日本最難関大学である東京大学に入学し、さらに体育会の花形である野球部で活躍した学生は、文武両道の“スーパーエリート”と呼んでいいだろう。就活に滅法強そうな彼らも就職氷河期は苦しんだのだろうか? データでは当時30%以上の野球部員が留年している。就職氷河期世代のOB3人に証言してもらった(全2回の1回目/#2へ)。

じつは東大野球部の27%が留年している

 筆者は、今年6月に東大野球部OBの進路(1992年〜2022年)について年代別に概観する記事を書いた。おかげさまですくなくない反響があったが、特に、卒部後の進路として、大学に残った(留年)者が多数いる事実に、読者の目は向いたようだ。なにしろ、調査対象とした31年間(92〜22年)の卒部生475人のうち、27%にあたる130人が、大学を4年で卒業せずに留年している。国立の最高学府でのこの状況は、気になるところだ。

 彼らは、なぜ就職しないのか。なぜ留年するのか。

 誰しも頭に浮かぶのは、就職留年だろう。前記事「『“東大野球部に入ると留年する”って本当ですか?』文武両道の神童たちはどんな進路を歩む? 東大野球部の就職先ランキング《92年〜01年編》」でも、1998年に卒部し、1999年に三菱商事に入社した学生のケースを紹介している。

 就職氷河期は、大卒者に対する求人倍率が2倍を切った1993年から始まるとされるが、とりわけ厳冬だった2000年には、0.99倍まで落ち込んでいる。ちなみに、その前年の1999年は1.25倍で、2001年は1.09倍、2002年は1.33倍だ(※各年の数字は、リクルートワークス研究所『大卒求人倍率調査』より)。

 この頃の就活戦線においては、たとえ早稲田慶應クラスでも、志望企業・志望業界から内定を得られない者がゴロゴロいた。不本意な就職をするくらいなら翌年に改めて新卒としての就活を仕切り直そうと、彼らの多くは卒業せずに就職留年を選んでいたものだ。では、こうした就職“超”氷河期世代の東大野球部OBは、どのような就活をしていたのだろうか。

「4年間ではとうてい単位が足りませんでした」

 1999年は、38.8%(18人中7人)。2000年は、37.5%(16人中6人)。2001年は33.3%(15人中5人)。2002年は、54.5%(11人中6人)。

 これは、就職“超”氷河期における、東大野球部卒部者の進路に占める、留年者の割合である。前出の31年間の平均である27%よりも顕著に数字が大きい。知力体力ともに揃った東大野球部の神童たちも、氷河期の影響を受けているのかもしれない。まずは、その最も深い谷間である2000年に卒部して留年を選んだ、古谷嘉三(奈良学園)に話を聞いてみよう。

「大学から怒られても仕方ないほど勉強をサボっていたので、4年間ではとうてい卒業できないくらい単位が足りませんでした。だから4年生のときは就活してもあまり意味がなく、とりあえず翌年の経験のために、とあるシンクタンクのグループ面接を受けました。そもそも練習に近い形で受けていたので、聞かれたことに遠慮なく答えていたら、すごく怒られました。『なんだキミ、1人だけ緊張感が違うぞ!』みたいな勢いで」(古谷嘉三)

 就職留年以前の問題。いやおうなしの普通の留年である。

「ただ、もしも単位が足りていたとしても、それとは別に留年したかった。野球一色の4年間を過ごしたので、1年休憩して人間らしい日常生活をしたいし、噂に聞く東大の授業を体験してみたいという気持ちがあったんです」

 東大野球部の4年間は、全体練習と個人での自主練を合わせれば一日の半分を野球に捧げ、空いた時間には野球部員同士でマージャンに興じる日々。「ほとんど野球部の人間としか会っていなかった」と古谷は苦笑する。普通の東大生に戻りたい気持ちが芽生えるのは、自然な流れだったのかもしれない。

©BUNGEISHUNJU

「バブル崩壊で高校野球部の監督がいなくなった」

 次に紹介するのは、1999年に卒部してやはり留年を選んだ済木俊行(県千葉)。三塁手や外野手として出場し、打線でも主軸を担った中心選手だ。

「僕の高校時代は、ちょうどバブル崩壊後。その余波で野球部の監督も本業の不動産ビジネスの都合で退任せざるを得ず、監督不在の状況になってしまいました。そこでOBたちが練習を手伝いにきてくれたんですが、その中に現役の早稲田慶應や東大の野球部員がいたんです。東京六大学野球をぐっと身近に感じたし、東大で野球をやれば、プロに行くような選手たちの球を打てるという怖いもの見たさの気持ちもあって、一浪して入学しました」(済木俊行)

 済木が野球を始めたのは中学生のとき。しかも中2の後半からようやくマジメに取り組みだしたというから、野球エリートとは正反対だ。当時を知る者にとって、済木が大学まで野球を続け、チームの中心メンバーに座ろうとは想像できないだろう。

