ホーナー、バース、ブライアントからペタジーニ、ラミレスまで……懐かしの助っ人外国人を独断と偏見で50人選出。彼らの野球人生を描いた『プロ野球 助っ人ベストヒット50』(‎ベースボール・マガジン社)が重版され、売れ行き好調だ。そのなかから、“巨人史上最強の助っ人野手”と言われたウォーレン・クロマティ、東京での最後の2年間を紹介する(全2回の2回目/前編へ)。

 年俸150万ドルで急転直下の巨人残留を決断するも、尊敬する王は去り、藤田元司が巨人監督に復帰。昭和が終わり、平成という新時代も始まった。もはや恒例行事の「今年で野球から足を洗う。来年からはミュージシャンとビジネスマンとしてのオレを見てくれ」宣言でキャンプインする日本6年目のシーズン。

『週刊ベースボール』89年4月17日号のスペシャルインタビューでは、チームリーダーを期待する声に対し「オレはスーパーマンじゃないから、ミスをすることもあるさ。そういう人間的なものを理解してくれた上で、リーダーとして認めてくれるんなら、ありがたいけどね」とか、「たくさんの日本の野球ファンにも名前を覚えてもらえたし、思い残すことはない。来年からはドラムを叩きながら“ジャイアンツ、マケタノ? ソウ、ガンバッテネ”と応援する側にまわりたいね(笑)」なんつって今度こそラストイヤーだと念押し。さらには「オレは希望的観測でものを言いたくないから、今年のジャイアンツは、はっきりいってラクじゃないと思うよ」なんて自軍の戦力を疑問視までする。もうクロマティはヤル気がないんじゃ……と誰もが疑う中、平成最初のシーズンが開幕。すると、売れないドラマーは開幕から神がかった打撃を披露する。

「幻の4割打者」もし試合を休んでいたら…

 開幕から4割を超すハイアベレージで突っ走ったのだ。30試合消化時、20試合で2安打以上を記録。指を手術したことにより、プレーできない間は徹底的に下半身強化を行ったことが絶好調の要因と明かし、とにかく打ちまくった。5月18日時点でなんと4割7分台まで打率を上げ、にわかに夢の4割挑戦が騒がれ始める。そんな中、クロウは外国人記者クラブの懇親会に呼ばれ、「いろいろやりたいことがあるんで、とにかく野球は今シーズンが最後なんだ」と約130人の記者の前で宣言しなおした。広島戦では敬遠球を打ちにいき右中間へサヨナラ安打を放つなど勢いはとどまることを知らず、6月24日まで4割を超えていた打率はその後も3割8分〜9分をキープ。チームは7月の11連勝で早々にペナント独走でV決定的。注目は故障の原に代わり四番を打つクロウの前人未到の大記録へ移る。

 8月に入ると、再び調子を上げ、9日には4割復帰。8月20日のチーム97試合目まで打率4割台を維持したが、これは64年の広瀬叔功の89試合を抜き、日本球界最長記録となった。

 なお年間規定打席(403)には達していたため、計算上ではこの後の試合を休めばプロ野球初の4割打者が誕生していたことになる。

「気が付けば日本のことも好きになっていた」

 最終的に球団史上最高の打率・378で首位打者を獲得。自身初のMVPにも輝き、巨人も8年ぶりの日本一に。藤田監督は優勝会見の席上で、「一番頑張ってくれた人」と名指しで背番号49に感謝の言葉を贈ったほどだ。まさに野球人生の集大成とも言える完璧なシーズン。引退する中畑清がチームメートに「クロウに来年帰って来て欲しいやつは、手を挙げろ」と聞けば、全員が挙手したという。さあこれからどうする? クロマティの著書『さらばサムライ野球』(講談社文庫)の中で、こんな描写がある。

 離婚したばかりのオフ、マイアミの新居でテレビを見ていたら、見慣れた東京の街並が映し出され、ホームシックに近い妙な気分に襲われたという。もう来年は絶対に日本になんか行くものかと思っていたはずなのに、すぐにでも飛行機に乗って東京に戻りたくなったのだ。なんてこった、あの街が肌にしみついちまった。音楽はもちろん好きだ。けど、気が付けば日本のことも好きになっていた。そして、クロウはまた戻ってくる。

 90年シーズン、年俸2億8000万円にまで到達するが、37歳のクロマティは打率.293、14本塁打、55打点という来日以来最低の成績に終わり、長い旅は終わりを告げた。なおラストゲームの4連敗を喫した西武との日本シリーズ第4戦は、珍しく「一番・中堅」で先発出場している。

 NPB通算打率.321、951安打、171本塁打、558打点。3年稼いで野球をやめるはずが、結局7年間を東京で過ごした男は、間違いなくG党から最も愛された“巨人軍史上最強助っ人”だった。

<前編から続く>

文=中溝康隆

photograph by BUNGEISHUNJU