ここ数年の巨人キャンプの取材で戸惑うことがある。

 球場で選手の姿を追うときに、必ず見るのは背番号なのだが、原辰徳監督が3度目の監督に復帰した2019年オフに14人の選手の背番号をシャッフル。その後も毎年、若手選手を中心に背番号の変更が行われてきている。

 しかも今季から背番号「2」を背負うことになった吉川尚輝内野手の場合は、入団時の「0」が20年には「29」になったと思ったら、「2」に。また昨年、ブレークした松原聖弥外野手も、今季からは引退した亀井善行外野手がつけていた「9」を背負うことになったが、育成から支配下登録されて背番号「59」となったのが2018年で、昨年には「31」となったばかり。2年連続で背番号が変更となっている。

 もちろんこうした背番号シャッフルには原辰徳監督の意図がある。

 背番号にはそれぞれのチームの歴史があり、その歴史を背景に、特別な意味を持つ番号がある。

「55」を背負うことになった秋広優人

 例えば巨人の場合、吉川がつける「2」はかつては名手と謳われた広岡達朗さんがつけていた番号だ。その後も野球巧者の内野手がつける番号として受け継がれ、近いところでは元木大介ヘッドコーチが現役時代につけていた番号となる。また松原の「9」は同じ外野手で、長年チームの精神的支柱だった亀井の後を継ぐという意味合いが込められたものなのはいうまでもない。岸田行倫捕手が「38」から変更になった「27」は、V9の頭脳と言われた森昌彦(現祗晶)捕手がつけていた捕手番号だ。

 吉川や松原は成長を認められて最初の背番号変更が行われ、そしてようやく彼らの役割にふさわしいそれぞれの番号をつける資格を認められたということである。同時に同じ番号をつけてきたOBたちに恥じない選手になって欲しいという、原監督の期待が込められた変更とも言えるだろう。

 そうした背景の中、今年の背番号の変更で最も注目を集めたのが、それまでの「68」から巨人で、というより球界で、特別な意味を持つ「55」を背負うことになった秋広優人内野手だろう。

 松井秀喜さんの背番号「55」だ。

©Sports Graphic Number

松井の背番号「55」には、少し筆者も絡んでいた

 秋広の「55」が発表された時には、「まだ早いのではないか」という声があったのも事実だ。かつて同じ「55」を背負って、ついに巨人では結果を残せないままに日本ハムに移籍した大田泰示外野手(現DeNA)を思い出したファンも多かったかもしれない。

 それだけこの「55」という番号には重みがあるということだが、それこそ松井さんが最初につけた時には、ある意味、何の深い意味もない、普通の番号だったのである。

 実は松井さんが背番号「55」をつけるに至った経緯には、少し筆者も絡んでいた。

星稜高校時代の松井 ©Sports Graphic Number

 松井さんが星稜高校から巨人に入団することが決まったのが1992年のドラフト。4球団競合の末に、監督復帰が決まったばかりの長嶋茂雄監督(現終身名誉監督)が見事にくじ引きを引き当てて交渉権を獲得した。そのとき筆者は読売系列のスポーツ報知の巨人担当キャップという職にあった。

 長嶋監督の誕生に松井さんの入団。スポーツ紙にとっては盆と正月が一度にやってきたような騒ぎだった。2人の話題を1面にすれば新聞は売れた。そこで長嶋監督がドラフトでくじを引き当て、サムアップした瞬間から、スポーツ紙的には次のニュースは松井の背番号、となった訳だ。

候補に上がった「36」と「55」の2つの番号

 そのときの巨人の背番号で1桁台は欠番以外は主軸がつけていて、10番代、20番代の目ぼしい番号もすべて埋まっていた。もちろん高校を卒業したばかりの選手が、先輩の背番号を奪うわけにもいかないので、とにかく何か意味のありそうな空き番号を探すと、「36」と「55」という2つの番号が候補に上がってきた。

 松井さんの高卒のホームラン打者というイメージは、巨人の大先輩でもある王貞治現ソフトバンク球団会長と重なる。その王会長といえば当時のシーズン最多本塁打記録55本である。しかも以前に台湾出身の中日・郭源治投手から「台湾では勝負事にはゾロ目が縁起がいい」という話を聞いていたので、「これしかないな」と感じたのだった。

