今季限りで17年間在籍した福岡ソフトバンクホークスに別れを告げた松田宣浩。39歳で直面した退団と引退の二択、ホークスでのラストゲームを二軍の筑後で希望した理由、そしてセレモニー中の秘話を語ってもらった。(全2回の前編/後編へ)

戦力外後の日々…松田が考えていたこと

 車を走らせる。

 目的地まではおよそ1時間。短くなく、長いわけでもない。運転中に何かを考えるにはちょうどいい時間なのかもしれない。

 福岡市内の自宅からタマホームスタジアム筑後のある二軍施設までの間、ソフトバンクの松田宣浩は「有意義やった」とハンドルを握っていた空間での自分を振り返る。

「基本はその日のこと、試合だったり、練習のことを考えてましたね。『ホークスでプレーできるのも、もう少しなんやな』って思いながら運転することもありましたけど、気持ちとしては楽でした。辞めることは想像してなかったんで。そこを少しでも考えていたら、道中もきつかったと思うんですよ。僕はもう、『自分を獲ってくれるところがあれば頑張りたいな』って、それだけだったんでね」

 松田が筑後に通うようになったのは、まだ残暑が色濃く残る季節だった。

 9月7日。球団に呼び出された松田は、2023年に契約を結ばないことを告げられた。つまり、戦力外を受けたのである。

 薄々はわかっていた。もしかしたら単年で契約してくれるかもしれないといった期待もあったが、現実は厳しかった。

「『そうなんだ』って、そんな感じですね。別にショックってこともなかったです」

若返るチーム…「世代交代は自然の流れ」

 今年は巻き返しを誓ったシーズンだった。

 18年から2年連続で30ホームランを記録していた打棒が、20年からの2年間は10本台にまで激減していた。しかし、昨年のシーズン終盤に松田本来の、体の前でボールをしっかり捉えるバッティングを取り戻しつつあったし、実際に今年の開幕戦は「7番・サード」でスタメン出場を果たしていた。

「もうひと花咲かす。まだまだ悪あがき、していきますからね!」

 生気を放出してシーズンに臨みながらも、39歳という自分の年齢を客観視すれば、結果が問われることも理解していた。

 新監督の藤本博史はチームの若返りを図っていた。実績のある中堅、ベテラン選手を起用する一方で、若手選手にもチャンスを与えられる。松田はその生存競争に敗れた。

 43試合の出場で打率2割4厘。ホームランは0本。キャリアワーストの成績だった。

 そして、ソフトバンクで最後の一軍出場となった9月7日。松田は戦力外の通告を受け、ファーム行きを命じられた。

「歳は取っていくものですし、どんなにすごい選手でもずっとスーパースターとしてレギュラーで出続けられるなんてことはあり得ないんで。世代交代っていうのは自然の流れだと思ってるし、そのなかで結果を出せなかった。だから別に、『悔しい』とか『あの時こうすればよかった』というのは全くなく」

「やっぱり、野球が好きなんですよ」

 松田はその場で、球団から11連戦が終わる20日までに退団するか、引退するかを決断し、報告してほしいと促された。

 この時、松田が引退を選択する可能性は「1%くらい」だったという。

 99%の現役続行の意思は、今年の経験が大きかったのだと、松田は説明する。

「ずっとレギュラーだったからこそ、控え選手の気持ちがわかった1年だった。試合に出たいけど出られない。でも、『ここで気持ちを切らしたらあかん』とか、これまでにない感情があったりしたんですけど、そこで諦めたり、腐ってしまったら、『これまで自分がやってきたことがすぐに消えるな』って」

 ただ、こうも考えてしまう。

 主力として7度の日本一を知り、長いプロ野球の歴史で43人しか到達していない通算300ホームランなど実績を残した自負があるからこそ、感情のせめぎあいがあったはずだ。不動のレギュラーだったが故にプレーできない苦しみ――もしかしたら、野球が嫌いになる瞬間だって訪れたのではないか?

