2022年の下半期(対象:9月〜12月)まで、NumberWebで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。相撲部門の第4位は、こちら!(初公開日 2022年9月27日/肩書などはすべて当時)。

「品格」「横綱」「神事」……大相撲の世界を巡ってそんな議論が喧しくなってしばらく経つ。相撲ファンはいつから土俵の上にこれほど多くを持ち込むようになったのだろうか? ひとつの分岐点となったのは、間違いなくモンゴルの蒼き狼の存在だろう。

 若貴ブームの去った土俵を牽引した朝青龍という横綱は、良くも悪くも大相撲の世界に新風を吹かせていった。いったい彼の存在は相撲界にどんな意味を与えたのか。そして、その原点はどこにあったのだろうか?(全3回の1回目/#2、#3へ)

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 2001年4月8日、大阪城ホールで行われた結びの一番のことを覚えているとしたら、その人は相当な好角家かもしれない。

 その日は大相撲勝抜優勝戦の2日目が行われていた。興行のトリを飾る幕内トーナメント決勝に勝ち上がったのは横綱・貴乃花と、もう一方はモンゴルの新鋭、この時まだ平幕の朝青龍だった。

 17歳で来日し、明徳義塾高校を経て角界入りした朝青龍は、1999年の初場所で初土俵を踏むと、2年余りで小錦に並ぶスピード三役昇進を決めていた。まだ21歳。将来は大関、横綱も狙える存在として注目されていた。

 本場所よりも早く、ここで訪れた貴乃花と朝青龍の初対決。とはいえ、この日はあくまで花相撲。本場所とは違う。会場のお客さんはそう考えていたはずだ。さしもの貴乃花でさえ多少はそう思っていただろう。そして……モンゴルの狼だけが、そんなことはお構いなしに猛々しく飢えていた。

 軍配が返った瞬間、貴乃花はどう来るんだ?といった感じで様子を見ながら立った。状況を考えれば当然の動きだろう。ところが、朝青龍は火の玉のような勢いで突っ込んでいった。貴乃花が面食らうひまもなく、腕を肩から引っこ抜いてそのまま投げつけるような激しい突っ張りを右、左、右。大横綱の顔面へとぶち込んでいく。

 擾乱を目論むテロリストの蛮行か、それとも時代を変えんとする勇者の挑戦か。一気に沸き返る館内。支度部屋では見守る力士たちまで騒然となっていた。特に怒りにも似た声を挙げていたのは貴乃花の付け人たちだったという。

 沈思黙考――。深い思索の海の中で相撲道を追求した貴乃花は、付け人に気安く声をかけたり、また付け人にとっても声をかけられるような存在ではなかった。そんな大横綱の身の回りの世話をする彼らは、いつも貴乃花の心の水面にどんな小さな揺らぎも起こさぬように細心の注意を払って動いていた。

 猛暑の名古屋場所でも貴乃花が冷房の風は体に悪いと思えば車内の冷房は消して汗だくで場所入りし、巡業でも時には炊飯器を持参して冷えた弁当ではなく炊きたての温かいごはんを用意したのだ。

 それなのに、そんなことはまるで気にも留めず、水遊びする小学生みたいにバシャバシャと水面に波を立たせる礼儀知らずがいたのだ。苛立つのも当然だろう。

 もちろん土俵上にいる朝青龍にとっては知ったことではない。なおも攻め続ける。のけぞる貴乃花の口に赤い血が、滲んだ。

「頭に円形脱毛症みたいなところがあった」

「これどうやって返すねん?わかんねえよ」

 丸刈りのモンゴル人は流暢な言葉で話しかけてきた。日本語うまいなぁ。現在、千葉県柏市で少年相撲クラブ『柏力会』の監督を務める永井明慶は、最初にそう思ったことをよく覚えている。

 1998年のインターハイ相撲競技の開会式。入場行進の先頭には前年度優勝校の明徳義塾と準優勝の埼玉栄が並んでいた。ところがこの年、明徳義塾は県大会で敗れ、全国切符を逃した。そのため、個人戦で出場資格を得て初めて大会にやって来たドルゴルスレン・ダグワドルジ、のちの朝青龍に優勝旗返還のお鉢が回ってきたのだ。勝手が分からないのも無理はない。

