大谷翔平を最も近くで見てきた元日本ハム外野手の岸里亮佑さん。偉大な先輩の思い出、自身が直面した「プロの壁」と戦力外通告、セカンドキャリアについて聞いた。《全2回の1回目/後編につづく》
それがナンセンスだとわかっていても、ふと考えてしまう。
もし、あのときに戻れたら――。
岸里亮佑27歳。2019年に日本ハムから戦力外通告を受けた元プロ野球選手である。NPBを離れて3年が過ぎた今も、あのとき部屋でひとり襲われた焦燥感を鮮明に覚えている。
「ケガで練習ができない、一軍から呼ばれない。そんな状況でも焦っちゃだめだと思うんですよね、今思えば」
岸里は岩手県久慈市で生まれ育ち、小学1年生で野球を始めた。中学時代は岩手県選抜の「エース兼4番」として東北大会準優勝。野球と並行して続けた陸上でも100mで県3位に入賞するなど、その身体能力の高さは県内外から注目を集めていた。走攻守揃った選手として多くの強豪校から誘いを受けたが、地元の花巻東高校を選んだのは「いとこに同校OBがいたこと」に加え、中学2年生だった09年夏の甲子園の熱狂を目の当たりにしたから。当時のエース菊池雄星が率いたチームは「県勢90年ぶりのベスト4入り」を果たし、岩手県民を沸かせた。
入寮初日。割り当てられた「11号室」に岸里が入ると、ベッドからにょっきりとはみ出した足が目に入った。「あれ、間違ったかな」。廊下に出て迷っていると、その11号室から「ひょろりとした長身の男」が現れ、つかみどころのない独特のトーンで言った。
「大谷翔平です。よろしく」
同部屋の相手は大谷だった。
「11号室は菊池さん、翔平さんが過ごしたエース部屋、別名『出世部屋』と言われていたことは後に知りました」
大谷の1学年下にあたる岸里は、硬式出身の大谷と異なり軟式の中学野球部出身。入寮2日目に初めてそのプレーを見た瞬間、唖然とした。
「翔平さんとブルペンの隣で投げることになったんです。見たことがないようなエグい球を投げていて。『なんだ、この人は……』と。でもそれより衝撃的だったのはバッティングでした。レフト側の球場外に3階建ての体育館があるんですが、そこまで平然とした顔で打ち込んでいる。翔平さん、左バッターですよ? 右のスラッガーでもほとんど当たらないのに。野球ゲームのキャラクターのような選手が実在するのかって」
大谷が仕込んだブーブークッションのいたずら
入寮から2年間、大谷がケガで離脱していた期間以外は同じ部屋で生活し、怪物の薫陶を受けた。当時の思い出は野球のアドバイスより、いたずらと読書。先に部屋に戻った大谷が岸里の枕にブーブークッションを仕込み、その音にケラケラ笑う。大谷の書棚に野村克也の本が並んでいれば岸里も買う。そのうち、大谷が読み終わった本の多くは岸里に渡されることになり、気づけば読書が習慣になっていた。上下関係を気にしない大谷との生活は実に居心地がよく、「怒られたことは一度もない」と言う。
「いい意味で捉えてほしいのですが、翔平さんってあまり人に興味がないんですよ。だから他人に対してイラッとすることもないのかなって。怒ったとしても、自分に対してのように思います」
12年ドラフトで1位指名を受けた大谷翔平は日本ハム入りを決め、翌春に卒業した。そのひとつ下の代で岸里は、主に「3番・レフト」の主軸として活躍。夏の甲子園ではホームランを放つなど、菊池世代以来となるベスト4進出に貢献した。
そして迎えた13年ドラフト会議で7位指名を受けた。選んでくれた球団は大谷と同じ日本ハムだった。“11号室の先輩”には、指名当日に電話した。
「『どこまでついてくんだよ!』って。第一声が祝福の言葉じゃなかったことは覚えてます。電話の最後にやっと、おめでとうって言ってくれましたけど」
指名挨拶時の会見で、岸里が「盗塁王をとりたい」と宣言すれば、当時のスカウト担当も「3拍子そろっていて将来が楽しみ」と期待を語った。プロ1年目から活躍していた大谷の後輩とあって、メディアやファンの注目度も、ドラフト7位としては異例の高さだった。
1年後、その期待はさらに高まることになる。
岸里は二軍で全108試合に出場し、107安打を放った。この数字は、ヤクルト山田哲人の1年目を上回る「高卒新人野手二軍最多安打記録」だった。さらにシーズン終盤の10月には一軍戦にも出場。プロ初安打、初打点まで記録した。19歳が残した成績にファイターズファンは確信したはずだ。岸里は必ず主力になる、と。
「1年目は遮二無二なって駆け抜けたら終わっていた感じでした。印象は良かったようで、オフシーズンに栗山(英樹)監督に言われたんです。来季は一軍で外野起用も考えている、って。それはもう、気合い入りますよね。オフ期間で何をすべきか……まずはこの細い体をどうにかしようかと」
当時の体重は70kg弱。周りの選手と比べて体の細さは歴然だった。ヒットを量産したものの、他の選手に比べて打球の球質が弱いと感じた。ならば、と岸里は思った。広角に打ち分けられるバットコントロール、二軍ながら13盗塁を決めたスピードはそのまま、増量して「パワー」を加えたい。そうすれば一軍の選手たちとも対等に戦えるのではないか。唯一無二の選手になれるのではないか。
左太ももに異変。ケガの本当の怖さは…
オフ期間中、食事量とウエイトの練習量を極端に増やした。成果は如実に現れ、翌年2月には6kgの増量に「成功」。ともに取り組んでくれたトレーナーと喜び合った。開幕一軍入りの誓いを胸に、意気揚々と春キャンプに乗り込んだ。
異変を感じたのはキャンプ6日目だった。左太ももに筋肉痛とは異なる嫌な痛みを覚えた。診断は肉離れ。過度な増量が原因だった。
「あとから知った話ですが、増量する場合は1年に2、3kgずつ上げるのが理想らしいです。一気に増やすと体のバランスが崩れてしまう。栗山監督にもこっぴどく叱られました。『そりゃ怪我するに決まってるよ』と。一緒に取り組んでいただいたトレーナーさんも『選手を殺す気か』と怒られてました。その方は僕と同じ2年目で、本当に親身になって支えていただいて。若さゆえ、2人して真っ直ぐ走りすぎたのかな。先輩方に聞いておくべきでした」
無理な増量の代償はあまりに大きかった。ケガの本当の怖さは“治った後”にあった。
1年目の感覚が戻らない。スイングのポイントがなぜかズレる。50m走のタイムが上がらない。何を変えても好転しない。気づけば同じ外野のポジションで、1つ下の14年ドラフトで入団した淺間大基が頭角を現していた。俊足巧打で同じ左打ち。岸里が意識してきた後輩が、自分の目指す舞台で躍動している。一軍の試合中継をテレビで見ることができなくなった。当時の心境を告白する。
「それがプロの世界だとわかっていても、悔しくて」
ひと呼吸置いて言葉を紡ぐ。
「……いや、うらやましかったんですね。自分と同じ系統の選手が一軍で活躍している。それなのに僕は何をやってるんだろうって」
鬱々とした日々を過ごすうち、「何もできなかった」2年目は気づけば終わっていた。失われた感覚は3年目も戻らず、一軍戦の出場は1試合のみ。高校で同部屋だった先輩が「二刀流」で大ブレイクして、チームが日本一になっても心は晴れなかった。
その大谷からある日、食事に誘われた。〈後編につづく〉
文=田中仰
photograph by SPORTS NIPPON / JIJI PRESS