雑誌「Sports Graphic Number」と「NumberWeb」に掲載された記事のなかから、トップアスリートや指導者たちの「名言」を紹介します。今回は大横綱・千代の富士と対戦した力士の4つの言葉です。
<名言1>
僕があたるようになった時はもう強くて、ずっと強かった。
(小錦八十吉/Number271号 1991年7月5日発売)
◇解説◇
千代の富士は両肩を脱臼しながらも屈強な肉体を手に入れ、幕内通算31回の優勝を飾り、生涯戦績では125場所1045勝437敗(159休)という圧倒的な数字を残した。昭和後期から平成初頭にかけてトップランナーとして走り続けた大横綱は、対戦相手の目からどのように映っていたのだろうか。

当時の角界で千代の富士とともに人気者だった力士と言えば小錦だ。サモア生まれの両親を持ち、ハワイで育った少年は、高見山の勧誘もあって1982年に入門。新弟子検査では体重計のメモリを振り切ってしまうという“伝説”も残したほどだ。
200kg超えの巨体を生かした取り口で初場所から12場所で新入幕を果たすと、続く84年9月場所では隆の里、千代の富士から立て続けに金星を奪うなど「ハワイの黒船」として猛威を振るった。
「最初は思いきってやるだけだった。それはずっと同じだった……とにかく前へつき放していけば、自分の相撲をとれればいいと思ってた。それもずっと同じ……」
千代の富士との戦い方について、小錦はこう振り返っている。
183cm、127kgの千代の富士とは100kgを優に超える体重差である。それでも小錦は土俵上で横綱の凄みを感じていた。千代の富士は当初こそ小錦を苦手にしていたものの、気付けば8連勝。その強さと“目つきのこわさ”をまざまざと見せつけられていた小錦が鮮明に覚えているのは、1989年の九州場所の13日目での対戦だった。

「そりゃ緊張したよ。これに負けたら……」
「そりゃ緊張したよ……。これに負けたら優勝なくなるから……」
しかし小錦は、もろ手突きからの左のど輪でのけぞらせ、当時の体重230kgを乗せた突っ張りを浴びせ突き出した。
最終的な対戦成績は、千代の富士から見て20勝9敗。それでも小錦にとってこの大一番は、悲願の初優勝に直結する大きな白星となった。
体が浮いてたんだよね、どうなってんだ
<名言2>
サッと前ミツ引かれて体が浮いてたんだよね。どうなってんだ、と思った。
(琴風豪規/Number271号 1991年7月5日発売)
◇解説◇
2022年の3月場所限りで停年となった琴風は、幕内最高優勝2回に計6回の三賞受賞、大関時代には212勝110敗(8休)と安定感のある戦いぶりで70〜80年代の角界を盛り上げた。同時期に登り竜のように駆け上がっていったのが千代の富士だった。
琴風が強烈に印象に残っていると語った一番が、1980年の九州場所5日目だった。ここまで千代の富士は琴風戦で5戦全敗。しかし肉体改造に励み、相撲のスタイルを変貌させた千代の富士について「この一番は、それまでとは全く違う衝撃だった」と語る。
千代の富士が鋭い踏み込みから左前まわしを取ると、琴風は出足を止められ、何もできないまま寄り切られた。
「全然前と相撲が変わってきた」
「これまで負けたことなかったのに……」

素早く前ミツを取って一気に前に出る相撲に、“腰が重い”と評された琴風がまったくかなわなかったのだから、ショックを受けて当然だろう。
千代の富士との通算対戦成績は6勝22敗。数字は千代の富士の凄みを物語る。
連勝記録を止めた大乃国の言葉
<名言3>
ザブトンが飛んだのも知っているけど……そんなこと気にしていられないし、関係ないね。
(大乃国康/Number271号 1991年7月5日発売)
◇解説◇
もし「千代の富士の全盛期は?」と問われた際、その時代を知るファンならそれぞれ思い浮かぶ場面があるに違いない。

ただ数字という面で見れば1988年5月場所から88年11月場所にかけて記録した「53連勝」だろう。これを上回るのは双葉山(69連勝)、白鵬(63連勝)だけという大記録である。
その連勝記録を止めたのは昭和最後の取組となった、九州場所千秋楽の大乃国戦だった。87年に横綱昇進した大乃国だったが、先場所では8勝にとどまり、今場所でもすでに4敗を喫するなど、厳しい声が飛んでいた。さらには横綱昇進後に千代の富士に勝った経験がないということで、千代の富士優勢の声は大きかった。
「自分自身、成績あがってなかったんで、今日は何が何でも勝ちたいという気持ちはあったけどね」
全くうれしくないといえばウソになるけど
この一番で大乃国は立ち合い鋭く踏み込むと得意の左上手を取って、千代の富士に上手を与えない最高の形に。最後は土俵際で身体を預けての寄り倒しで勝ち切った。すると館内は悲鳴のような歓声があがり、ザブトンも乱れ飛んだという。この勝利について、大乃国は後にこう振り返っている。
「相手にとっては意味のある相撲で、だから全くうれしくないといえばウソになるけど……でも、連勝止めるより、あくまで横綱という地位としての成績だよね。この時だって場所が終わった時、納得いくものではなかった。もし、ボクが三役以下だったら、横綱じゃなければ別だけどね……」
横綱としての意地。ただそれだけだった。

首折れてもいいと思うくらいに
<名言4>
勝ってもうけもん、首折れて死んでもいいと思うくらいにぶちかましてた。
(北天佑勝彦/Number271号 1991年7月5日発売)
◇解説◇
北天佑は45歳の若さで急逝してファンから惜しまれたが、甘いマスクとバランスの非常に良い肉体で人気を博した。
そんな北天佑が千代の富士相手に初勝利したのは、81年春場所6日目だった。当時、25歳の千代の富士は大関、20歳の北天佑は前頭五枚目と大きな期待を受けていた。初場所では千代の富士が左上手投げで逆転勝ちを飾っており、北天佑は雪辱なるかという構図だった。冒頭の言葉からは、強烈な存在感を放っていた千代の富士に対して、死に物狂いで挑まなければ勝てないという覚悟が見える。
「無我夢中で内容は憶えていない。投げようと思って投げたわけじゃないし……」
がっぷり四つに組んだところから千代の富士が外掛けに来たところ、北天佑が右下手投げで返し、千代の富士が返してきた上手投げに耐えて勝利……という豪快な一番に、会場は大きく沸いたという。
その後、北天佑は22歳にして大関昇進を果たし、ウイルス性肝炎からの糖尿病併発に苦しんだものの、44場所にわたってその座に在位し続けた(通算でも史上5位)。それでも千代の富士とのメンタルの差について、こうも語っていた。

「横綱に比べれば、オレなんか何となくやってたという感じじゃないかな、第三者から見れば……。輝いてる人とにぶい光の人との差じゃないかな……」
文=NumberWeb編集部
photograph by BUNGEISHUNJU