「Sports Graphic Number」と「NumberWeb」に掲載された記事のなかから、トップアスリートや指導者たちの「名言」や写真を紹介します。今回は羽生善治九段(棋士の段位などは初出以降省略)にまつわる4つの言葉です。
<名言1>
もう勝ちだ、早く投了しろよという気持ちで頭がこんがらがって、集中を欠いていたとしか考えられません……。
(森下卓/Number1010号 2020年9月3日発売)
◇解説◇
藤井聡太王将(竜王、王位、叡王、棋聖と五冠)に羽生善治九段が挑む第72期王将戦第3局が28日、石川県金沢市で始まった。第1局は藤井、第2局で羽生がそれぞれ大熱戦を制して1勝1敗のタイ。いずれが一歩リードするか注目が集まる本局で藤井は鮮やかなライトブルー、羽生は重厚な色合いの和服をまとい、“雪の金沢の陣”に臨んでいる。
前日検分後の取材に対して羽生は「連敗スタートにならなくてよかったなというところもありますし、2局目と3局目の間は結構間隔が短かったので、すぐに次の対局は来たなというような感じも持っています」と語っている。数々のタイトル戦を経験してきたからこそ、1つ1つの言葉に重みを感じさせる。
さかのぼること27年前、将棋界の枠を超えて世間は――現代の藤井と同じく――1人の若き天才棋士の戦いに大きく注目していた。24歳から25歳にかけての羽生善治がひた走った「七冠制覇」ロードである。
19歳2カ月での初タイトルとなった竜王獲得を口火に、羽生は当時の七大タイトルを着々と制覇していく。94年度に六冠王となった羽生は翌95年の王将戦で谷川浩司(現十七世名人)に挑んだものの、フルセットの末に敗れた。
新年度からは六冠をすべて防衛した上で世間の「七冠獲得」への期待に応えなければいけないという立場になったのだが……羽生は強さを見せつけた。
さっそく真骨頂の“羽生マジック”を見せたのが95年4月の名人戦第1局だった。挑戦者の森下卓(現九段)が優勢で進める中、羽生は22時近くになっても、投了することはなかった。それに対して森下は“まだ投げないのか”と心がざわつき、盤面への集中力を一瞬失った状態となる。そこで生まれた、たった1つの悪手。そこから羽生が反転攻勢を仕掛け、あれよあれよの大逆転劇が生まれたのだった。
“将棋を始めるきっかけの羽生さん”とタイトル戦で
<名言2>
羽生先生とタイトル戦の五番勝負を戦うのが、不思議な感覚でした。
(斎藤慎太郎/Number1018号 2021年1月7日発売)
◇解説◇
世間的には藤井の目覚ましい躍進が強烈なインパクトを与えているが――20代後半から30代前半のトップ棋士たちも将棋ファンの胸を熱くする戦いを繰り広げている。その代表格が斎藤慎太郎八段だ。
「さいたろう」というチャーミングなニックネームで知られる斎藤。確かな棋力を持つ関西の雄は、前期、前々期の順位戦A級でトップの成績を残し、2季連続で名人戦の挑戦者となった実績の持ち主でもある。
その斎藤が初めてタイトル戦に挑んだのは2017年の棋聖戦のこと。この時にタイトル保持者として君臨していたのが羽生善治だった。93年生まれの斎藤にとって、羽生という存在は「将棋を始めるきっかけとなった入門書の著者」でもあった。
小学1年生の頃、通っていた公文式(かつて羽生がCM出演していた時代もある)の教室の休憩中、「100冊以上あった中で」たまたま手に取った本が羽生が記した書籍だったのだという。そこから父親相手の対局を皮切りに、道場、棋士養成機関である奨励会……というルートを幼少期の斎藤も走っていった。しかし将棋を始めるきっかけとなった羽生と17年後、タイトルを懸けて自身が戦うとは斎藤少年は考えてもみなかっただろう。ただ2021年初頭には……
「子供の頃に見ていたトップ棋士と対局できるのがいいですよね。53歳年上の加藤一二三先生とも対戦したことがありますし、奨励会に入る前には大会で80代のおじいさんに負けたこともあります。ただ悔しかったけど、いま思うとすごいことでした」
このように語っていた。世代を超えて相まみえられる競技性について「将棋という競技の良さですね」とも。斎藤と羽生は23歳差である。そこにはやはり、羽生がトップランナーとして走り続けてきたから、という側面もあるのだ。
初の永世竜王をめぐる一局で渡辺は羽生に…
