11月11日、通算215勝を挙げた元ロッテの村田兆治さんがお亡くなりになりました。不屈の豪腕投手を偲び、名選手たちの現役時代「最後の1年」を描いた『現役引退――プロ野球名選手「最後の1年」』(中溝康隆著/新潮新書)から、村田兆治編を紹介。伝家の宝刀・フォークボール習得の裏にあった“壮絶な努力”とは(全2回の前編/後編へ)。

「化石かと思ったら、あいつ、まだ生きとった!」

 1990(平成2)年開幕戦でロッテの金田正一監督が、完投勝利を挙げた村田兆治を評してこんなカネヤン節を残している。自身13度目の開幕投手を務めた村田は当時40歳で、その年が現役ラストイヤーだった。

 村田兆治は福山電波工業高時代から剛速球投手で鳴らし、地元の広島カープ入りを熱望するが、67年ドラフトで東京オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)から1位指名を受ける。2年目に6勝(5完封)を挙げるも好不調の波が激しく、加えて制球力不足に悩み試行錯誤の末に辿り着いたのが、代名詞となる「マサカリ投法」である。足腰で充分なタメを作るため右肩を落とし、右足を“くの字”にして支え、左足を高く上げる投球フォームに当初はブルペンで先輩投手からも「不細工だ」なんて笑われてしまう。だが、豪快な新フォームの原型を掴んだプロ4年目の71年に初の二桁となる12勝を記録。74年には金田正一監督のもと日本一の胴上げ投手となり、シリーズMVPを受賞した。伝家の宝刀フォークボールは、相手チームの米田哲也(阪急)を参考に習得したものだが、その訓練の道のりは壮絶だ。

鉄アレイを指に挟んで…狂気の“フォーク習得法”

 水をたっぷり入れた一升瓶や2キロの鉄アレイを指に挟んで持ち上げるなんて序の口で、車のハンドルやドアの取っ手なども人さし指と中指の外側の腱で握った。ひと休みで水を飲むコップさえも2本指で挟む徹底ぶり。いやそれ全然休憩になってないんじゃ……と突っ込む暇もなく、さらに眠る時間がもったいないと、寝ている時も指の間にテニスボールを挟んでテープで固定。まさに狂気のマサカリ。「しびれと痛みで夜中に何度となく目が覚めてしまった」なんて今の若手投手からしたら拷問のような特訓を自らに課した。

 文字通り血の滲むような努力を重ね、75年には防御率2.20で最優秀防御率と13セーブで最多セーブに輝き、76年は21勝を挙げ202奪三振、防御率1.82で2年連続の最優秀防御率を獲得。150キロの剛速球と落差30センチのフォークボールに磨きをかけ、プロ14年目の81年には19勝で自身初の最多勝に加え、4度目の最多奪三振と名実ともにロッテのエースとなる。同世代の山田久志(阪急)や東尾修(西武)といったパ・リーグの大エースたちを強烈にライバル視して、彼らと試合前に顔を合わせた時に次回の登板予定を聞き出し、自軍の監督やコーチに直接対決できるようローテーションを組んでもらったという。ホームランか三振か、門田博光(南海)との火の出るような力と力の真っ向勝負は、あの頃のパ・リーグの象徴だった。

「オレは本物」。マサカリ兆治の自負と柔軟性

 だが、“人気のセ、実力のパ”と言われた時代、村田も自著『還暦力』(朝日新聞出版)の中で当時の球界事情をこう書く。「ジャイアンツが超一流企業で、阪神タイガースなど他の人気球団が一流企業。私が入団した当時の東京オリオンズなどは、中小企業、いやもっと言うと下請け企業のような感じだった」と。空席の目立つ客席に寂しさがないと言ったら嘘になる。しかし、目の前の仕事を観客が少ないからと言って手を抜くようなことは絶対したくなかった。有名とか有名でないとかではない。本物か本物でないか。マサカリ兆治には、オレは本物だという強烈な自負があった。

 まるでサムライのような真っ直ぐさが誤解を生み、時に球団とぶつかってトレード騒動に発展することもあったが、一方で球界の慣習に縛られず新しいものを積極的に試す柔軟さも持ち合わせていた。ちなみに今では当たり前の肘のアイシング用品も、ベンチで氷の浮いたバケツに肘を突っ込んでいる村田の姿を見たスポーツメーカーの社員が、保冷剤を入れたパックを作ってくれたのが投手用の第1号である。

右肘の故障で「山にこもって座禅」

 そんな不屈の男も32歳の春に野球生命を脅かす大きな故障に見舞われる。82年5月17日に右肘を痛めてしまい、当初は原因が分からず、日本中の病院を訪ね、山にこもり座禅を組みながら滝に打たれたこともあった。ようやく靱帯損傷と判明すると、翌83年8月22日にロサンゼルスのF・ジョーブ博士のもとで靱帯再建手術。当時の常識では利き腕にメスを入れたら終わりと囁かれる中、村田は不屈の精神でリハビリを続け、見事カムバックを果たす。投げられない欲求不満を異常な量のランニングとダッシュにぶつけ、外野フェンス沿いを「我慢、忍耐、辛抱、根気」と呟きながら走り、驚いて振り返る若手投手には「ただ今、我慢中だ!」と大声でシャウトする。

 かなりぶっ飛んだ先輩だが、85年4月14日の西武戦で1073日ぶりに先発して勝利投手に。手術明けにもかかわらず155球の完投勝利というムチャクチャさもまた村田らしい(ジョーブ博士からは、100球以上投げることを禁じられていた)。そこから、中6日で毎週日曜に先発登板の“サンデー兆治”として復活すると、開幕11連勝を記録。35歳の不死鳥とメディアで人気となり、その年は17勝を挙げ、見事カムバック賞を受賞した。閑古鳥が鳴くボロボロの川崎球場を本拠地とする80年代、ロッテと言えば村田と三冠王・落合博満という時代があった。

39歳シーズンも大活躍。しかし…

 ファミコンソフト『燃えろ!!プロ野球』シリーズはマサカリ投法のリアルな再現度の高さが売りのひとつだったし、『ファミリースタジアム』の連合チーム「フーズフーズ」のエースむらたのフォークボールの落ち方は、ファミスタ内ぶっちぎりトップのエグさで、このゲームをきっかけに村田兆治の凄さを知った若いファンも多い。なお村田が持つ日本記録の148個の暴投はほとんどがフォークのワンバウンドで、背番号29もそれを恥じることはなかった。

 元号が平成に変わった89年には自身12度目の開幕投手を務め、西武相手に149球の完封勝利。5月13日の日本ハム戦で通算200勝を達成する(この舞台となった山形県野球場には「ロッテオリオンズ村田兆治投手 200勝達成記念 山形県中山町」という記念レリーフが設置されている)。さらにオールスター戦では39歳8カ月の史上最年長の勝利投手となってMVPに輝き、防御率2.50で13年ぶり自身3度目の最優秀防御率を受賞した。平成でもマサカリ兆治ここにあり。まだまだ現役バリバリと思いきや、村田はコーチ兼任で迎えた翌90年に「最後の1年」を迎えることになる。〈つづく〉

文=中溝康隆

photograph by BUNGEISHUNJU