梅雨時に「宝塚」と聞けば、競馬ファンが思い浮かべることはただひとつだ。1年に一度だけのファンファーレが頭に流れ、あなたの夢はなんですか、私の夢はね、と話に花が咲く。春のGⅠシリーズを締めくくる宝塚記念である。

 ……と口角泡を飛ばしたところで、一般的に「宝塚」といえば競馬ではなく、むしろ宝塚歌劇団だろう。阪急電鉄のお膝元、歌劇団の聖地、宝塚。地名そのものはずっと古くからのものだが、“宝塚”の字面と響きが歌劇団と阪急の空気感にマッチして、武庫川沿いの谷間に広がるどことなく特別な町のイメージを強くしている。

 そして阪急電車の宝塚駅から伸びている宝塚線・今津線のどちらに乗っても、沿線はザ・阪急の静謐な住宅地。「あのエイシンデピュティが勝った宝塚記念さ、生観戦したんだけどさ、絶対メイショウサムソンが勝つと思ったんだよねえ」という競馬ファンの会話とは、相容れないような世界が広がっている(気がする)。

競馬の宝塚記念  第49回宝塚記念で優勝したエイシンデピュティ(左)と2着のメイショウサムソン(右)=阪神競馬場

 しかし、宝塚記念というレース名は紛れもなく宝塚市に阪神競馬場があるということから名付けられたものだ。宝塚記念の舞台、阪神競馬場は確かに兵庫県宝塚市にある。最寄り駅は阪急今津線の仁川駅(“にがわ”と読む)。

 今津線といえば甲東園のような阪神間を代表する高級住宅地もあり、有川浩の小説『阪急電車』の舞台にもなった穏やかな路線だ。甲東園駅は関西学院大学の最寄り駅で、いつだったか甲東園の町を歩いたときに、おしゃれカフェで育ちの良さそうな関学生男子がコーヒーのうんちくを隣の女子に語っているのを見かけた。今津線とはそういう路線のはずだ。

 そんな今津線の沿線、宝塚市内にいささか不釣り合いとも思える競馬場がなぜあるのだろうか。そもそも仁川という最寄り駅の周りは、競馬場以外に何があるのだろうか……かくのごとく、改めて考えてみると阪神競馬場と宝塚、なかなかナゾが多い。

“ナゾの競馬駅”「仁川駅」には何がある?

 そんなわけで、ナゾを解き明かすべくまずは仁川駅にやってきた。

 阪神競馬場にはもう数え切れないほど足を運んできたし、そのときは決まって仁川駅を利用している。が、仁川駅の改札口を抜けたらそのまま駅前の地下道に入って人波に乗っかってそのまま競馬場に入るのがお決まりだ。なので、まともに仁川駅の周りを歩いたことはほとんど記憶にない。

 さてはて、競馬が開催されていない平日の仁川駅はどんな駅なのか。宝塚駅から阪急今津線に乗って10分弱。あっという間に仁川駅に到着した。

 仁川駅は相対式ホームで、西宮北口ゆきの列車が東側、宝塚ゆきの列車が西側のホームを使う。競馬場(への地下通路)は東口にあるので、西宮北口ゆきの列車から降りて改札口を通り抜ければすぐに地下通路だ。

 駅前の広場に出ることもなく、改札から5歩くらいで通路に突入するあんばい。そのまま地下道を歩いて行けば競馬場に直結なのだから、多くの競馬ファンは仁川の町を歩いたことがないのではないか。

 このように、駅と競馬場がちょっと離れている場合には専用の通路が設けられていることが多い。中山競馬場も武蔵野線船橋法典駅から“メモリアルウォーク”なる地下道があるし、京都競馬場は京阪淀駅から高架の専用通路を歩いて向かう。阪神競馬場の場合もそれと同じなので、いつもたいして疑問に思わずに通路を歩くのだ。

