2000年代中頃、角界の主役はいつだって朝青龍だった。土俵上での鬼気迫る迫力と、圧倒的な実力は、それだけで多くのファンを惹きつける要因でもあった。一方で、その奔放すぎる立ち振る舞いは、少しずつ自身の立場も危うくしていく。力士生活の締めくくりは、不祥事での引退という形だった。

 それからしばらく経った後、その血を受け継ぐある力士が誕生している。現在、大関をうかがう気鋭の力士が生まれたその裏側には、一体なにがあったのだろうか?(全3回の3回目/#1、#2へ)

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 両国国技館の2階席から朝青龍そっくりの鋭い眼差しが土俵に注がれていた。

 2014年の夏場所4日目、当時柏日体高の相撲部監督を務めていた永井明慶は学生たちを連れて校外学習に訪れていた。大江戸博物館見学から相撲観戦へ。その中に朝青龍の甥っ子、レスリングで同校に留学していたスガラグチャー・ビャンバスレンがいた。

 この日一番の盛り上がりを見せたのは、新横綱・鶴竜と当時フィーバーを巻き起こしていた平幕の遠藤の取組だった。

 立ち合いから横綱を押し込んだ遠藤が体を浴びせながら鶴竜を土俵下へと寄り倒した。ようやくまげを結えるようになったばかりの23歳が手にした初金星。館内は沸き立ち、まだ取組を残しているのに座布団が宙を舞った。

 その光景が青年の心に何かを残した。

 帰宅後、ビャンバスレンが思い詰めたような表情で永井のところへやってきた。

「先生。俺、相撲がやりたい」

 驚いた永井が理由を問いただすとこう答えた。

「叔父さんがあんな大きな舞台で横綱としてやっていた。あらためて尊敬しました。俺も追いつきたい」

朝青龍から電話「俺みたいに熱い男はいないだろ!」

 これが現在の関脇・豊昇龍誕生のきっかけとなるのだが、すんなり転向とはいかなかったようだ。

「レスリングの留学生として来ていて、その予算の調整もあったし、朝青龍が日本に来て『ダメだ!』と説得してたんですね。でも、そのうちに『永井、なんとかならないか?』と変わっていった。そこから豊昇龍の相撲人生が始まった。運命って突然変わるんですね」

 永井のもとには叔父さんからちょこちょこ連絡が入る。

「この間も電話がかかってきて『いま一番いい親方は誰なんだよ。俺みたいに熱い男はいないだろ!』と言うので、一応そうですねと答えておきました(笑)。実際に横綱が残っていたら、相撲界もまた違っていたんでしょうね」

 不本意な形で土俵を去った朝青龍のやりきれなさも豊昇龍には伝えているという。

「一族の思いとして、親方株をちゃんと取れるように頑張れよと言っています」

引退会見で「一番の思い出は?」

 現在は実業家としてさまざまな事業を展開している朝青龍だが、相撲への情熱もまだまだ尽きない様子で、場所中は相撲への熱いコメントをツイッターに投稿している。中でも、今年の夏場所で豊昇龍が横綱・照ノ富士に敗れた時の投稿には、その哲学が端的に示されていた。

 “横綱に勝つ為に稽古するんだ!“

 一般人への暴行事件を起こして角界を去ることになったとき、引退会見で一番の思い出は? と問われた朝青龍は涙ながらに答えた。それは少し意外な答えだった。

「やはり、両親の前で横綱・武蔵丸関を倒したことを誇りに思う。初めて両親を招待して、横綱というすごいものを倒した。今までで一番、というよりそれしかない」

 01年夏場所初日、武蔵丸戦での横綱戦初勝利。史上初の7場所連続優勝や年6場所完全制覇、35連勝なども成し遂げたのに、横綱として過ごした7年間よりも、「横綱というすごいものを倒した」一番こそが、朝青龍にとっては土俵人生のハイライトだった。

「メシもうまくない…すぐモンゴルに帰りたいと思った」

 究極の負けず嫌いは、自分を負かす存在がいてこそ闘志を燃やすことができる。

 貴乃花とは2度しか対戦する機会がなく、武蔵丸には4勝5敗だったが横綱同士での対戦は叶わなかった。昇進してすぐに突入した長い、長い一人横綱時代。白鵬が追いついてくるまでの4年以上の時間は我が世の春を謳歌していたように思えて、むしろ孤独で退屈な時間だったのかもしれない。

