あの夏、公立の農業高校がファンを釘付けにした。大エースの存在、3年生9人だけで戦い抜く異質さ、そしてドラマチックな勝ち上がり方に聖地が沸いた。彼らの一番の魅力は、野球を誰よりも楽しむ姿勢だった。Sports Graphic Number1002号(2020年5月7日発売)の記事『金足農業「“遊び”が生んだ一等星の輝き」』を特別に無料公開します。(全2回の後編/前編へ)

 吉田が低めのストレートで瀬川を空振り三振に仕留める。歓声と拍手が耳をつんざき、球場が興奮状態に包まれた。

 近江の監督、多賀章仁は、その異様なまでの熱狂に恐怖感を覚えていた。

「あんな雰囲気の甲子園は初めてでしたね。異様でしたもん。攻撃してても、ここで追加点取ったら、お客さん、怒っちゃうんじゃないかなとか。そこまで考えましたよ」

近江・多賀章仁監督 ©Hideki Sugiyama

 じつは、近江は8回表も0アウト一、二塁のチャンスをつかんだのだが、無得点に終わっている。展開的には8回も9回もまずは送りバントで走者を進めるのがセオリーだが「バントしても失敗しそうだった」(多賀)と強攻し、いずれも裏目に出た。その采配は、まるで点を取ることを拒否しているようにも映った。

「9人だけで戦ってきたなんて、考えられます?」

 多賀は、金足農業との対戦が決まったときから妙な不安にとりつかれていた。

「不気味でしたよ。だって、県大会からずっと3年生9人だけで戦ってきたなんて、現代野球で考えられます? どんなチームなんだろうと思いましたね……」

 金足農業という、ある意味、異形のチームは、百戦錬磨の多賀の中でさえも、どこのどんなチームにも当てはまらなかった。

 ピンチを切り抜けた金足農業は9回裏、0アウト満塁の大チャンスをつくる。球場のボルテージが最高潮に達する中、「9番・ショート」の斎藤璃玖は笑いを堪えるようにして打席に入った。

負けているのに…“楽しそう”だった金足農

「応援がすご過ぎて。うわ、すげぇ〜って」

 繰り返しになるが、このとき、金足農業は1−2で負けていた。一塁を守っていた北村も驚きを隠さない。

「えっ、まだ負けてるんやで、と。なんでそんなに余裕なんかな、って」

 ベンチの中の吉田は、応援歌を口ずさみつつ、両隣の選手と肩を組み、戦況を見守っていた。多賀はその光景を、試合後、写真で見たそうだ。

「吉田君がベンチから身を乗り出して、ええ顔して、肩を組んでる写真があったでしょ。あんな試合で、あんな顔できるって、すごいですよね。見たことない光景ですよ」

 まったく同感だった。高校野球だけでなく、多くのスポーツシーンを通じても、ビッグゲームの、もっとも大事な場面で、ベンチで選手たちが肩を組み、あんなに楽しそうな表情をしている光景を私も見たことがなかった。

 金足農業は決勝の大阪桐蔭戦の最終回、2−13と、絶望的なリードを奪われている中でも、やはり同じように互いに肩を組み、勝負の世界にいる人間とは思えない柔らかな表情を浮かべていたものだ。

あの「サヨナラ2ランスクイズ」の舞台裏

「応援がすご過ぎて」笑っちゃった斎藤は、0アウト満塁の場面で、三塁側に冷静にスクイズバントを決めた。三塁走者が生還し、まずは同点。すると、続いて二塁走者までもが一気にホームを陥れ、金足農業は近江に3−2でサヨナラ勝ちを収める。

齋藤のスクイズバント ©BUNGEISHUNJU

 サヨナラ2ランスクイズ。前日の逆転3ランに勝るとも劣らない劇的なフィナーレだった。

 甲子園の印象のみだと、金足農業は日頃から、さぞかし自由な気風の野球部なのではないかと思われるかもしれない。だが、実際は、まったく逆だ。ミスをしても「ドンマイ」の掛け声は厳禁。容赦なく責め立てられる。「地獄」と称される冬合宿では、長靴を履いて雪の坂道を何十本もダッシュするなど、尋常ではない質と量のランメニューでしごかれる。先輩後輩の上下関係も今時の野球部にしては厳しい。練習中、気が緩んでいると「声出し」という、正座したままひたすら声を張り上げ続けなければならないペナルティを科せられる。指導陣も甘い言葉など一切かけない。現代においては「古い」と言われるだろうし、非合理ですらある。

 にもかかわらず、なぜ、あんな表情でプレーできたのか。吉田は言う。

「勝ったからですよ。あとは、あの球場の雰囲気ですね。結果が出てなかったら、罵り合ってたと思いますよ」

©BUNGEISHUNJU

 心の底から楽しむためには、やはり勝たなければならない。そして、勝つためには、普段、逆に自分を追い込まなくてはならない。「エンジョイベースボール」「楽しむ野球」等々、近年はさまざまな表現方法が出てきたが、そこの真理は不変だ。金足農業の方法論は、じつにシンプルだった。

吉田輝星は二度と現れない――

 あの夏、吉田は全6試合に登板し、計881球も投じた。おそらくもう二度と、このような一等星は出現しないだろう。

 理由は2つある。1つは才能の問題だ。そして、もう1つは制度上の問題である。センバツから適用されるはずだった「500球/週」の他にも、近い将来、おそらく何らかの形で投球量に制限をかけるルールが制定される。少なくとも、吉田ほど投げることはできなくなるに違いない。となれば、あそこまで異様なムードになることもそうないだろう。

 吉田輝星は二度と現れない――。そう本人に水を向けると、こう顔を赤らめた。

「そうっすよね、こんな大スターはね」

 照れて笑う吉田はマウンド上とは打って変わって、じつにめんこかった。秋田弁で「かわいい」の意味である。

©BUNGEISHUNJU

文=中村計

photograph by BUNGEISHUNJU