ボルダリングの壁をバックに、新郎は黒のタキシード姿、新婦はゴールドと淡い色のウェディングドレスに身を包み、幸せそうな表情を浮かべている。

 昨年12月25日クリスマス。東京オリンピックのスポーツクライミング女子銅メダルの野口啓代と男子4位の楢崎智亜が結婚を発表した。クライミング界のビッグカップル誕生にはファンも驚き、2人のSNSのコメント欄には祝福メッセージが溢れた。

「驚きの声もありましたし、やっぱりみたいな声もあったり、私たちってそういう風に見られていたんだなって思いましたね。もしかしたらネガティブな声もあるのかなと思っていたんですけど、そういうのは一切なくてホッとしました。

 あらためてたくさんの方々に祝福いただいて、初めて“自分は結婚したんだな”と実感することができましたし、東京オリンピックのときと同じぐらいの反響があって自分たちのことでこんなにも喜んでくださる方がいるんだって。本当にうれしかったです」

SNSにアップした幸せそうな2人の姿に、多くの祝福の声が寄せられた(野口さん提供)

猫3匹と一緒に過ごす新婚生活

 かねてから、東京オリンピックを最後に現役から退くことを公言していた。現在は第一線から退き、クライミングの普及活動に努めながら、プロフリークライマーとして“壁”に登り続けている野口さん。

 少しはゆったりした時間を過ごせているのかと思いきや、トレーニングや身体のケアで1日の予定がびっしりと詰まっていた現役時代同様に、「毎日予定が欲しい人なので、色々予定を入れてしまうんです(笑)」と、変わらず多忙な日々を過ごしているようだ。

 入籍して約半年、結婚発表から3カ月。夫婦2人と猫3匹の生活の日々を送っている。

 結婚前と変わったのは夫である楢崎がより競技に専念できるように、現役時代は分担していた家事を一手に引き受けたことだ。「楢崎選手の役割は?」と尋ねると「私が留守にしているときに、猫の世話をしてもらうことかな」と野口さんは微笑んだ。

 2人の出会いは楢崎が中学生の頃にさかのぼる。

 当時同じコーチに師事し、共有する時間も多かった。日本代表としてW杯を転戦することが増え、それぞれが抱える悩みや迷いを相談するうちに自然と距離が縮まり、楢崎のアプローチで交際が始まったという。

「私はランジ、コーディネーションなど運動神経を使う技が苦手だったんですが、逆に彼はそれを得意としていたのでよく教えてもらっていました。そのうちに距離が縮まっていって。でも、私と彼は年齢差が7歳あったので、最初は付き合うことがあまり想像できなかったんですよ。だから最初はけっこう悩みました。

 ただ恋愛禁止でもなかったですし、クライミングの選手同士で付き合ってはいけないというようなルールもなかったので自然とそういう感じになっていったんだと思います。クライミングの選手はそのあたりの恋愛と競技とバランスを両立できていると思いますね」 

 付き合い始めの頃は「まだ精神的に幼かった」という楢崎も、今は「彼のほうが大人」に感じるという。7歳差も気にならない。

「彼といなければいまどきのラッパーや音楽にも興味を持たなかっただろうなって思うんです。教えてもらったり、一緒に見たりするうちに興味を持つようになって、ちょっと若返った気分(笑)。そういう思考で生活できている毎日が、すごく楽しいですね」

クライミングの競技を通して、距離を縮めていった2人

「彼がいなかったら東京五輪を諦めていたかも」

 スポーツクライミング界を男女で牽引してきた2人だからこそ分かり合える、勝利の喜びや負けたときの悔しさ。多くの時間を共にし、お互いが努力する姿を間近で見てきたからこそ、現役中は相手の存在が刺激となり、気持ちを奮い立たされることもあった。

「2人とも成績が出ていればいいんですが、もちろん、調子の波があったりするので……。それに、毎回良い成績を残せるわけではありません。正直、そのあたりでお互い悩んだりイライラしたりすることはありました。

 実は私は怪我もあって一時は引退しようかなと考えたり、東京オリンピックを目指すかどうか迷っていた時期があったんです。楢崎はすごく調子が良くて東京オリンピックでも金メダルを一番期待されていたんですが、彼をはじめ、周りのコーチや近しい選手は五輪を目指すという雰囲気にすごく溢れていて、“一緒にでたいな”という気持ちが強くなっていったんです」