ちょっと歩くと西宮市だった

 しかし、平日の仁川駅。競馬場への通路は固く封鎖されている。そこで駅前広場に出て、少し駅の周りを歩いてみる。

 競馬場への通路のある東口は、よく整備された駅前広場とそれを囲むようにさらら仁川という商業ビル。マンションの類いもあって、飲食店もいくつか見える。いかにも庶民的なタイプの居酒屋もあるので、競馬ファンが競馬帰りに足を運ぶには悪くない。

 駅前広場を抜けると「駒の道」と名付けられた交通量の多い県道が通っていて、それを北に進めば右手に競馬場。きっと、競馬場に通じる道だから「駒の道」になったのだろう。

 競馬場とは反対に南に進むとすぐに橋が待ち受ける。この橋が架かっているのは仁川駅のすぐ脇を流れる文字通り仁川という武庫川の支流で、宝塚市と西宮市の市境でもある。つまり、仁川駅と阪神競馬場はほとんど宝塚市の南の端っこにあるというわけだ。

 そこからひとけのない競馬場に向かって歩いてもいいのだが、むしろ競馬場以外に何があるのかを見なければならぬ。そこで「駒の道」から路地を入ってみたり、駅の西側に行ってみたり、うろうろと歩き回った。

 そこで結果をお伝えすると、まったくこれが住宅地なんです。ちょっと古い一戸建てが並んでいる一角もあれば、比較的新しくて高級感のある一角もあって、駅前にはコンビニやいくらかの商店があるほかは、徹底的なまでに住宅地なのだ。

 今津線の線路沿い、駅のすぐ北側には弁天池という池もある。そのほとりからは六甲山地も望める景勝地。ベビーカーを押した若いお母さんが歩いていたり、地元のおじいさんが散歩していたり。競馬とはまったく無関係の地元の人の憩いの場になっているのだろう。

 このように、仁川駅の周りは競馬場という要素を除けば100%といっていいほど住宅地である。住宅地の中に競馬場があるというのが実態だ。だから、平日の仁川駅を歩く限りではこの静謐な住宅地の駅が宝塚記念の舞台の最寄り駅だとは、およそ想像もできないのである。結局、仁川の町をいくら歩いても、宝塚市と阪神競馬場の関わりのナゾはわからずじまいであった。

そもそも、なぜ仁川駅に阪神競馬場ができたのか?

 ……と、これで終わってはさすがにあんまりなので、ちょっと調べてみた。

 現在の阪神競馬場が完成したのは、終戦間もない1949年のこと。今津線も仁川駅もとうに開業していたが、その頃の地図や航空写真を見ると仁川に沿って住宅地ができているくらいで、あとは田畑が広がる田園地帯。その真ん中に、阪神競馬場が現れたというわけだ。

 そしてそれから11年後の1960年に第1回の宝塚記念が行われる。ファン投票で出走馬を決める方式は暮れの風物詩・有馬記念とまったく同じ。すなわち、有馬記念に対する春のグランプリを関西で、ということで誕生したのが宝塚記念であった。

 ただ、阪神競馬場自体の歴史は1949年の完成によってはじまるわけではない。それよりはるか昔、まだ明治だった1907年にまで遡らねばならない。

 阪神競馬場のルーツは、1907年に西宮市の海沿い、鳴尾浜と呼ばれる一帯にできた競馬場であった。この競馬場は鳴尾競馬場と呼ばれ、1910年には帝室御賞典、すなわち現在の天皇賞に続くビッグレースがはじまっている。さらに1938年には阪神優駿牝馬、現在の優駿牝馬(オークス)も行われるようになった。この時点で、鳴尾浜の競馬場はすでに東京・中山・京都などと並んで日本を代表する競馬場だったのだ。さらに競馬場の内馬場には野球場が設けられ、1917年には現在の夏の甲子園、全国中等学校優勝野球大会も行われた。

 そんな鳴尾競馬場だったが、戦争が激化する中で1943年に海軍に接収されてしまう。海軍の軍用機を開発・製造していた川西航空機の工場用地に充てられたのだ。もちろんただ接収されただけでなく、海軍の斡旋で代替地が確保された。その場所は、今津線小林駅の西側、六甲山の裾野一帯。当時から今まで宝塚ゴルフ倶楽部などがある丘陵地が、新たな阪神競馬場(逆瀬川競馬場)になる計画であった。

