鬼のような形相で睨みつける。気迫がボールに乗り移り、バッターを打ち取る。

 あとひとり。深呼吸をして間を整えると、今にも泣き出しそうに顔を歪める。

 両極端の感情が、西日本短大附の森尾和貴に同居していた。

「最後は『絶対に敗けん……ここで負けるわけにはいかない!』という気持ちで投げていたんですけど、『やっとここまできたんだな』という想いが、どこかにあったと思うんですね。だから、こみ上げてくるものを抑えようとはしていました」

30年前、甲子園全試合完投の「鉄腕」

 1992年夏。甲子園決勝戦のマウンドに森尾は仁王立ちしていた。

 1-0で迎えた最終回。2死からランナーを出し、盗塁で得点圏までランナー進める。迎えるは、拓大紅陵の5番・立川隆史。準々決勝で9回に劇的な逆転ホームランを打っていることを森尾は知っていたし、当然、警戒もしていた。なにせ、単打で同点、一発を許せば逆転の場面なのである。

 ただ、打たれる気は全くなかった。

「ピンチという感覚がなかったですね。立川君が逆転ホームランを打ったことはわかっていたんですけど、不思議と負けるとか打たれるって気持ちが全くなかったんですよ。優勝できる。これしか頭にありませんでした」

 二面性の表情を出していても、森尾は落ち着いていた。キャッチャーからのサインに首を振り、マウンドを外す。そして、内角のストレートで立川をサードフライに打ち取り、甲子園の中心で両腕を高々と突き上げた。

92年夏の甲子園、全試合完投で西日本短大附を優勝に導いた森尾 ©KYODO

 この夏、森尾は「鉄腕」と呼ばれた。

 甲子園全5試合で完投し、失点はわずか1。45イニングを投げ四死球は4。その安定感から「精密機械」とも称賛された。

 完全無欠のピッチング。森尾は自身のパフォーマンスを「できすぎ」とは言わない。

「もちろん、できすぎと思われるのはわかるし、そうかもしれないですけど、自分でそう思ったことは1回もないですね。『これだけやったから結果が出たんだ』って」

激闘を制し甲子園…「先輩たちを超える」

 西日本短大附に入学時点から、森尾は「甲子園にさえ出られれば勝てる」と信じてきた。

 1年生の90年夏はメンバー外だったが、チームは甲子園ベスト4まで勝ち進み、自分たちの世代は「強い」と期待されていたこともあった。「先輩たちを超える」。この目標はすなわち、日本一を指していた。

 だが、甲子園までの道が遠かった。

 まず、怪我が多かった。1年生から年に1回は肩の不調を訴えたし、両足スネの疲労骨折や左足首の靱帯を損傷と、森尾も「満身創痍ですね」と苦笑するほどである。

 だから怪我をするたびに、できることを地道に続けた。肩を痛めて満足に投げられないのであれば、ダッシュやランニングメニューを増やす。下半身に不安を抱えていれば、ウエートや体幹トレーニングで体の芯を鍛えた。

 夏を投げ切るため。苦難をも受け入れられたのは、そこに尽きると森尾は言っていた。

「福岡県の場合、多ければ予選で8試合戦わないといけなくて。甲子園に出れば5、6試合あるわけで、もちろん全部投げ切るつもりでしたから。そのために、怪我をしても日ごろの練習がきつくても、『夏のために体力と精神面を鍛えていかないといけない』と、積み重ねていった感じでしたね」

 3年生の夏を振り返る時、森尾は福岡大会準々決勝からの3連投が「今まで経験したなかで一番きつかった」と明かす。

 準々決勝の八幡西戦で延長14回を1-0。準決勝では、前年に西日本短大附の甲子園を阻み代表校となった柳川を3-0で退けた。そして、福岡工大附(現・福岡工大城東)との決勝戦でも投げ切った。この試合で9回に1点を許すまで、森尾は51イニング連続無失点。別次元のパフォーマンスで、ようやく自身初の甲子園を勝ち取ったのである。

