日本最難関大学である東京大学に入学し、さらに体育会の花形である野球部で活躍した学生は、文武両道の“スーパーエリート”と呼んでいいだろう。就活に滅法強そうな彼らも就職氷河期は苦しんだのか? 「あえて留年を選んだ」就職氷河期世代のOB3人が証言する“卒業後”の進路とは?(全2回の2回目/#1へ)。

「弁護士をやりながら野球審判をする」大先輩

 前編記事《「勉強ばっかりして、野球部にいる意味あんのか?」東大野球部も就職氷河期世代は“30%超”が留年…エリートも当時は就職難に悩んだ?》では、就職“超”氷河期世代の東大野球部OB3人の声をお届けした。彼らはいずれも、卒部しても大学を卒業せずに留年しているが、その背景には、三者三様の野球愛があるようだ。

 異例の主務兼投手としてチームのマネジメントを支えた溝内健介(1999年卒部・開成)は、必修科目をあえて放棄して留年を決めている。その理由は、マネージャー活動中の出会いにあったという。

「清水幹裕さんという東大野球部の大先輩がいまして、東京六大学野球、都市対抗などの社会人野球、甲子園の高校野球で審判を務めていらっしゃいました。マネージャーをやっていると、OBの方々とのお付き合いもありますし、神宮球場でリーグ戦があるときには、いつもお会いするし、夏休みや春休みになると甲子園の野球中継でテレビに映っているわけです。本業は弁護士という方で、ああ、こういう野球との関わり続け方もあるんだなと知ったんです」(溝内健介)

 溝内の父は、春夏の甲子園に計11回出場している昭和の強豪・法政二高野球部の監督を務めていた。その背中を見て育った溝内は、社会に出てからも、なんらかの形で野球に関わり続けたいという思いを強く持っていたという。

「野球に関わるといっても、発想はそんなに豊かではなくて、プロ野球の球団で裏方として働いたり、社会人野球の会社へ就職したりと、そのくらいしか頭に浮かびませんでした。ですが、そういう進路はあまり現実的に感じられなかった。東大法学部を出たからこそできることが、思いつかなかったんです」

 自分のこれからの野球人生は、草野球を楽しくやるくらいかと思っていた溝内。そんなときに、弁護士をやりながら審判を務めている大先輩と出会うことができたのだ。

©Getty Images

「就職氷河期の悲壮感はなかったです」

「弁護士の仕事をされながら、アマチュア野球の最高峰の試合で審判もされている姿に憧れました。これだ、自分もこうなりたい、弁護士になって審判もやりたいと思ったんです。司法試験に合格するまで何年かかかりましたが、清水先輩の法律事務所に入れていただき、弁護士としての仕事を一から教えていただきました。仕事に支障のない範囲で、今は審判としてグラウンドにも立たせてもらっています。OBになって神宮球場に行ったとしても、普通はスタンドからしか試合を見られない。でも審判はグラウンドにいるんですよ。初めて審判として立ったときは、『やっと戻ってこられたな』という気持ちでした」

 野球に関わり続けたいがために難関の司法試験を突破した溝内にとって、踏みしめたグラウンドの感触は格別だったろう。日弁連に登録されている弁護士は4万4000人ほどだが、ここまで野球を好きすぎる人間は、そうそういないのではないか。

「ただ、一度司法試験を受けてみて、まったく手応えがないようなら、一般企業に就職する道もゼロではないと思っていました。そういうことも考えて、留年したんです。就職するとなった場合には、新卒の方が有利だという話を聞きましたので」

 熱い思いとともに、こうした冷静な戦略が同居するのが、頭の良い人間の強みなのだろう。溝内によると、当時の野球部内において留年はそこまで珍しい事例ではなかったという。また、就職氷河期の悲壮感も同期の中にはなかったようだ。

「当時は留年した人が取り立てて話題になることもなかったです。単純に、単位が足りなくて卒業できない人はいましたが、就職氷河期だからという理由は聞いたことがない。やむなく留年した同級生も、翌年には銀行や証券会社、テレビ局などに就職していましたから、氷河期という実感はなかったです」

