100年を超える歴史を持つ全国高等学校野球選手権大会。あの伝説の投手・沢村栄治(京都商業)や、いまやメジャーを席巻する大谷翔平(花巻東)も出場した甲子園の長い歴史のなかで、史上最高の投手は誰なのか――。

 そう問われたとき、60歳を超える野球ファンの多くはこう答えるだろう。「間違いなく作新学院の江川卓」だ、と。それほど高校時代の江川は、記録にも記憶にも残る異次元の投手だった。いかに圧倒的だったのか。当時対戦した打者の証言などから、“元祖・怪物”の正体に迫る。(全2回の前編/後編へ)

「栃木にとんでもない投手がいるらしい」「球が速すぎてバットに当たらないそうだ」

 そんな噂が、関東から全国に広まっていったのは1972年(昭和47年)頃だった。地方大会の映像がなかなか見られなかった時代。噂だけが先行して、江川が投げる姿を実際に見た者はほとんどいなかった。

 その江川が、3年生にしてようやく甲子園に姿を現した1973年の春のセンバツは、大会前から空前の江川フィーバーになった。

 なにしろ、甲子園初出場に至るまでの記録が凄まじい。

巨人で活躍した江川卓 ©BUNGEISHUNJU

江川2年時の夏…「36イニング連続無安打無失点」

 前年の夏、江川2年時。夏の甲子園を目指す栃木大会では、2回戦から登場して軽々ノーヒットノーラン。中1日置いた3回戦では、一人のランナーも許さない完全試合。そこから中2日の準々決勝もノーヒットノーラン……。

 いわば“3試合連続ノーヒットノーラン”で迎えた準決勝は休養日なしの連投だったが、この試合にも先発して9回まで無安打ピッチング。実に、大会初戦から準決勝の9回まで、7日間に4試合に先発して「36イニング連続無安打無失点」である。真夏の炎天下での連投。疲労も当然あるなかで、36イニング連続で被安打ゼロというのは常識では考えられない。

 しかし、作新学院も延長11回表まで無得点で、その裏にヒットで出たランナーをスクイズで帰され、0−1のサヨナラ負け。江川は、大会を通じてわずか1点を取られただけで甲子園出場を逃がしたのだった。

 ちなみに、この大会で江川が奪った三振は、37回2/3を投げて61個で奪三振率14.6。アウトの半分以上が三振だった。

 3年生が引退後、部の最上級生になった江川の代で、秋季栃木大会を制覇。つづく関東大会の準決勝では、千葉代表・銚子商業を1安打20奪三振で完封した。翌日の決勝戦も、神奈川代表・横浜高校を4安打16奪三振で完封して優勝。ようやく春のセンバツ、すなわち甲子園切符を手にしたのだった。

初めての甲子園。初戦の相手は優勝候補だった

 江川は「昭和の怪物」と言われる。怪物とは、「力量が周囲を圧して飛び抜けている」という意味の他に、「正体の知れないもの」という意味合いもある。後者の意味でも、江川は真の怪物だった。

 センバツ直前になっても、江川は取材にきた記者から「記録を作ったといっても田舎のことだから。全国ではそうはいかないよ」という言葉をかけられたという(江川の公式YouTubeチャンネル「たかされ」より)。

 そして迎えた1973年(昭和48年)3月27日。センバツ開幕日の第1試合に、前年秋の新チーム結成から110イニング連続無失点、194奪三振という快記録をひっさげ、ついに怪物が甲子園でベールを脱いだ。

ファウルでざわめく甲子園

 一体どんな投手なのか。バットに当たらない球を投げるという噂は本当なのか。日本中の野球ファンが注目した江川の初戦の相手は、チーム打率.336と出場チーム中最高の打力を誇り、大会屈指の好投手・有田二三男(元近鉄。同年、夏の甲子園でノーヒットノーランを達成)を擁する優勝候補筆頭の北陽(大阪)。現代で考えるなら、評判の怪物投手が大阪桐蔭と激突するくらい、注目された一戦だった。

 多くの野球ファンが固唾を飲んで見守ったこの試合で、江川は1番から4番まで一球もバットに触れさせずに連続三振。5番打者が、この試合の23球目を初めてバットに当ててバックネットにファウルすると、それまで静まり返っていた超満員のスタンドは大きくどよめき、打者を称える拍手が湧き起こった。

 この打者も結局三振に倒れて、4回2死まで四球1個をはさんで11個のアウトはすべて三振。大会一の強力打線が、打球をまったく前に飛ばせない。終わってみれば、19奪三振で完封と、噂に違わぬ怪物ぶりを満天下に見せつけたのだった。

センバツ4試合で60奪三振は「最多記録」

 筆者も、この試合の江川をテレビで見ていた。19奪三振という記録もさることながら、183センチと当時としては背の高い江川が、モーションに入ると同時に軸足をつま先立ちにして、そのまま左脚を顔近くまで引き上げる豪快かつ華麗なフォームに惹きつけられた。

 右足に乗った体重を打者の方にゆっくり移動させながら、小さなテークバックから7割程度の力で腕を振る。すると、矢のような球が放たれて一瞬にしてキャッチャーミットに収まる。解説者が「いやあ、本当に速い。北陽の打者はバットを振ることもできませんね」と驚嘆していたのが、いまも強烈な印象として残っている。

 この、左脚を高く上げるフォームは、現ロッテの佐々木朗希にやや似ているが、佐々木が、左脚だけを上げるのに対して、江川は右足(軸足)をつま先立ちにしながら左脚を大きく振り上げる。体重を一度上にもっていき、そこから一気に打者に投げ下ろすイメージで、江川の方がよりダイナミックなフォームと言えるだろう。

江川卓の投球フォーム(1973年の栃木大会) ©KYODO

 結局、この大会の江川は、2回戦・小倉南を7回1安打無失点、10奪三振。準々決勝・今治西戦を、9回1安打完封、20奪三振で準決勝まで進んだが、中1日で対戦した古豪・広島商業の“待球作戦”(相手投手に数多くの球を投げさせる戦術)に疲弊し、最後は意表を突かれた三盗に焦った捕手の悪送球で敗れた。

 このセンバツ4試合での奪三振60個は、いまも残る大会最多記録。まさに江川による歴史的な快投が席巻した大会だった。〈つづく〉

文=太田俊明

photograph by BUNGEISHUNJU