 森尾にとって好都合だったのは、全国的にはそれほど注目を浴びていないことだった。

波乱の甲子園…森尾のひとり舞台だった

 甲子園で次々と波乱が起きる。

 センバツ覇者で夏も優勝候補筆頭に挙げられていた帝京が、初戦で尽誠学園に敗退。対抗馬の星稜も、2回戦でナンバーワンスラッガーの松井秀喜が明徳義塾に5打席連続敬遠を受けたことが響き涙を飲んだ。

9回、この日5回目の敬遠を受ける松井  ©Sankei Shimbun

 ビッグネームの陥落。「強いチームは負けてくれ」とは内心で呟いていたが、本音では対戦があったとしても分があると信じていた。

「甲子園にさえ出ればどんなチームとも勝負できる、勝てると思っていたんで」

 甲子園で印象深いシーンを聞くと、森尾は「あまりない」と言う。はっきりと覚えているとすれば、マウンドで対峙したバッターだけで、あとは聞かれれば思い出す程度だ。

 森尾はきっと、ゾーンに入っていた。

 福岡大会まで最速135キロ程度だったストレートが、初戦の高岡商戦で142キロと7キロ近くアップした。この試合を2安打完封で弾みをつけると、3回戦の三重戦でも10本のヒットを打たれながらも完封。北陸との準々決勝では9回に大会唯一の失点を許したが、準決勝の東邦戦では100球シャットアウトと、まさに森尾のひとり舞台だった。

 3回戦(22日)から決勝戦(25日)まで4連投。投じた球数は490球。肩やひじは張っていたというが、森尾の球威が衰えることはなかった。「夏は全試合で投げ切る」。そのための歩みが、甲子園で結実したのである。

「4連投は未知の体験だったんで不安はあったんですけど、実際はそうでもなくて。予選を経験できたのが大きかったと思います。『甲子園に行きたい』ってプレッシャーから、体力面も精神面もきつかったので。そこで投げ切れたことで、甲子園ではいい感じに体がほぐれたのかもしれませんね」

 夏を投げ切り、全国制覇する。高校時代は思い描いた結末を実現できた。

高卒後はプロに進まず…2003年に引退

 森尾は自らを俯瞰できる人間だった。未来予想図に乱暴に筆を入れることなく、進むべき道を模索したという。

 甲子園優勝投手。「鉄腕」「精密機械」と呼ばれるほどの右腕であれば、高卒からプロへもすんなりと進めたはずだが、自重した。

「PL学園の桑田(真澄)さんみたいに5季連続で甲子園に出て優勝したりしていれば、高校からプロに行ったと思いますよ。でも僕は、結果を残せたのは最後の夏だけですからね。プロは何年も活躍しないと生き残っていけないですし、そういう部分で完全に自信が持てなかったっていうのはありました」

 一時は大学進学も考えたが、最終的には地元の社会人チームの新日鉄八幡に進んだ。

 ドラフト指名が解禁される3年間で実績を作る。そんな未来予想図を描いたが、完成することはなかった。

 ひじの手術や肩の故障など、どちらかと言えば怪我に悩まされる時期のほうが長く、野球部が休部となった2003年に森尾も現役を退くことを決断した。

「優勝した出来事っていうのは…」

 森尾に会った18年の時点で、彼は社業に専念していた。

 野球をしている間は「仕事のほうが楽だ」と、立場の優位性を主張していたものだが、実際には「野球で結果が出なくて悩んでいたことのほうが楽でした」と肩をすくめていた。

「じゃあ、野球は卒業します。それはあまりにも寂しいですよね」

 プレーヤーでなくとも、休日には少年たちに野球を教えるためにユニフォームを着る。福岡県の高校野球中継で解説を頼まれたり、取材のオファーを受ければ断ることもない。

 そんな生活に充足感を得る。

「甲子園で優勝した出来事っていうのは、一生ついてくるんだろうなって思います」

 鮮烈な記憶は克明に刻まれる。

 今年の夏も、そして、森尾和貴が輝いていた30年前も。

文=田口元義

photograph by BUNGEISHUNJU