「私、寒気してきましたね。しっかりと仕事してますよ! リードからキャッチングからね、これがまたチームがひとつになるきっかけになりますよね」
懐かしい試合映像の中で解説席の山本浩二は、緊急捕手としてマスクを被った選手をそう絶賛した。
2009年9月4日、巨人対ヤクルト戦。3対3で迎えた延長11回裏、巨人の加藤健が頭部死球を受け負傷退場する。これで一塁側ベンチには捕手登録の選手がいなくなるが、原辰徳監督は12回表の守備からひとりのベテランにマスクを託す。プロ19年目の木村拓也である。捕手での出場は広島在籍時の99年7月6日横浜戦以来。すでに場内の時計は23時を過ぎていたが、一球ごとに東京ドームがざわつく異様な雰囲気の中、ピンチを招くも最後は空振り三振で無失点に切り抜けベンチに戻る背番号0。それを称えるナインの中に笑顔で、大仕事をした先輩とハイタッチをする細身の若手選手がいた。当時20歳の坂本勇人である。
83試合、5本塁打…“最低の成績”だった
あれから14年が経った。気が付けば、背番号6もあの頃のキムタクの年齢に近付いている。88年生まれの坂本は今年、35歳を迎える。20年には31歳10カ月のセ・リーグ史上最年少で通算2000安打達成。21年には1778試合の遊撃手通算最多出場記録を樹立した。挑戦者の若者は、数々の栄光を成し遂げ、追われる側のベテランと呼ばれる立場になった。しかし、昨季はその順風満帆なキャリアに暗雲が垂れこめる。左内腹斜筋筋損傷、右膝内側側副じん帯損傷、腰痛と三度離脱し、追い打ちをかけるように終盤には哀しみの文春砲スキャンダル……。83試合で打率.286、5本塁打、33打点というレギュラー定着後、最低の成績に終わったのだ。
過去の名遊撃手たちも30代中盤で三塁転向というケースは多く、メディアでは坂本の体への負担を考え、遊撃からのコンバート案も幾度となく報じられた。もちろん本人は可能な限りずっとショート一本でやりたい。一方で昔はミスと指摘されたエラーが、今は年齢的な衰えと判断されてしまう現実もある。
かつて、33歳の若さで現役引退した掛布雅之は、江川卓との共著『巨人‐阪神論』(角川新書)の中で、「松井(秀喜)君にしても清原(和博)君にしても、高校卒で1年目から1軍に出ている選手って、だいたい34歳、35歳ぐらいで大きな怪我をしている」と持論を展開している。
「(掛布自身)今考えてみて問題だったのは最初の4年間だよね。江川とは違って18歳でプロの世界に入った。それで運よく18歳から1軍登録されてね。この18歳から22歳まで、進学していれば大学の4年間に、大人の選手と一緒にやる野球が、とんでもない負担を自分の肉体にかけていたんだろうなというのは、辞めてから実感した」
坂本も18歳でプロ入り後、1年目の07年9月2日の横浜戦で「8番遊撃」として先発デビュー。翌08年の坂本は、巨人ではゴジラ松井以来となる10代の開幕スタメンを勝ち取ると、ペナント144試合、夏のオールスター2試合、秋のクライマックスシリーズ4試合、日本シリーズ7試合までの全ゲームに出場。しかも、19歳のスペシャルワンはそのほとんどを遊撃手としてプレーし続けた。思えば、坂本はレギュラー獲得後、ショートのポジションを誰かと争ったという経験はない。当たり前のように絶対的レギュラーとして試合に出続けた。その勤続疲労が、昨季は一気に表面化した形になった。
阿部も高橋も二岡も…“35歳の壁”は厳しい
第一線で活躍し続けたプロ野球選手が直面する、過酷な30代中盤のリアル。過去に坂本がともにプレーした巨人の生え抜きスター選手たちは、35歳のシーズンをいかに戦ったのだろうか。
例えば、阿部慎之助は35歳の14年シーズン、「打率.248、19本塁打」と前年の「打率.296、32本塁打」から大きく成績を落とし、翌15年に捕手から一塁へコンバートされている。すでに満身創痍の体は、捕手という重労働に年間を通して耐えるのは難しいと判断されたためだった。
高橋由伸は09年に腰痛でわずか1打席の出場に終わり、35歳の10年シーズンは前年秋に受けた腰の手術から復帰。116試合で「打率.268、13本塁打」という成績を残すも、走攻守に躍動していた全盛期の姿には程遠かった。やがて、背番号24はその勝負強さで、代打の切り札という新たな役割を担うことになる。
坂本の前の遊撃レギュラーの二岡智宏は、35歳の11年シーズンは日本ハムで、もうショートの守備に就くことはほとんどなかったが、指名打者や代打として55試合に出て「打率.282、3本塁打」とバックアッパー役を務めた。その二岡と巨人時代に華やかな二遊間を組んでいた仁志敏久は、35歳の06年シーズンは極度の打撃不振に陥り、64試合で「打率.185、1本塁打」と自己最低の結果に終わり、そのオフに横浜ベイスターズへ交換トレードで移籍した。現役の同僚では長野久義が、35歳になる19年から人的補償で広島へ。主軸として期待されるも、新天地では72試合で「打率.250、5本塁打」と、前年の「打率.290、13本塁打」からやはり大きく数字を落とした。
12年前、22歳の坂本が語っていたこと
こうして見ると、やはり“35歳の壁”は厳しいと言わざるを得ないが、実は彼らは皆“大学・社会人経由”での巨人入りだ。あらためて高卒でプロ入りしてから、補強も多く、選手の入れ替わりの激しい巨人で15年近くレギュラーを張っている坂本の特異なキャリアと、恐るべきタフさにも驚かされる。松井秀喜がキャリアの絶頂でヤンキースへ移籍したため、近年の巨人では高卒ドラ1野手が、10代から30代中盤までずっとレギュラーとして活躍するというケースはほぼ皆無である。我々は来季で球団創立90周年を迎える巨人の長い歴史でも、非常に特殊な選手のキャリアの分岐点に立ち会っているわけだ。
手元に12年前の2011年春発売のNumber776号がある。「黄金世代がプロ野球を面白くする」という若き日の88年組の特集号だ。その中のインタビューで当時22歳の坂本は、こんな言葉を残している。
「ファン、ベンチがここで打って欲しい、ここで決めて欲しいというときに、どんなヒットでも、どんなホームランでもいいからそこで打てる。みんなが期待した瞬間に応えられるバッターが僕は好きです。それを求めてやっていきたい」
追い求めた理想はやがて現実になり、当たり前の風景として定着した。今の坂本のライバルは、同世代の盟友でも、そのポジションを奪おうとする若手選手でもない。「過去の自分」である。すべてのプロ野球選手は30代中盤で、全盛期の自分のイメージと戦うハメになるのだ。
◆◆◆
ベンチの原監督は坂本のデビューから、誰よりも近くでそのキャリアを見届けてきた。いわばショート坂本のチームを構築した指揮官が、攻守で昔の背番号6には遠く及ばない、もうあの状態には戻らないと判断したとき、坂本のコンバートは例えシーズン中でも現実味を帯びるだろう。
迎えたプロ17年目。8年間務めた主将の座も譲り、WBCの日本代表も辞退した。いわば、築き上げた「ショート坂本」を死守するための崖っぷちの1年だ。
超えていけ、過去も、自分も――。今年35歳の坂本勇人が、あの頃の坂本勇人に挑戦する正念場のシーズンが始まろうとしている。
文=中溝康隆
photograph by JIJI PRESS