「面接を受けたのは1社だけです」

 実際、溝内と同期で同じく留年した済木俊行(1999年卒部・県千葉)も、翌年の就活で面接を受けたのは1社だけだとか。

東大野球部のグラウンド(2009年撮影) ©BUNGEISHUNJU

「当時はOB会が就職をサポートしてくれていて、僕は普通の就活をしていませんでした。東大野球部のグラウンドの人工芝は、ヤクルトスワローズが優勝すると、神宮球場の芝をもらってきて張り替えるんです。神宮球場に人工芝を提供していたのが旭化成で、その際に同社の方と話す機会がありました。そうした経緯があって、化学で社会貢献ができ、かつOBもいた旭化成を目指すことにしたんです。結果的に面接を受けたのは旭化成だけです」(済木俊行)

 かつての古き佳き時代は、体育会の学生の多くが、OBのサポートで就職していたものだ。済木のケースはまさにこれだろう。

「正直に言うと、僕の就活は下駄を履かせてもらっていたと思います。それを実感したのは、旭化成を数年で退社し、渡米してから。アメリカの大学で勉強してから、現地で就職しようと思って求人サイトに登録して何社も応募したのですが、まったく返事がこないんですよ。仕方ないので、教授のツテでバイトみたいな仕事を紹介してもらってしのぎ、その後まともな仕事に就けましたが、それも友人のおかげでした。日本に帰国してからも一向に仕事が決まらず、運良く巡り合った東大野球部の10個上の先輩が経営しているベンチャー企業に入れてもらいました」

「これでは東大野球部は面接で勝てない」

 そんな済木は、いま武田薬品工業で、主にエグゼクティブやプロフェッショナルの採用業務を担当している。12年前、同社がグローバル化の一環としてシンガポールで新卒採用を計画した際、採用マネージャーの外部サポート要員として現地に同行したのをきっかけとして、10年前に同社に入社したという。

「この仕事を10年やっている中で、新卒採用も見ることがあるんですが、普通に就活をして受かる学生はすごいな、素晴らしいなと思いますよ。彼らはしっかりと就活の準備をしているからこそなんですけども、これでは東大野球部は勝てないなとも感じています。実際、何人かの後輩が当社の面接を受けたことがあるんですが、内定の獲得まではいきませんでした。先輩である僕の目からは、みんないい人材だったんですが……」

 済木のキャリアアップの過程を見ればわかるように、就活スキルがなくても人との縁を大事にして会社に入り、実務能力を評価されれば仕事はついてくる。だが昨今では、そもそも就活スキルがなくては、能力を発揮する機会を与えられないのだ。

 これに危機感を覚えていた済木は、野球部人脈から受けた恩を後輩に還元すべく、2019年11月に開催された「東京六大学野球セミナー 就活スタートガイダンス」に講師として登壇している。野球部員と応援部員を対象とした催しであり、このときは3年生の野球部員200名と、応援部員30名が参加したそうだ。

「有名大で野球をやっている学生は、すごくいい人材ですが、キャリアのない新卒を見るときって、その学生がどれだけ深く、この仕事や会社を選ぶ理由を考えてるかを見たいんです。その点が、それまで野球ばっかりの学生は弱くなりやすい。また、学生時代に多くの人とのつながりの中で、どうやって周りの人を巻き込んで結果を出して来たのか、チームワークを育んで来たのかも聞きたい。チーム競技であり、個人競技でもある野球の経験の中から、説得力のある事例を話すための準備が必要ですね」

「就活で受けたのはコンサル2社のみです」

 もっとも、東大野球部は多士済々だ。OBのツテなど頼らずに、なおかつ集団における自分をアピールするのでもなく就活の道を切り開く者もいる。卒部後、単位が足りずに留年した古谷嘉三(2000年卒部・奈良学園)は、5年目の就活でアンダーセン・コンサルティング(現アクセンチュア)の内定を得た。

「同期はOBのいる会社を受けることが多かったので、だったら自分はOBがいなそうな会社に行こうと考えていました。5年目でも単位はギリギリだったので卒業は危うくて、就活に全力投球できる状況ではなかったですから、実際に受けたのはコンサルティング企業2社のみです。東大で自分がどう野球を楽しんでいたかというと、洞察力を磨いていたんですよ。だから、社会に出てもそこで勝負したいということを面接では強調しました」

 古谷は、新人戦では神宮球場の記録を塗り替える勢いで四球の山を築いたといい、ベンチ入りは果たしたものの4年間の投手成績でも目立ったものはない。ただ、同期には、後に北海道日本ハムファイターズにドラフト指名された遠藤良平(2000年卒部・筑波大附)がおり、古谷が在籍した4年間で東大野球部は12勝している。リーグ5位も2度経験している勝利に恵まれた世代だったが、古谷の言葉には若干の冷めた部分があった。