東京五輪で銅メダルを獲得した野口啓代 ©︎Enomoto Asami/JMPA 共に出場した夫・楢崎智亜の存在に感謝した

 もちろん、五輪を目指すと覚悟したのはそれだけが理由ではありませんが、彼がいなかったら、自分一人だけだったら、そこで東京オリンピックを目指すことを、もしかしたら諦めていたかもしれません」

 夫婦の会話は結婚後も引退後もやはりクライミングの話題が中心。そのなかで結婚生活を行っていくにあたって野口さんが大切にしているのは、相手に何かを伝えるタイミングだ。

「今言われたくないタイミングって、相手が聞く耳を持っていないのでただの喧嘩になってしまう。だから、今なら人の意見とかアドバイスを聞く余裕があるなというときに話をしたりしますね。お互いに違う成功体験や失敗を経て成績を出してきているからこそ、価値観も違えばクライミングのスタイルや性格も違います。

 だからこそ、自分の意見を押し付けないようにしていましたが、ついつい熱くなってしまうことはありましたけどね(笑)。私が引退してからの方がケンカすることは少なくなったかもしれません。彼がすごく穏やかというか、楽観的なタイプ。落ち込んだり、ネガティブなことをまったく言わないので。そこに助けられている部分は大きいのかも」

メダルに届かなかった楢崎の姿

 お互い競技者であるからこそ共感、共有できることがあるが、現役時代は男女のカテゴリの違いはあったにせよ、切磋琢磨する、ある意味、ライバル的な存在でもあった。引退後、そのスタンスにも変化が見えている。

東京五輪では金メダルを期待されながらも、惜しくも4位に終わった楢崎智亜 ©︎Asami Enomoto/JMPA

「現役の頃はいつも彼よりもいい成績を獲りたいなとか、楢崎が優勝したんだから自分もというような気持ちで、ある意味、ライバルのような感じだったかもしれません。でも、東京オリンピックで彼は金メダル有力候補と言われながらもメダルが獲得できなかった。東京に向けて努力し、仕上げてきた楢崎がメダルを獲れなかった姿が、自分の銅メダルや引退と同じぐらい強く印象に残っていて。

 これまでは2人とも競技者だったので、『自分のことは自分でやる』じゃないですけど、お互いに支え合って頑張るスタンスでしたが、今は彼の競技に関して最大限サポートしていきたいなと思いますね」

 イベント出演のため留守にすることも多く、「現役時代よりも一緒にいる時間が少ないかも」というが、時間を見つけては練習をサポートしたり、撮影の手伝いなども行う。冗談半分に「いいように雑用させられてますね」と笑うが、楢崎が本番の舞台で一番良い状態で臨めるよう、サポートを惜しまない。

「偏食で食べられないものが多く、筋肉がつきやすいので大会前は減量をしないといけない体質。炎症体質でもあり、年齢的にもバランスよく食べないと回復も追いつかなくなる」という楢崎の食生活も一から見直した。

「コロナ禍の期間に分子栄養学を学んだのですが、そこで習った『かぼちゃのパスタ』を彼が好きで、大会前に作ることが多いですね。あとはグルテンフリー、カゼインフリーの料理を作ったり、野菜が苦手なのでコールドプレスにして摂取するようにしています。酵素が2日間しか持たないので、割と頻繁に作らないといけないのが何気にストレスですけど(笑)。でも、食生活を見直してから体の回復具合やパフォーマンスもすごく上がって。あらためて彼にとっては食事が肝になっているんだなと夫婦で自覚しました」

 夫婦の視線の先にあるのは、2年後に行われるパリ五輪。楢崎が東京では届かなかったメダルに、表彰台の一番高いところへと夫婦二人三脚で向かっていく。

引退後も「目標とされる存在に」

 もちろん、野口さん自身も1人の人間として、また新たなチャレンジをスタートさせている。

©︎Asami Enomoto/JMPA

「スポーツクライミングは東京で初めてオリンピック種目に採用されて、この業界でオリンピックを経て引退した人が、日本にはまだ私しかいません。東京でメダルを獲得して引退した私がセカンドキャリアでこんなことが出来るんだっていうことを示せれば、今、クライミングでオリンピックに出場したいと頑張っている子どもたちにも夢を与えられるんじゃないかなって思うんです。だから引退後も、子どもたちから目標にされるような存在であり続けたいですね」

 引退後も彼女のクライミング愛は決して冷めることはない。

文=石井宏美

photograph by Akiyo Noguchi