 いまでこそモンゴル人留学生の存在は珍しくなくなったが、当時はまだ大相撲の世界で旭鷲山や旭天鵬が活躍し始めた時代で、ハワイからモンゴルへとトレンドが移っていこうかという過渡期だった。

「それまで高校相撲で外国人といっても日本在住の外国人以外は出ていなかったと思います。そんな中でついに明徳義塾が留学生を起用し始めたかと話題になっていたんです」

 永井はモンゴル人が入ったという話は聞いていたが、実際に見るのはこの時が初めてだった。開会式でのやり取りもあって、会場では朝青龍とゆっくり話をする時間もあったという。

「頭に円形脱毛症みたいになってるところがあったので、どうしたの? って聞いたんです。そしたら、草原で同級生とボコボコに殴り合っていた時に鷹だか鷲にドン!と突かれて生えてこなくなったと(笑)。ケンカはもうやめろというお告げだと思ったと言ってました」

「モンゴル、やばいぞ」「まるでスパイダーマン」

 武勇伝のつもりなのか、スピリチュアルな話なのか。いま聞いても意図を汲みづらいエピソードだが、ともかくモンゴル時代から草原でどつきあいをするようなヤンチャ坊主だったことはわかる。神がかった髪の話ばかりではなく、相撲の話もたくさんした。永井が驚かされたのは朝青龍がとてもクレバーで研究熱心なことだった。

「あの高校には誰がいて、あいつはこうやってまわしを取ると強いんだとか、隠すこともせずに何でも喋ってきました。本当に相手をよく見ているし、頭がいいなと思いましたね」

 ウォーミングアップを行う練習土俵では誰彼なしに話しかけ、その選手の対戦相手を聞いては「あいつはこうやって差してくるから、お前はこっちからいけ」と勝手に攻略法を教えて回っていた。一体、言われた方はどう思っていたのだろう。

 しばらく経った別の大会でのことだが、永井はこんなふうに朝青龍に送り出されたこともある。

「俺、明日誕生日だから、お前頑張れよ」

「……意味わからん」

 一方で自分に役立つ情報も「どうすればいいんだよ?」とあちこち尋ね回って集めていた。

「勝つためには誰にでもアドバイスを聞きに行く感じで、すごく貪欲でしたね」

 ということで、取組以外ですでに十分に目立っていたモンゴル人は、土俵の中でもやはり光るものを見せた。立ち合いこそ不慣れな部分があったが、這うように腰をかがめ、その低い姿勢から相手を仕留めてどんどん勝ち上がっていった。

「まるでスパイダーマンみたいでした。立ち合いはまだそんなに上手くなかったんだけど、日本人の腰の高さよりも低い位置で構えてるから、みんな当たれないし、押せない。それがすごく印象的でしたね」

「モンゴル、やばいぞ」という好奇と警戒の視線を浴びながらもどんどん勝ち上がっていく。準決勝で熊本・文徳高の内田水(のちの幕内・普天王)に敗れたものの、初出場で堂々の3位に輝いた。

「うーん、やっぱりみんな驚いていたかな。強いといっても、体重は90kgあるかないかぐらいで、決して体格に恵まれていたわけじゃなかったので」

「負けると壁を叩いたり、モンゴル語で吠えたり…」

 全国の強豪選手が驚く一方で、同じ高知県代表として個人戦に出ていた宿毛高の池浦亮は、その活躍を当然の思いで見つめていた。すでに県内の合同練習で何度も稽古相手となり、県大会では準決勝で上手投げで負かされた。その強さと潜在能力の高さをよくわかっていたからだった。

「日本語がまだそんなに喋れない時も『今の技はどうやったんだ』とかどんどん質問してきました。こっちも身振り手振りで教えてね。稽古が終わった後も腕立て伏せを300回ぐらいやったり、素直で負けん気が強かった。月日を重ねるごとに身体もみるみる大きくなり、一気に大会でも上位に入ってくるようになりました」

 現在、母校の宿毛高で教員となっている池浦は、懐かしそうに当時の記憶を辿った。

「試合でこっちが勝つと、もう飛びかかってきそうな雰囲気でした。その後に合同稽古なんかすると、もう一丁!もう一丁!って大変(笑)。稽古でも負けると壁を叩いたり、モンゴル語で吠えたり、悪いところもあったけど、そのぐらい勝つ、強くなるってことを徹底していましたね」