 松田がすぐに反応した。

「それがないんですよねぇ。『きつい』ってワードは時々感じることがあったかもしれないし、そこで野球が嫌になる選手って結構多いんですけど、僕は嫌いにならないですねぇ。少しでもそう思ったら辞めてたと思います。やっぱり、野球が好きなんですよ」

 松田を突き動かすものは、プロ野球選手としての五感とも言えるような感覚だ。

 いつでも鮮明に呼び覚ますことができる。

「バットにボールが当たった感触。打球が飛んでいく角度。自分が打って喜んでくれるファンの歓声。僕は301本のホームランを打ってるんですけど、『早く302本目を打ちたい!』って思わせてくれるんです。守備でもそうですよね。速い打球を捕る。投げづらい体勢でもしっかり送球してアウトにする。サードで8回、ゴールデングラブ賞を獲らせてもらっていますけど、そういうプレーができると『また獲りたい!』ってなるんですよ。これはねぇ、本人にしかわからない! 忘れられないんですよ、あの感覚が」

 戦力外を受けてすぐ、球団に「退団します」と告げなかったのは、そんな麻薬のような快感を再確認したいからでもあった。

 およそ2週間、若手たちと汗を流した時間を、松田は「中身が濃かった」と言った。野球をまだやれると思えただけで十分だった。

一軍球場でのセレモニーを断った理由

 9月20日。約束の回答期限を迎えた松田は退団することを球団に申し出て、意思は尊重された。その席でかけられた言葉に、ソフトバンクで心を燃やした17年間は間違いではなかったと、喜びがこみ上げてきたという。

「球団の方が“大功労者”って言ってくれたんですよ。功労者じゃないですよ。“大”を付けてくれたんです! 『頑張ってきてよかったなぁ』って思いましたねぇ」

 球団は大功労者に、盛大な退団セレモニーを提案してくれた。10月1日、PayPayドーム。一軍が遠征に出ているこのタイミングであれば本拠地でセッティングできるとし、「たくさんのファンにユニフォーム姿を見てもらいたい」とも言ってくれた。

 松田が頭を下げる。しかし、球団からの厚意を丁重に断った。理由はこうだ。

「現状として二軍の選手やし、『そんなおこがましいことないな、勘違いやな』って思ったんですよ。前の日(9月30日)から中日と連戦やったんで、そうなると相手ファンの方がわざわざ筑後まで来てくれているのに、そこから福岡市内まで移動させるのも申し訳ないじゃないですか。だから、『本当にありがたいんですけど、セレモニーをやっていただけるのなら筑後にしてください』って」

 10月1日。松田の希望通り、筑後で退団セレモニーが開催された。

退団セレモニーで…“予想外の演出”に涙

 3113人の観衆が見守る。「4番・サード」で試合に出場した松田は3打数1安打で、ソフトバンクでのラストゲームを締めた。

 セレモニーでは、バックスクリーンのビジョンに松田の退団会見と17年間の足跡、チームメートの惜別メッセージが映し出される。その後、自らの言葉でチーム、仲間、ファンへの感謝。野球が好きであること、他球団でプレーを続けると報告した。

 ここまでは、松田も筋書きを知っていた。予想外だったのはこのあとだ。

 二軍監督の小久保裕紀が、花束を抱えてマウンドにいる松田の下へ歩いてくる。

「とにかく松田らしく、明るく、楽しく、元気でやってくれ。応援してるからな」

 胸が熱くなる。「ヤバい……泣きそう」。目元の潤いを止めようと、顔が硬直する。

 無理だった。続いて前一軍監督の工藤公康からも花束を手渡され、感情が溢れた。

「自分が監督1年目から、痛い、かゆいと言わずに全試合出てくれて、本当に救われたよ」

 23秒。松田はスタンドから舞い降りる拍手を浴びながら目頭を押さえ、震えていた。

 さらに、白紙になっているセレモニーの台本の続きに、チームが松田への感謝を綴る。

 スタンドに別れの挨拶を済ませた松田が、自身のオリジナルTシャツを着た選手やスタッフたちに「やりましょう!」と囲まれる。

 ソフトバンクの黄金期を支えた背番号「5」が、5回宙に舞った。

「ありがとうございました!」

 何度も、何度も頭を下げ、感謝を述べた松田が、自らの手で残されたセレモニーの最後の1ページに演出を加える。

 スタンドに手を振り、ベンチに引き上げると思わせながら、踵を返しホームベース上で拳を握る。彼の代名詞であり、ファンをいつも滾らせてくれた、あのポーズだ。

「アッツォ〜!!」

 茜色に染まった夕刻のスタジアムが、熱気に包まれる。

 松田宣浩は右腕を振りかざして熱男を叫び、ソフトバンクに別れを告げた。〈つづく〉

文=田口元義

photograph by Keiji Ishikawa