 ちなみに残った「36」は、長嶋監督の現役時代の「3」に因む番号として候補にしていたが、何と後に入団が決まる長嶋監督の長男・一茂内野手がつけることになる。

巨人では背番号「36」をつけた長嶋一茂 ©Sports Graphic Number

長嶋監督「その番号を松井が自分の番号にすればいい」

 背番号「55」にターゲットを絞ると、その番号に決まるようにまず長嶋監督に会って「松井の背番号は『55』でどうでしょうか」と提案した。長嶋さんは背番号には無頓着で「何番でもいいですよ。その番号を松井が自分の番号にすればいいんだから」と快諾してくれた。

 そして次は球団フロントの説得だった。

 当時の保科昭彦代表に「長嶋監督の了承はいただいているのですが……」と背番号「55」案を話すと、「監督が了解しているのなら」とこれも簡単に承諾してくれた。

 何だか拍子抜けするくらいに簡単に松井さんの背番号は「55」に決まってしまったのである。

 すぐに金沢で待機していたカメラマンに連絡して、松井さんの実家に押しかけ、用意していた背番号「55」のユニフォームを着てもらって写真を撮影。それが翌日のスポーツ報知の1面を飾ることになる。

松井「僕は訳が分からなかったけど、そういうことだったんだ!」

 後に松井さんにこのときの経緯を話すと「何で報知のカメラマンがいきなり背番号『55』のユニフォームを持ってきたのか、僕は訳が分からなかったけど、そういうことだったんだ! 本人が何も分からないのに撮る方も撮る方だけど、撮らせる方も撮らせる方だよね!」と大笑いしたのを覚えている。

 ただこの「55」という背番号にはもう1つ、ある特別な思いがあった。それまでの日本のプロ野球の通例では、背番号は選手の成長とともに、若い番号に変わっていくものだった。

「でもメジャーではこれくらいのデカい番号の一流選手がゴロゴロいる。できれば将来、一流になってもこの番号を変えないで欲しい」

 2年ほどして、いよいよ主力選手への道を本格的に歩み出した松井さんにこうお願いしたことがあった。

「僕もそのつもりですよ。この番号は気に入っています」

秋広優人が「55」をつけることに松井秀喜は……

 こう答えた松井さんは、言葉通りに巨人時代はもちろん、メジャー移籍を果たした後も、背番号「55」にこだわり続けてくれた。最終的にはメジャー4球団目となったタンパベイ・レイズで「35」をつけるまでずっと背負い続けてくれたのである。

 松井さんの活躍とともに、最初は何の意味もなかった「55」という背番号が、巨人だけでなく日本球界ではスラッガータイプの主力野手(特に外野手)が背負う特別な番号となっていった。

 松井さんが「55」という番号に、大きな意味を与えてくれたのである。

「もう20年近く前からジャイアンツの55番は私の番号ではありません。もし今でもジャイアンツの55番に私の面影を感じてくださる方がおられるならば光栄ではありますが、そんなことを秋広選手が受け止める必要は全くありません。背番号55が東京ドームで躍動してくれたら、私もとてもうれしいです」

 秋広が背番号「55」をつけることについて、スポーツ報知の取材を受けた松井さんはこう答えていた。

 いかにも松井さんらしい気遣いと思いやりに溢れるコメントだが、その言葉の後ろには、背番号とは自分で作るものだという松井さんの思いも見え隠れするようにも思う。

「背番号に価値を与えられるのは、いまその番号を背負っている選手しかいない」

身長2mの体躯にはデカい番号の方が似合う

 特別な意味のなかった背番号「55」を、球界の1つのステータスに作り上げたのは、確かに松井さんだった。ただ今の巨人の「55」に何かの価値をつけられるのは、今年からこの番号を背負う秋広しかいない。松井2世ではなく、秋広1世になることが、実は松井さんが思うこの背番号を継承する本当の意味なのだ。

 そしてそのことは秋広だけではなく吉川も松原も、そして岸田も同じである。

 身長2mで、身体も出来上がってきて100kgを超える体躯になった秋広には、松井さんがそうだったようにこんなデカい番号の方が似合うはずである。

 2週間余で始まる宮崎春季キャンプ。取材に行ったらやはりまず、背番号「55」を探してしまいそうである。

文=鷲田康

photograph by JIJI PRESS