バッティングピッチャーとコンサルの“共通点”

「振り返ると、僕は、そんなに野球が好きなわけじゃないんですよ。マウンドでボールを投げるのは好きだけど、試合で投げるのは違う。緊張するし、自分が新しいことを試そうとすると監督やキャッチャーにいろいろ言われるし、仕事をしている感覚に近い。サインに従って決められたコースに投げたり、四球を出すとベンチに怒られたり、そんなことのために野球をやってるんじゃないぞという気持ちはずっと持っていました。本当は、バッターと向き合って、自分の好きなテンポで、好きなボールを投げるのがすごく楽しいんです。だから打撃練習では、バッティングピッチャーを買って出てました。他の人の3倍は投げていたと思う」

 そんな古谷には、チームは観察対象だったようだ。

「バッティングピッチャーをやっていると、味方のバッターの弱点や癖が見えてくるんですよ。コイツはこのコースにこの球種を投げるとどこにフライをあげる、みたいなことです。じゃあ次はどこのコースに投げてみようか、という具合に洞察と実践を繰り返すなかで、僕は4年間でめちゃめちゃ成長したし、投球がうまくなった自信があります。試合の勝ち負けについては、そんなに重きを置いていなくて、それよりむしろ、誰がどうプレーしたから勝てた、負けたということを考えるのが楽しかったですね」

©BUNGEISHUNJU

コンサル業12年、転職先は…

 顧客が抱える課題を洞察し、ソリューションを提示するコンサル業は、古谷にはまさに適任だったのだろう。

「でも、アクセンチュアは、12年勤めて辞めました。クライアントは他人の会社で、どうしても靴の裏から掻いている歯がゆさがある。『あなたの会社はこうしたほうがいいですよ』と言うよりも、やはり、『我が社をこう変えていきましょう』と言うほうがいい。自分が所属する会社自体を変えていくほうが、面白いと考えるようになったんです」

 東大野球部時代は、味方の打者の弱点や癖を見抜いても、本人にフィードバックしていなかったという古谷。人間は変わるものだ。

 古谷は農機や建機などの機械メーカーとして知られるクボタに転職し、現在はグローバルICT本部DX推進部長としてデジタル技術を用いて社内の業務革新などを担当している。

「クボタに全社的なIT部門が新設され、人材を募集していたので、手を挙げました。当時はまだ製造現場などにおいて、ITは遠い存在。会社は、多くのシステムを作っていましたが、実際には現場の人がそう簡単に使ってくれない。そこで『どうやったらシステムを使ってもらえるか』を考えるのが僕の仕事。最初は使ってもらえないのは当たり前で、なぜ使ってもらえないかをトラッキングしていくのが大事なんです。それは、東大野球部時代の洞察のプロセスと同じです。一生懸命、何かに向き合えば、長い目で見るとどんなことでも役に立つなということを実感しています」

最後に…「そもそも東大生の5人に1人は留年しています」

 ここまで取り上げた3人とも、東大野球部時代に培ったものを活かした、見事な仕事ぶりである。東大野球部には、就職氷河期など無縁だったことはもはや自明だろう。

 最後に、東大野球部の留年率が1992年からの31年間で27%にのぼった事実について、野球部の監督経験者に話を聞いた。2013年から2019年までチームを率いた浜田一志(1987年卒部・土佐高)は、自身の東大生時代も踏まえつつこう話す。

「そもそも東大生全体の平均として、5人に1人は留年しています。野球部の留年率もほぼ同じなので、野球部だから留年するというのは成り立ちません。野球部で留年する学生は、野球をやってなくても留年したと思いますよ。ただし、4年生の1年間、野球をみっちりやるために、春のリーグ戦と日程がかぶる国家公務員試験などを後回しにする選択はありうる。そういうのは、僕はポジティブ留年だと思いますね」

 もちろん、その気になればいつでも官庁や優良企業に入れる自信があるからこそのセリフだ。そう考えれば、就活よりも、いましかできない野球を優先させるのは合理的な選択だろう。野球好きの若者にとって、東大野球部は最高の環境なのである。

<前編から続く>

文=沼澤典史

photograph by Sports Nippon/AFLO