 付け人だった岡田泰之(元三段目・男女ノ里)は、その性分は生い立ちにも根ざしていると感じていた。 

「5人兄弟の4番目で、一番上の兄貴は警察官。二番目はお父さんと同じモンゴル相撲の関脇(のちに横綱に)で、レスリングではオリンピックの代表にもなった。三番目もレスリングが強くて、新日本プロレスにも入った。なんせお兄ちゃんたちに勝てる競技がない。何ができるんだ、俺には? というところに大相撲があった。兄貴たちに敵うもの、違うもので勝負しないとモンゴルで生き残れないという4番目ならではの考えだったんでしょうね」

 200人が集まったというモンゴルでの選考試合を勝ち抜いて掴み取った明徳義塾入り。当時、高校に留学してからの角界入りは前例のない挑戦だった。頭からぶつかる立ち合いに慣れず、最初の稽古では中学1年生にも勝てなかったという。言語の壁、食事の違い、人間関係、すべてが負けられない相手だった。

《乗ってきた飛行機が帰ってしまったとき、(目の前が)まっくらになりましたね(笑い)。きつい練習が始まって、言葉もわからない、メシもうまくない、すぐ帰りたいと思いました(笑い)》

《千代の富士関も飛行機に乗りたくて来たんですよね。自分もそれと同じ思いだった。でも、人間関係でもめたり、できないことは涙がでるぐらい悔しくて、そういうときに寂しくなって、両親のことを思い出しました》(『大相撲』2003年1月号)

《日本語覚える外国人は最初に悪口を覚えるんだよね。言葉がわからなくても、何か悪いことを言ってるなというのは、分かるんだよね。日本語は分からないだろうからって、外国人の前で悪口言っちゃ、ダメだよ(笑)》(同2002年7月号)

“おい、モンゴルマン“って馬鹿にしてたのに…

 岡田も胸の内にくすぶり、こじらせた思いを聞いたことがあるという。

「アマチュアで一緒にやっていた力士がプロに入ってきたんです。よく話をしていたけど、『あいつら、俺のことを“おい、モンゴルマン”って馬鹿にしてたのに』とも言ってましたね。そういうのを忘れない人だし、そこからもハングリー精神が生まれていた」

 一方で、高砂部屋でアマチュア時代に実績を残した力士がなかなか関取になれずにいた頃、朝青龍は業を煮やしてこう言ったという。

「1場所か2場所で関取に上がれなきゃおかしいだろう。俺は雑草から(這い上がって)来たんだぞ!」

 はたからみれば十分にエリート街道を歩んできたと思えなくもないが、本人の意識はまったく違っていた。生まれながらに角界の伝統と宿命を背負い、気高く強くなったのが貴乃花なら、人生を勝ち抜くために異文化の中で戦い続けたのが朝青龍だった。いくら荒っぽいと言われようが、命を守ることに必死な狼が体面を気にするわけがない。

貴乃花にいきなり「おい、俺に胸出せ」

 岡田が聞いたという幕下時代の逸話が、これまた朝青龍という力士のキャラクターをよく表している。

 ある巡業の朝稽古で若い衆の申し合いが終わり、ぶつかり稽古が始まった。土俵の周りには本稽古に備えて関取衆が集まり始めている。そこには横綱・貴乃花もいた。その時、朝青龍は何を思ったか、貴乃花に向かって「おい、俺に胸出せ」と言ったというのだ。

 どこからどう見てもとんでもない暴挙。同じ一門ですでに朝青龍のことを知っていた曙が慌てて「俺が出す」と止めに入ったものの、朝青龍は「曙さんはいつもやってもらってるから違う人がいい」とごねた。もちろんそんなわがままが聞き入れられるはずもなく、ぶつかり稽古でぐちゃぐちゃにされて、どうにかその場は収まったという。

 彼らがそろって参加したとなると1999年の冬巡業あたりの出来事だろうか。普通ならありえない話だ。多くの関係者も「さすがにそれはないだろう」と首を振った。

 だが、朝青龍ならありそう、あってもおかしくないと思えてしまう。それは異国から来た彼が角界の作法や言葉遣いを知らなかったからではなく、誰よりも激しく強さを追い求め、純粋に横綱に憧れていたからこそ、そう思えてくる。

 凄まじい上昇志向に、抜群の運動能力と愛嬌を兼ね備えている。若き日の朝青龍のような力士が、また現れることはあるだろうか。

<#1、#2から続く>

文=雨宮圭吾

photograph by BUNGEISHUNJU