偏差値77を誇る日本で最難関の東京大学理科三類(医学部)。毎年の合格者わずか100人という天才集団である。
素朴な疑問だが、そんな東大医学部と体育会系部活は両立できるのだろうか? 東大野球部で調べてみると直近20年間で4人だけ、両立を成功させた文武両道の天才がいることが分かった。そんな“超レアなスゴい人”に話を聞く。【全2回の1回目/#2へ】
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「20年間で4人しかいない」
文武両道と言われる東大野球部メンバーの中でも、東大理科三類の超難関試験を突破した医学部生の頭脳は格別だ。なにしろ東大理三は日本一の偏差値77(ベネッセ調べ)を誇り、毎年の合格者数は100人ほどという狭き門。しかし、受験をクリアしても医学部は気が抜けず、特に医師になる医学科は試験や実習が続き、他学部に比べてもきわめてハードだ。直近20年を見ても、医学部医学科で東大野球部を卒部した強者は4人しかいない(医学部健康総合科学科は6人)。
彼らは、東大野球部と医学部(医学科)をどのように両立させたのだろうか。
まず紹介するのは、現役時代は投手として活躍した安原崇哲(2011年卒部・灘)。東大が理科三類の募集を始めた1962年以来、灘高校はきわめて多くの合格者を出しており、累計で800人を超える。これは2位の開成高校の2倍という断トツの数字だ。灘中高から現役で東大理科三類合格という、安原が歩いたコースは、日本の受験競争における最高峰と言えるだろう。
だが、小学生時代の安原少年は、自分がかくも優秀な頭脳を持っていることをまだ知らない。彼の興味の対象は、ひたすら野球だった。小学校低学年時代は、軟式野球チームのエースで四番。市大会で優勝すると硬式に興味を持ち、小学5年生のときには、超名門として知られる宝塚リトルリーグの野手として全国大会へ出場している。
「小さい頃は野球一筋の生活を送っていましたから、小学校卒業後は野球部が強い中学に入りたいと思い、関西学院を狙っていたんです。関学に入るには中学受験が必要と知り、受験勉強を始めたのですが、やっていくうちに、いつの間にか灘に入れそうだぞということになって、灘を受験することにしたんです」
「とくに東大にこだわっていたわけではない」
灘は中高一貫校であり、安原は6年間を通してエースピッチャーと四番打者として活躍し、高校時代はキャプテンを務めるなど中心的な選手だった。
「高2の秋大会で1勝したくらいで、全然勝てなかったですね。進学校なので、部員それぞれに温度差があり、同期十数名のうち5人が受験のために2年生で部活をやめました。残されたほうはきついけど、最後の夏は4人の3年生でなんとかやりました。1回戦、9対1で8回コールド負けでしたが」
最後の夏は、エース安原の先発で始まり、灘は7回裏の攻撃まで2点を追う展開。だが8回表に大量7点を奪われて試合を壊してしまった。高いレベルで野球をするために中学受験に取り組んだのが出発点の安原にとって、これでは不完全燃焼のように思える。だが、安原はサバサバした表情でこう言った。
「いえ、灘でできることはやりきったという感覚はあり、高校野球の悔しさを原動力として東大を目指したわけではないんです。私は高校1、2年の頃から、がんに関する研究者になりたくて、医学部を目指していましたが、とくに東大にこだわっていたわけではありません。受験勉強をするうちに、東大医学部に合格できそうだったので、最終的に東大に決めたという形です。とはいえ、六大学野球は知っていたので、東大に入ることが叶うなら、野球はやりたいと思っていました」
筆者がこれまでに話を聞いた東大野球部OBの多くは、凄まじい熱量で「野球をやるために東大を目指した」と口にしていた。その点、「東大を目指した理由は、研究が6割、野球が4割」と語る安原は、他の野球部員とはモチベーションの方向性が違う。ただ、安原の場合、東大に求めているものが研究と野球しかなかったというから驚く。医学部と野球部を両立できた秘訣は、おそらくここにあるのだろう。
「本郷で朝3時間練習して、午後は駒場で授業」