 とはいえ、1943年はもう戦争も抜き差しならぬ状態のご時世。工事こそ進められたが、完成を見ないままに戦争が終わり、さらに宝塚ゴルフ倶楽部を含む競馬場用地は連合軍に接収されてしまう。

「アメリカ軍がゴルフを楽しんでいたから」

 宝塚ゴルフ倶楽部は18ホールのうちハーフの9ホールを残して用地を競馬場用地として当時の日本競馬会に売却した。しかし、ゴルフ場が18ホールまるごと連合軍に接収されて、競馬場建設の続行が難しくなったのだ。接収の目的は、主に第二十五歩兵師団(アメリカ陸軍)がレクリエーションとしてゴルフを楽しむことにあったという。

 もちろん返還を求めて競馬会もGHQ側と交渉をしたが、当時の第二十五歩兵師団のブラウン代将が「本ゴルフコースは当司令部の管轄下にある当地域占領軍の保健及び休養の施設として、重要なものであることに御留意ありたい。したがって、現在においては競馬の目的に改造するためこれを解放することは許可できない」と明確に拒絶。阪神競馬場移転問題は、戦中戦後の荒波の中で完全に頓挫したのである。

 ただ、関東では中山・東京の2競馬場で交互にレースが行われているのに関西では京都競馬場一本槍ではレースレベルを維持したり出走機会を確保するのも難しい。阪神競馬場の開設は急務であった。そこでさらなる代替地として目をつけたのが、仁川駅の東側、現在の阪神競馬場の一帯である。

 武庫川沿いの田園地帯に過ぎなかったその一帯には、戦時中に川西航空機の宝塚工場が設けられていた。軍用機メーカーの工場だったため事業は廃止され、用地は国の管理下。その払い下げを受けて、新たに競馬場を建設しようと計画し、それが実現したのがいまの阪神競馬場というわけだ。

 ちなみに、その頃の競馬界にはウマ娘もネット投票もなく、戦後間もない時期で売り上げも振るわない。用地を取得して大規模な競馬場を自前で建設する能力は持ち合わせていなかった。そのため、阪急などにも協力を仰ぎ、京阪神競馬という民間の管理会社が競馬場を建設して完成後はそれを借り受ける方式を採っている。阪急と競馬、実はとても縁が深いのである。

もうひとつの“宝塚市のシンボル”となった

 つまり、もともと鳴尾浜にあった競馬場が、軍需工場に追いやられて移転先を求めて右往左往、結局仁川にあった軍需工場の跡地に阪神競馬場を建設したというのが経緯である。高級住宅地ではなく田園地帯の中にあった軍需工場の跡地の再利用なのだから、反対する人もいまい。競馬場が住宅に囲まれるようになったのは1970年代以降のことで、今津線らしい住宅地は仁川沿いや今津線の西側を中心に広がっていったから、阪神競馬場が今津線のみなさまに迷惑をかけるようなことはほとんどなかったのだろう。

 完成直後の阪神競馬場はなかなか劣悪な環境だったというが、1950年に桜花賞が移設。鳴尾記念や神戸盃(神戸新聞杯)、阪神大賞典といった名物レースも1950年代に生まれ、そのうちに日本中央競馬会が発足。1960年に宝塚記念がスタートしていまに続いている。

 その阪神競馬場の歴史とともに、今津線沿線は戦前から開発された六甲山地東麓の西側だけでなく、東側も宅地化が進展していまの今津線沿線の風景が形作られていった。宝塚市のターミナル・宝塚駅は戦前から変わらずに歌劇団の町として隆盛を誇る。それとは少し離れた田園地帯の工場跡地に現れた競馬場は、いまやもうひとつの宝塚市のシンボルとなり、宝塚記念というビッグレースの歴史を紡いでいるのである。

(写真=鼠入昌史)

文=鼠入昌史

photograph by Sankei Shimbun