「スタートが遅かったぶん、自分の可能性を信じてしまったんですね。高校時代に強い学校と対戦したときも、わりといいバッティングができたし、自分はもっとやれるはずだという気持ちがいつもあった。だから大学でもっと試してみたくなったんですよ」

「野球に集中しなくちゃダメだ」「就職留年しよう」

 大学では、2年生の春、明治大との開幕初戦からベンチ入り。後に中日ドラゴンズで活躍する川上憲伸の148キロの速球をファウルし、スピードへの対応に関して自信をつけ、秋のリーグ戦では規定打席には達しなかったものの打率は3割台をマーク。チャンスメーカーとしての貢献もでき、3年での飛躍に向けて本人も手応えを掴んでいたという。

「ところが、2年の冬の練習中に足首を強くひねる怪我をしてしまい、リハビリ入り。3年時はまったく結果が残せなかった。その年の秋リーグ戦で東大は立教大から勝ち点をあげて5位になりましたが、僕はチームにまったく貢献できない自分にふがいなく、素直には喜べませんでした」

 一流選手のボールを打ち返すために東大に入学したのに、このままでは諦めがつかない。そこで済木は、野球狂の凄みあふれる決意を固める。

「そもそも野球が目的で大学を選び、その後の将来についてはまだ考えていなかったので、4年生で野球を満足に終えてから次に行きたいと思ったんですよ。だからもっと野球に集中しなくちゃダメだと思い、4年生での就活はすっぱり忘れ、就職留年しようと決めました。当時の就活は3年の後半から4年の春のリーグ戦にかぶるので、練習に支障が出ますからね。自分本来のパフォーマンスをしっかり出せれば、試合に出て打てるという感覚がありました。このまま沈んで終わるのは、絶対にイヤだったんです」

 こうして学生生活のすべてを野球に捧げた4年の春、済木は4番に座って7打点の活躍を見せた。秋は振るわなかったが、それでも法政大との最終戦最終打席で、済木は会心の一打を放った。この日は16点を奪われる大敗の中で、振り抜いた打球は右翼フェンス直撃の2塁打となり、一矢を報いた。しかも相手投手は、後にドラフト2位で横浜ベイスターズ入りした矢野英司とあって、済木は野球をやりきった感覚に包まれたという。

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開成高出身“異例の野球部員”

 最後は、同じく1999年に卒部し、留年した溝内健介(開成)。マネジメント部門のトップである主務を務めながらも、投手としての練習も続けていた異例の野球部員である。

「主務というのは、マネージャーを統括する責任者です。当時の東大野球部では、各学年から少なくとも1名、マネージャーを選ぶことになっていました。私の場合は、2年生の春のリーグ戦・新人戦が終わった後に同期で何度も話し合い、最終的に私に決まりました。大学野球のマネージャーは高校のそれとは違い、部内の財政や運営などを司るポジション。4年生のときはキャプテンとともに、車の両輪として部を支える立場でしたね」(溝内健介)

 マネージャーや学生コーチに選出された学生は、基本的に選手の道を絶たれるのがチーム内の暗黙の了解であり、それならばとチームを去る者もいる。だが溝内は「マネージャーの仕事は100%やるので、余った時間で練習させてほしい」と先輩や首脳陣にお願いし、選手兼マネージャーとして活動した。リーグ戦での登板は叶わなかったが、神宮球場での新人戦には登板したという。開成高校は毎年おびただしい数の合格者を東大に送り込んでいるが、東大野球部に入る者は割合としてはけっして多くない。開成高校の同級生たちから見れば、溝内の野球愛は、常軌を逸しているのかもしれない。

『勉強ばっかりして、野球部にいる意味あんのか』

 しかし、マネージャーの激務をこなしつつ、プレイヤーとして練習を続けるのであれば、さすがの東大生でも勉強をする暇がないだろう。

「それはもう、学業に費やした時間は、ほぼゼロです。いま思えば大変もったいないことをしたと思いますが、大学3、4年生の2年間は、授業に出た記憶がほとんどありません。当時の野球部内では、授業で練習に出られない頻度が多くなると『お前、そんなに勉強ばっかりして練習をおろそかにするなら、野球部にいる意味あんのか』なんていう話も出ていたような気がします。いまの現役部員たちは、みんなしっかりと授業に行っているようですけども、当時は、自分たちは東大生である前に野球部員である、という雰囲気がありましたね」

 もっとも、これだけ野球部に身を捧げていても単位は取れていたというから、さすが神童である。

「授業にほとんど出ていませんから、まともな答案は書けなかったと思います。難解な問題文と格闘して、なんとか単位をいただいていたという感じです。授業に出ない分、試験だけはたくさん受けて、卒業に必要な単位数を積み上げていきました」

 かくしてどうにか卒業に向けて、階段を上がっていった溝内だが、4年生になった頃、卒部後は留年しようと決意する。時は就職氷河期の真っ只中。なぜ彼は、就職留年を選んだのだろうか。前出の古谷、済木の留年後の進路とともに、後編記事でお伝えする。

<後編に続く>

文=沼澤典史

photograph by KYODO