「私は研究と野球以外に興味がなく、ゆるくサークルをするという学生生活はイメージできなかった。せっかく六大学野球という舞台があるのだから、ちゃんと野球をやりたい。そう思って、春のリーグ戦が始まっている頃、東大グランドに行って先輩部員に入部したいと伝えました。東京に引っ越してきて、まだ段ボールも片付いていない頃です。ちょうどテレビで、同級生だった早稲田の斎藤佑樹(元日本ハム)がリーグ戦で投げているのを見ていました。彼とは実力は全然違いますが、同じピッチャーということで刺激になったし、遠い目標にはなりましたね」
当時、理三の学生が野球部に入るのは20年ぶり。メディアに注目されて話題になったが、安原本人は「そういう報道を見て初めてレアケースなんだと知りました」と、まったく自覚はなかったようだ。
「医学部と野球部の両立は難しいとよく言われますが、2年秋までは他の学部生と授業内容は変わらないので、周りと同じように部活はできます。朝に本郷で3時間くらい全体練習をして、午後は駒場に向かうような。この行ったり来たりが面倒くさくて授業に行きたくなくなる人はいたし、気持ちもわかりますが、私はちゃんと授業に行っていました。また、理三以外だと希望学部に進むために、進振りまである程度勉強しないといけませんが、理三はそこまで成績を気にせずとも医学部に進級できる。なので、理三の人は2年生まではあまり勉強しない人もいて、その点は他の学部生より楽かもしれません」
「午前中にテスト、そのまま神宮球場で六大学リーグ戦」
東大の入試は、世間一般の大学のような学部ごとではなく、文科一類・文科二類・文科三類・理科一類・理科二類・理科三類という類ごとの募集となる。そして、2年途中までの成績によって、3年生からの進学先(学部)が決まる(進学振り分け・通称進振り)のだが、理科三類(理三)の学生は、よほど成績に難がなければ医学部に進学できる。ゆえに理三=医学部なのである。
「医学部に進んだ3年生のときも、そこまで苦労していません。基礎医学系の勉強が中心で、しばらく授業を受けた後に実習があり、試験があるというサイクル。試験と実習がちゃんとできればよいので、なんとかなっていました。大変になるのは、4年生からです。臨床医学系の講義が多くなり、ほぼ毎週のようにテストが実施され、部活の練習時間はかなり短くなっていました。たまに土曜日に試験が入ってくることもあり、午前中にテストを終えて、そのまま神宮球場に向かってリーグ戦に臨むというスケジュールもありましたね」
野球部OBの中には、野球にのめり込んでほとんど授業に行かなかったと振り返る諸兄もいる一方で、勉強ばかりで練習の時間が削られっぱなしの安原は対照的だ。しかし、安原の意識としては、野球部と医学部を要領よく両立できていたようだ。
「“筋トレ”よりも“とにかく投げること”」
「野手とは違い、ピッチャーはそこまで全体練習の重要性が高くありません。キャッチャーをひとり見つけたり、時にはピッチャー同士で投げ合ったりして隙間時間で練習はできるんです。私は授業終わりの夜に投球練習をしていました。全体練習に出ないからと咎められることもありませんでしたし、とにかくピッチャーは試合で投げられたらOKという方針で、過程を問われなかったのも大きかったです」
時間がない安原の練習のモットーは、とにかく投げること。優秀なピッチャーの投球映像を分析してよりよい投げ方を研究し、自分の投球動作の動画と見比べながら、いかに理想の投球フォームに近づけるかを意識して練習していたという。
「筋トレをやるよりも、体の使い方を研究し、その結果を自分の体で実践するということをやっていました。東京六大学野球は試合の映像が豊富にあるし、すばらしいピッチャーがたくさんいるのでサンプルはじゅうぶん。勉強のしがいはありました。しかし、頭では理屈がわかっているのに、体が思うように動かない。そこが歯痒かったです。やはり、中高と野球を続けるなかで投げ方の癖がフィックスしてしまって、それに合わせた筋肉のつき方をしているので、大幅に動作を変えるのはかなり難しいのだろうという印象です」
「もう野球部をやめようかな…」