 池浦は高校卒業後に日体大へと進んだ。のちにプロに進むようなトップ選手たちと手を合わせる中で、一番成功するだろうと感じたのは朝青龍だったという。

「偉そうな言い方になりますけど、自分は横綱までいくんだろうなと予想していたんです。他の人にはない相撲のセンス、体のバネ、何よりも成り上がってやるっていうストイックさを高校の時からすごく感じていましたから」

「1回触ってみたかったんだ」5針縫った貴乃花

 池浦の見立て通りに、角界入りした朝青龍は出世街道をばく進していくことになる。ただし、冒頭の大阪城ホールで貴乃花と向き合っている時点の朝青龍はまだ横綱ではなく、そのポテンシャルを秘めた1人の若手力士だった。

 勢いに任せて突っ張りを連発する朝青龍のまわしに、貴乃花はじりじりと左手を忍び寄せていた。上手をぐいっと引くと、右もねじ込んで、ついに小うるさい相手を組み止めた。あとで口の中を5針縫うほど顔面を張られた大横綱の心中がどのようなものであったかは分からない。分からないが、あくまで平然の顔を保ちながら、狼藉を働いた無法者を寄り切って綱の貫禄を示したのだった。

 会場でこの一番を目撃した長山聡はあっけにとられていた。長く相撲雑誌の編集に携わってきて、こんな花相撲の取組は見たことがなかったからだ。

「貴乃花がちょっと様子を見ていたところに朝青龍がガンガン突っ張っていって、あれは本当にすごい取組だった。自分が見てきた花相撲の中では一番だったし、本場所を含めてもあの年のベストの取組だったと思う」

 この取組の半年前、冬巡業の稽古で初めて貴乃花の胸を借りた朝青龍が無邪気に喜んでいるのを長山は聞いていた。

《横綱と相撲が取れて嬉しかった。モンゴルにいる頃から横綱は有名で一番かっこいいと思っていた。1回触ってみたかったんだ。体がすごいよ、バッファローみたい》(『大相撲』2001年1月号)

 巡業では積極的に土俵に上がって稽古でのムードメーカー的存在になっていると感じていた。確かに張り手にダメ押しといつも少々荒っぽかったが、まさかこの舞台でこんな相撲をするとは長山も想像がつかなかった。そして、それを受け切った貴乃花もまたさすがで、記憶に残る取組になったのだった。

「チクショウ!」「ケガしてる足を蹴ればよかった」

 1カ月後の夏場所、本場所での初顔合わせでは、今度は貴乃花がお返しとばかりにものすごい集中力で臨んできた。虎の尾を踏んで墓穴を掘る形になった朝青龍は「ずっと顔をにらまれ、視線を外してしまった。気合が足りなかった」と珍しく気持ちで圧倒された。

 2度目の対戦は02年秋場所、今度も突き放そうとする朝青龍とその猛攻に耐える貴乃花という構図で大熱戦を展開するも、上手投げで土俵にたたきつけられて黒星。花道を引き上げる際に「チクショウ!」と大きな声で叫ぶ姿が中継で流れ、インタビューで「ケガしてる足を蹴ればよかった」と吐き捨てて大きく評判を下げた。

 その後、2003年の1月に貴乃花は引退。結局この取組が両者の最後の対戦となり、朝青龍はついに貴乃花超えを果たすことはできなかった。

 もし、もう少し時代が重なり合い、直接、その壁を乗り越えることができていたなら――昇進云々は別にして横綱としての世間の信任はもっと早く受けられていたかもしれない。ポスト若貴時代にひとり投げ出されることなく、その後の品格問題での逆風も(ほんのちょっとは)弱まっていたかもしれない。

 何よりも貴乃花のような存在に挑んでいたときの方が、朝青龍は朝青龍でいられたはずなのだ。貴乃花に続いて武蔵丸も土俵を去り、ここから朝青龍は長く一人横綱としてもがき続けることになる。

<#2、#3へ続く>

文=雨宮圭吾

photograph by BUNGEISHUNJU