北京五輪からまもなく1年が経とうとしているが、カミラ・ワリエワのドーピング問題はいまだ解決していない。団体の順位は暫定のまま、メダル授与が行われないという異常な状態が続いている。
事の起こりは五輪の前年2021年12月25日、ワリエワが優勝したロシア選手権。のちに問題となる検体はこのときすでに採取されていたのだが、折からの新型コロナ 感染拡大によりストックホルムの検査所からの結果報告が遅れ、禁止薬物「トリメタジジン」の陽性反応が発覚したのはフィギュアスケート団体でROC(ロシア・オリンピック委員会)が金メダルを獲得した後のことだった。
ワリエワ側は心臓の治療薬を服用する祖父と同じグラスを誤って使ってしまったためと説明し、当時16歳未満と「要保護者」に該当することを理由に個人の出場は認められたが、フリーでは重圧からジャンプをことごとく失敗し4位という結果に終わった。泣き崩れるワリエワの姿は今なお記憶に新しい。
その後、選手や関係者への調査が行われたが、昨年10月21日、ロシア反ドーピング機関(RUSADA)はワリエワが未成年であることを考慮して調査結果の公表はしないとの声明を出した。
これを不服として動いたのが世界反ドーピング機関(WADA)で、11月14日にはカミラ・ワリエワの4年間の資格停止処分と北京五輪団体金メダルの剥奪などを求めてスポーツ仲裁裁判所(CAS)に提訴したのだった。
こうした一連の流れはロシア国内でも大きなニュースとなった。
もしWADAの要求通り資格停止期間が4年となれば、現在16歳のワリエワにとって選手生命を絶たれることにほぼ等しい。ドーピングは撲滅されるべきものだが、処分があまりに重すぎるのではないかという声が多い。
熱狂的ファンとアンチ…分かれるロシアでの評価
一方で、これはワリエワだけでなくロシア全体の問題だという意見もある。エフゲニー・プルシェンコの妻で敏腕プロデューサーとして知られるヤナ・ルドコフスカヤはインタビューでこう語っている。
「私たちはカミラの無実を信じていますが、今のままではいけません。彼女自身だけでなく、北京五輪でロシアの栄誉を守ったチーム全体の命運も、この問題の結果にかかっているのです。
人々は何が起こっているのかわからない状況下では何かが隠されているのではないかという感情を抱くものです。外国のフィギュアスケート関係者たちとも話しましたが、彼らは、それが何であれ、真実を知りたいと言います。カミラが本当に無実なら、無罪とされるべきですし、実際に証拠があるなら公表すべきです。
もし隠蔽し続けるなら、ロシアの選手たちや連盟が非難を受けるおそれもあります。この問題が影響し、他の選手たちが国際大会から除外される別の理由となってしまうことを危惧しています。少年少女たちが苦しみ、将来を夢見ることすら奪われるようなことがあってほしくないのです」
ワリエワに対する評価はロシア国内でも大きく分かれている。
五輪騒動以降、悲劇のヒロインとしてのイメージが定着した彼女は、大会では熱い応援メッセージが描かれた横断幕がいくつも掲げられ、演技後には無数のぬいぐるみや花束が投げ入れられる。インスタグラムのフォロワー数は120万を誇り、世界中から応援コメントが届いている。ちなみにフォロワー数はメドベデワ130万、ザギトワ110万、トゥルソワ100万、シェルバコワ81万だ。
一方で、ドーピング問題に関する批判を集め対立を煽るような記事も多く、いわゆるアンチによる誹謗中傷も少なくない。
そんな中にあって大きな物議を醸したのは今シーズンのフリープログラム「映画『トゥルーマン・ショー』より」である。
演技の最後に黒い布で顔を覆い隠すのだが、これは五輪の公式練習時に記者からの質問を避けるためフードをかぶり取材ゾーンを無言で通り抜けた場面を想起させるものだ。
初披露となった9月のテストスケートでは、観衆の声援を受けながら最後まで滑り切ったものの、当時の感情が蘇ったのだろう、演技後は沈痛な表情を浮かべ、涙ぐむ素振りも見せた。
これを捉えて、「五輪のあの騒動を思い出させるひどいプログラム」、「カミラは練習や大会のたびに精神的ダメージを受けるのでは」、「スキャンダラスなプログラムで注目を集めようという意図が感じられる」など、ワリエワのみならずコーチのエテリ・トゥトベリーゼと振付師のダニイル・グレイヘンガウスへの批判の声が上がった。
黒い布で覆った顔を…新フリーに込めた思い
ドーピング問題の渦中にあり、無難なプログラムを選ぶこともできただろう。しかし、そうはせず、今シーズンの彼女だからこそできるプログラムをあえて選んだ。五輪の騒動の最中、打ちのめされ、ぼろぼろになった自分の姿をプログラムに込め昇華させる方法を選んだ。
見落としていけないのは、演技が顔を覆い隠して終わるのではなく、そこから布をはぎ取って顔を見せ、まっすぐ前を見据える点である。これは現実を受け入れ、逃げ隠れせず戦うという強いメッセージでもある。
実際、国内グランプリシリーズでは10月の第1戦モスクワ大会、11月の第3戦カザン大会と勝利し、大会を追うごとに、布をはぎ取る際の目に力が感じられるようになり、悲壮感のようなものがなくなっていく様子が見て取れる(映像があればぜひ確認してほしい)。
迎えた12月23、24日のロシア選手権は、まさに1年前、ドーピング問題が起こった大会である。ジャンプの失敗でショートプログラム4位と出遅れたのが響き、フリーは4回転トウループを2度成功させほぼノーミスながら逆転はならず銀メダルに終わった。しかし、それでも表情はすっきりとしたものだった。
「フードはもういらないと考えました」
そして、ここでの一番の変化は、演技の最後に布で顔を覆うこと自体をやめたことだ。記者会見でそのことを訊ねられたワリエワはこう答えた。
「フードはもういらないと考えました。1年前のように顔を隠す必要はありません。これはおそらく良い変化です」
エキシビションではNetflixの人気ドラマシリーズ「ウェンズデー」をモチーフにしたナンバーを披露し、そのキレッキレのダンスがまた話題となった。と同時に、ドーピング問題にからめて批判する声もまた湧き上がるのだった。
とくに表現力など、現時点で世界最高レベルの才能を持つ選手の一人であるだけに、それを素直に喜べない今の状況は残念でならない。彼女の中の前向きな心情の変化は喜ぶべきだが、問題が終わったわけでは全くないのだ。
1月13日、RUSADAはワリエワ本人に過失はないとの判断を下した。検体を採取した2021年のロシア選手権は失格とし、資格停止の処分は科さないとのことだが、これで手打ちとはまずならないだろう。やはり調査内容の公表と相応の処罰、一刻も早い解決が待たれる。
そうでなければ今後、彼女がどんなにすばらしい演技を披露しようとも、賛辞と同時に非難も浴びることになってしまう。今季フリーでの使用曲「トゥルーマン・ショー」のエンディングのように舞台から退場でもしない限り、ドーピングの文字は一生彼女につきまとっていくかもしれない。
重荷を背負いながら、彼女はどこまで跳ぶことができるだろうか。
文=栗田智
photograph by Sputnik/KYODO