そうはいうものの、安原は1年秋という早い時期にリーグ戦デビュー。相手は、2006年秋、2007年春のリーグ戦を制して三連覇に向けて意気上がる早稲田。1回を投げて被安打1、四死球1、自責点1という内容だったが、このシーズンの三冠王に輝く四番打者・田中幸長を三振に切ってとるなど、1年生としては堂々の投げっぷりであった。
「調子がよいときでも、ストレートは130キロくらい。速球というのもおこがましいほどの遅球でした。緩急をつけようにももともと緩いのですけど、ストレートよりもさらに遅いカーブとの緩急で、必死に投げていましたね。もうカーブなんて遅すぎて打てないんですよ」
その後も2年秋の法政戦に先発するなど、安原は4年間で21試合に登板している。だが、その間、マウンドでの安原の一番の敵は、イップスだったという。
「色々と自分の投球動作を改良しようと試行錯誤しているときに、暴投をしたことがあったんです。それが1年生の夏。そこから、投げる動作がわからなくなるというか、完全に霧の中に入ってしまった。自分の体が自分ではないような、『あれ? 自分はどうやってボールを投げてたっけ?』という感覚。『暴投しちゃうかも』という不安が頭の中にはっきりあるわけではないですが、深層心理にはあるんでしょうね。そこに体が反応してしまう。2年秋の法政戦では、そんな状態で先発に起用され、地に足がつかず、投げている感触が終始なかったです」
その重い口ぶりが示すように、2年秋のシーズンは、安原にとって限界だった。
「あの頃は本当にとんでもなくダメな状態。これから医学部の勉強も大変になるし、もう野球部をやめようかなとも考えました。そのときは『やめるのはいつでもできるし、医学部が大変ならそのときやめればいい』という両親の言葉で踏ん張ることができましたが、メンタル的にはどん底を味わいましたね。ただ、そのような落ち込みを乗り越えて、野球を4年間続けたのは、今は非常に自信になっています」
「基礎研究の逆境も東大野球部と似ています(笑)」
現在、安原は東京大学大学院医学系研究科疾患生命工学センター放射線分子医学部門にて、がん細胞の研究に従事している。今になると研究と野球との類似点に気づくという。
「研究は観察から始まって、その違いを見極め、なぜそうなっているのかを解明していくこと。私は、正常細胞とがん細胞の違いを観察して、比較するという研究をしていますが、野球も上手な人と自分の動作を比較し、その差を埋めていく作業がメインです。なので、野球部の4年間も自分は研究をしていたんだなと実感しています。私が取り組んでいるのは、いわゆる基礎研究というもので、予算が潤沢でもなく派手な分野でもないのですが、そういう逆境も東大野球部と似ていますしね(笑)。逆境でも自分が大事だと思ったことをやり遂げる重要性は、東大野球部でも学んでいるので、今後もがん診療や治療につながる研究をしていきたいです」
「理二から医学部へ進むのは相当難しい」
そして、安原は「野球への強い思いがあれば、医学部との両立を諦める必要はありません。しんどいことは間違いないので誰にでもおすすめはしませんが、私が得られたものは大きかった」と、後輩へエールを送る。日本のがん研究の未来を担う人物の根底には、東大野球部で培った経験があるのだ。
飄々と自身の経験を語る安原に「彼は相当大変だったと思う」と言わしめる医学部の後輩がいる。
「医学部と両立はすごいと言われますが、僕はピッチャーだからできた。自分で選んだ道でしたし、野球も研究もちゃんとやりたかったので、苦ではありませんでした。しかし、僕の後輩に、医学部の野手がいます。彼は相当に大変だったんじゃないかなと思いますよ」
安原がこう話す後輩は、紺野大地(2014年卒部・米沢興譲館)。紺野は理三ではなく、理科二類から医学部へ進んだ。詳細は後編記事《“偏差値77の最難関”東大医学部と東大野球部を両立させたスゴい人生…20年間で4人しかいない天才が明かす“挫折”「オレ野球部やめるよ…」》で述べるが、安原によれば「理二から医学部へ進むのは相当、難しい」のだ。後編では、そんな紺野の東大野球部時代のエピソードを紐解いていこう。
<続く>
文=沼澤典史
photograph by KYODO