年目の17年、マクラーレン・ホンダの成績は再び低迷し、マクラーレンとの関係は悪化。ホンダはF1活動存続の危機に直面した。成績不振によるスポンサー離れによってチーム経営が厳しくなったマクラーレンは、あろうことかその損失分はホンダが補填すべきだとプレッシャーをかけてきた。F1に復帰して3年が経過してもなかなか結果が出ないこともあり、ホンダの経営陣の中には「5年間の契約があるマクラーレンに違約金を支払って、早期にF1から撤退」を唱える者もいたという。

 板挟みになりながらも、山本は必死に耐えた。「このまま未勝利のままホンダがF1から撤退したら、ファンが悲しむだけでなく、エンジニアが勝利という成功体験を経験することなく終わることになる」のをどうしても避けたかったからだ。

 最終的に山本は、損失分を補填することも違約金を発生させることもなく、マクラーレンとの関係を17年限りで解消し、かつホンダのF1活動を継続することに成功。さらに18年からトロロッソへ、そして19年からはトップチームであるレッドブルへパワーユニットを供給する契約を締結し、ホンダ復活の足掛かりを築いた。

 ホンダのラストイヤーとなった21年には、日本GPで走らせるはずだった特別カラーをトルコGPで復活させた。アメリカGPでなかなか実現できなかった「アキュラ」ブランドをリアウイングに復活させるなどの象徴的なシーンも演出し、世界中のホンダ従業員、ファンの胸を熱くさせた。山本のそんな行動の原点にあるのは、「ホンダって、ちょっと変わっているけど、なんか面白そうなことをやる会社で、それをファンも期待している。そんなホンダを私は愛している」という思いではないだろうか。

日本GPで披露されるはずだった特別塗装のマシン。後ろに並ぶのは左からペレス、田辺TD、山本MD、フェルスタッペン ©Masahiro Owari

 ファンを大切にする心は、ドライバーズチャンピオンを獲得したアブダビGPの直後でも変わらず、山本はまずファンに感謝の言葉をおくった。

「F1に復帰して7年間、ホンダF1を応援してくださった皆さん、レッドブル・ホンダ、アルファタウリ・ホンダ、さらにマクラーレン・ホンダから応援してくださったファンの皆さん、本当にありがとうございました。辛いことも厳しい時期もありましたが、皆さんの力でここまでやって来れました。皆さんの激励と温かいメッセージは、常にわれわれホンダの大きな支えになっていました。7年間本当にありがとうございました」

「やりきった」からこその新たな挑戦

 そのホンダを辞める決断を山本は下した。

「いまは『やりきった』という気持ちでいっぱいで、ホンダ人生に終止符を打ついいタイミングと考えました。これからは家族と仕事のワークライフバランスをきちんと取りながら新しいチャレンジをスタートさせる決断をしました」

 山本が今後どんなチャレンジを行うのかについて、この原稿を執筆している時点では本人からもホンダからも詳細は明らかにされていない。しかし、山本がF1の世界で経験し、実現してきたことは、山本にとってだけでなく、ホンダそして日本のモータースポーツ界にとって、かけがえのない財産となったことは間違いない。そして、その財産を必要とする者がいるはずだ。

 ただ、それよりもいまは、自分のことよりもホンダを愛し、全身全霊で戦い抜いた山本の40年間のホンダ人生に、乾杯したい。

文=尾張正博

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