<名言3>
ここでひっくり返すのが羽生善治だろうという考えが浮かんでくる。だって羽生さんはそれまで、散々そういうことをやってきた人ですから。
(渡辺明/Number1044号 2022年1月20日発売)
◇解説◇
2008年に開催された第21期竜王戦は、今でも語り継がれる伝説の“フルマッチ”シリーズとなった。
渡辺は前期まで竜王位を4期連続で保持し、この年に防衛すると史上初の「永世竜王」の資格を手に入れるチャンスを手にした。しかしそこに挑戦者として登場したのが、羽生善治である。羽生もその時点で通算6期にわたって竜王位を手にしており、こちらも勝てば永世竜王、さらには「永世七冠」の称号を懸けた対局となった。
将棋界におけるビッグマッチは、当初あっけなく決着がつくと見られた。第1局から第3局まで羽生が3連勝を飾り、さらに当時の渡辺は、羽生に番勝負で勝利した経験がなかったからだ。しかし渡辺は第4局の逆転勝利を契機に白星を積み重ね、3勝3敗。決戦は将棋駒の産地で知られる山形県天童市へともつれ込んだ。
迎えた本局は一進一退の攻防が続き、2日目午後には記録係が秒読みを始めるほど。両者とも持ち時間を使い合って「1分将棋」となった終盤戦、羽生の指した107手目でわずかに形勢が「渡辺有利」に動いたのだという。
ただ現在のAI評価値についても言えることだが――あれだけの極限状態の中で、対局者自身がその状況に気づくのは相当に難しいとされる。ましてや盤を挟んで座るのは、数々の「羽生マジック」を起こしてきたその人である。渡辺から不安や恐怖感が消えないのは無理もない。
最終的に羽生が投了し、竜王を防衛した渡辺。彼の中でようやく投了図が見えたのは、128手目だった。
「それだけ藤井将棋への評価が高いというか…」
<名言4>
指している本人が「未知を切り拓くのを面白い」と感じているという点では、通じている部分なのかなとも感じています。
(中村太地/NumberWeb 2022年1月22日配信)
https://number.bunshun.jp/articles/-/851735
◇解説◇
第72期王将戦は藤井に対して羽生が挑戦者として臨む構図となり、将棋界の枠を超えた2大スターの初タイトル戦ということもあって大きな注目を集めている。第1局は藤井、第2局は羽生がそれぞれの棋力と魅力を存分に見せつけたが……前期の渡辺明−藤井聡の第1局も歴史的な激闘として、将棋ファンの記憶に強く刻まれている。
近年の将棋中継ではAIによる「評価値」がパーセンテージで表示される。中盤以降になると徐々に藤井の優勢が増していく「藤井曲線」という通称もファンの中で話題になった一方で、本局では最終盤を迎えても「50%−50%」の均衡を保ち続けた。さらに中村太地七段のNumberWebでの解説によると両者ともに「悪手の海」の中、わずかな時間で最善手を選び続けたという。
「とてつもなくハイレベルで衝撃を受けました」
「現代の最高峰の対局」
その言葉には、実感がこもっていた。
羽生相手に王座獲得を成し遂げた経験を持つ中村だが――本局の41手目「8六歩」など斬新な構想を見せるなど、進化を止めない藤井将棋の根底について、このように語っていた。
〈単純に考えて、大舞台になればなるほど「勝ちたい」という気持ちが強くなるのは、人間として自然の摂理ではないかと思います。しかしその中で藤井竜王は柔軟さを見せて指し回しました。そこには将棋への好奇心が見えました〉
中村は幼少期のあこがれだった羽生が座右の銘としている「運命は勇者に微笑む」の言葉と、藤井の指し手に共通項を見出していた。
その中村は王将戦を中継する「囲碁・将棋チャンネル」で第3局の1日目解説を務めており、対局開始直後に今シリーズの羽生について「この王将戦は自ら作戦を決めていくスタイルにしている印象を受けます。それだけ藤井王将の将棋への評価が高いというか、自分から動いていかないと、ということかもしれません」とも評していた。
自身初のA級昇級を目指して今期順位戦で戦う中村は、現在首位ながら今期B級1組最終局の相手に羽生が控えている。世代を超えた羽生−藤井の対局は、各世代のトップ棋士にも確実に刺激を与えているのだろう。
文=NumberWeb編集部
photograph by 日本将棋連盟/Tadashi Shirasawa