11月11日、通算215勝を挙げた元ロッテの村田兆治さんがお亡くなりになりました。不屈の豪腕投手を偲び、名選手たちの現役時代「最後の1年」を描いた『現役引退――プロ野球名選手「最後の1年」』(中溝康隆/新潮新書)から、村田兆治編を紹介。1990年10月13日、ラスト登板時にファンを感涙させた涙のスピーチ、そして引退を決断した瞬間とは(全2回の後編/前編へ)。

 まだまだ現役バリバリと思いきや、村田はコーチ兼任で迎えた翌90年に「最後の1年」を迎えることになる。

引退の予感…完封後に“意味深なコメント”

 とは言っても、“ブルーサンダー打線”と恐れられたオリックスとの開幕戦に40歳4カ月で先発すると、9回2安打1失点の完投勝利。40代開幕投手の勝利は49年の若林忠志以来41年ぶりの快挙で、プロ23年目のシーズンを最高の形でスタートさせる。だが、この年のロッテは4月こそ2位スタートを切るも、5月以降は失速。投手事情も厳しく、5月20日の近鉄戦では同点で迎えた9回一死三塁の場面で背番号29がリリーフ登板する。恩師のカネヤンが仕掛けたまさかの40歳の緊急抑えプランに、村田は「やりたいことだけじゃなく、仕事としてやらねばならないこともある」と了承した。

 再び先発に戻った7月3日の日本ハム戦、5対3で自チームがリードする8回裏一死の場面で、自ら三塁側ベンチにゆっくり手を上げ交代を促す。試合後には「自分で責任を持ってピッチングしている。それが結果に結びつかなければ引退ぐらいの気持ちでやってるんだ」と村田は静かに語った。その約2週間後の7月19日ダイエー戦では、完封ペースも6回表に突然乱れて同点にされると、ここでも一塁側の首脳陣に向かって小さくバツ印を作り降板。あれだけ投げることにこだわった男が自らマウンドを降りて、ベンチから呆然とグラウンドを見つめた。鬼のマサカリ兆治らしからぬ行動である。それでも最速149キロを記録した8月24日の西武戦では、史上27人目となる通算600試合登板を4安打10奪三振の完封勝利で飾るが、直後に「最後の一花を咲かせられた」と意味深なコメントを残す。

ラスト登板…「涙のスピーチ」にファンが震えた

 すでに7月に村田は引退を決意していたのだ。そして、9月30日のラスト登板が雨で流れ、仕切り直しの10月13日の西武戦、本拠地・川崎球場でまたも雨が降る中、最後のマウンドへ。捕手は同じくこの年限りで引退する袴田英利が務め、前売指定券はすべて売切れた。長蛇の列が歩道にあふれないよう、12時半の開門予定が1時間半も早められる。2万2000人の観客が見守る中、初回から直球で押しまくるマサカリ投法に衰えは微塵も感じられない。最速145キロのストレート、フォークボールやスライダーはキレまくり、秋山幸二から三振を奪い、清原和博も無安打に封じ込めた。終わってみれば、西武打線を5回無失点に抑え、雨天コールドゲームで勝ち投手に。83球の完封で通算215勝目を挙げ、「人生の喜びも悲しみも、すべてこのマウンドの上にありました。絶望も挫折もありました」と挨拶した昭和生まれの明治男は涙をぬぐい、ロッテナインから胴上げで送り出された。

 最後の1年は26試合で10勝8敗2S、防御率4.51。41年ぶりの40代二桁勝利を達成する一方で、シーズン最多暴投記録を更新する17個で自身12度目の暴投王に。最後まで己の投球を貫いた。しかし、誰がどう見てもまだ充分投げられたはずだが、なぜ村田はユニフォームを脱いだのだろうか?

「まだやれる」の声…なぜ引退を決断?

 自著『哀愁のストレート』(青春出版社)の中で、「まだやれるのに、と多くの人にいわれたが、まだやれるの『やれる』のイメージがどこにあるかだ。そういうギリギリの線で引退を決意したのが40歳のときだった」と記しており、引退直後に出版された『剛球直言』(小学館)では、はっきりと「余力を残してマウンドを去ることがエースの美学だ」と本心を告白している。

「先発完投をしてこそ、プロフェッショナルと呼ばれ、エースと尊称されるにふさわしい。だから、その期待に応えられなくなれば、いさぎよくユニフォームを脱がねばならないと考える。わずか、数イニングスの闘いだけで終えるリリーフ役に転じるのは、私の美意識にそぐわない。“マサカリ兆治”のイメージを崩さずに引退することが、私のダンディズムの極致なのである」

 オレは最後の最後まですごい投手という印象のまま消える。村田兆治は二番手や三番手として延命するのではなく、ロッテのエースのままプロ生活に別れを告げたのである。

文=中溝康隆

photograph by JIJI PRESS