大谷翔平が初めて日本代表として国際大会に出場したのは、18歳以下の世界選手権だった。藤浪晋太郎や森友哉ら豪華メンバーと共に優勝を目指したが、結果は6位。しかし高校3年生だった大谷が見せたプレーや振る舞いは当時の代表監督、チームメイトたちの記憶に色濃く残っていた。貴重な証言から才能の片鱗を振り返る。
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「俺は寝てるからいいよ」
2012年の高校日本代表合宿で大谷翔平と同部屋だった佐藤拓也は、大谷のこんな言葉をよく覚えている。
「合宿の夜、野手のみんなで素振りをしようという話になって、僕が大谷を誘ったんですが、『俺はいいよ』と。普通、代表で知らない選手たちと集まったら、話をしながら素振りしたくなるものですけど、そのときに『大谷は自分のペースを持ってるんだな』と思いましたね」
一方、外野手の笹川晃平は、大谷が合宿で見せた身体能力に驚いていた。
「僕も肩には自信があったんですけど、僕が全力で投げるくらいのボールを大谷は軽く投げていたんです。こういう選手がプロに行くのか、と思いましたね」
「メジャー行くん?」関西勢から容赦ない質問
高校日本代表は、その年の8月から9月にかけて韓国で行われるIBAF 18U世界野球選手権のために結成された。
代表には藤浪晋太郎ら、その年の夏の甲子園で優勝した大阪桐蔭高から4人、準優勝した光星学院(現・八戸学院光星)高からも北條史也、田村龍弘、城間竜兵と大阪出身者が多く選出され、その「関西ノリ」に浦和学院高の佐藤と笹川ら、他地域の選手たちは圧倒されていた。彼らは大谷に遠慮なく「メジャー行くん?」と尋ね、大谷は柔和な顔ではぐらかしていた。誰かの彼女の話題で盛り上がっても大谷は加わろうとせず、輪の外で聞いて笑っていた。
今でこそ「侍ジャパン」の名の下にU-18日本代表が組織されているが、当時は体制が整っていなかった。例年は夏の甲子園と国際大会の時期が重なっていたため、高校日本代表として世界選手権に臨めたのは2004年以来のことだった。
だからこそ、日本代表監督を務めた小倉全由(日大三高監督)は「負けられない」というプレッシャーを感じていた。
「しかし、甲子園で最後まで戦っていたメンバーが中心でしたから、疲労の残っている選手もいました。一方、大谷選手は岩手大会の決勝で負けて実戦から離れていたせいか、合宿から制球を乱す場面もあった。チーム全体にコンディション面で、不安がありましたね」
開幕戦、その不安は的中する。第1ラウンドのカナダ戦の先発マウンドに送られた大谷は、四球も絡んで4回途中3失点で降板。チームは一時逆転するも、延長10回、タイブレークで敗れた。
初戦の躓きにより、チームは固くなってしまった。第2ラウンドの初戦も、コロンビアによもやの完封負け。ますます追い詰められ、エースの藤浪に頼らざるを得なくなってしまう。韓国戦は藤浪の連投で勝利し、残すアメリカ戦に「勝てば決勝進出」という状況まで持ち込んだ。
「こんなもんですよ」発言にコーチが一喝
その間、大谷の登板はなく、4番打者として出場。柔らかい打撃で広角にヒットを飛ばしていたが、ホームランは出ず、コーチの大野康哉(当時は今治西高監督、現・松山商高監督)の目には、その素質からすれば物足りなく映った。
ミーティングで大野が「大谷、まだまだこんなもんじゃないだろう」と発破をかけると、大谷は「こんなもんですよ」とサラリと返した。大野が苦笑いで振り返る。
「思わず、『これだけのメンバーの中でジャパンの4番を任されているんだから、プライドを持てよ!』と一喝してしまいました。今思えば、あの謙虚さが決して現状に満足しない貪欲さを生んでいるのだと分かりますが」
運命のアメリカ戦、1点リードの7回に日本は藤浪を投入。負けられない試合の終盤をエースで逃げ切り、決勝は大谷に懸けるというのが小倉の算段だった。
しかし、ここで「事件」が起こる。日本の守備の乱れで無死二、三塁、一ゴロの間にアメリカの三塁走者が本塁に突入し、明らかにアウトのタイミングで捕手の森友哉に危険なタックルを見舞ったのだ。小柄な森は吹き飛んだ。ボールは死守したが、球場は異様な空気に包まれた。同点に追いつかれた後の本塁クロスプレーでも、身長190cm超の走者が再び森にタックルして勝ち越しの生還。日本は失点を重ね、そのうちに内野ゴロでは森を守るために本塁に送球しなくなり、ダメ押し点を献上して5対10で敗れた。
小倉の語気には、今も怒りが滲む。
「あのタックルで試合が終わっちゃいましたね。球審に『こんなことを許していたら死んじまうだろう』って言いましたよ」
優勝の夢は消え、翌朝に第1試合で5位決定戦を韓国と戦うことになった。
笹川が、当時の思いを吐露する。
「悔しいというより、タックルがなければ勝てたんじゃないかという思いがありました。正直、翌日の韓国戦はモチベーション維持が難しかったことを覚えています」
そんなチームにあって、先発の大谷だけは泰然としていた。夜の決勝戦に向けて準備していたはずだが、登板が朝になってもいつも通りマウンドに上がった。
「大谷が感情的になった場面はなかった」
佐藤はこの大会で出場機会が少なく、指名打者の大谷とベンチで過ごす時間が長かった。それだけに、同い年とは思えない大谷の冷静さに目を見張った。
「あのアメリカ戦も含めて、大谷が感情的になった場面はなかったんじゃないですかね。どんなときも平常心で自分のやるべきことをやる、という姿勢でした」
韓国戦の大谷は、打線の援護なく敗れて敗戦投手になったものの、最速155kmのストレートと切れ味鋭いスライダーで、7回12奪三振の快投を見せた。小倉は、開幕戦からの復調に舌を巻いた。
「調子が悪いときにどうすれば良いか、という修正点を持っている選手でした。制球に苦しんでいたのでアドバイスすることもあったんですが、『自分の方法があるので大丈夫です』と。やっぱり、器は群を抜いていましたよ。身体能力も、人としても素晴らしかったな。今、メジャーで発揮している実力の何分の一でも出してくれていたら、あの大会も優勝できたんだけど(笑)」
こうして大谷が初めて日の丸を背負って出場した国際大会は、6位という結果に終わった。
失意の中、韓国から帰国した関西国際空港で、チーム解散にあたって小倉は選手たちにこう声を掛けた。
「みんなはプロでも活躍できる。可能性は無限にあるんだから、また日本代表に選ばれるように頑張ってくれ」
この敗戦を糧に、また小倉の提言もあって、近年の高校日本代表は代表監督の常任化など、勝つための組織へと徐々に整備されてきた。
また、大会後に大谷は、日本のプロ野球を経ずにメジャーリーグに挑戦することを表明した。結局、日本ハムに入団することになったものの、小倉はこれこそが大谷の本質を表していると感じた。
「対戦したコロンビアは、みんな過酷なマイナーリーグからメジャーを目指していると聞きました。正直、レベルの高い選手ばかりではありませんでしたが、全員がそう言っていて、そのハングリーさに驚いたんです。日本の野球環境は彼らに比べたら遥かに恵まれているのに、大谷選手はそれでもメジャーに行くと言った。誰もやったことがないことに挑戦する、それこそが大谷翔平なんじゃないでしょうか」
「どんな女の子が好き、とか話した記憶がない」
あれから10年以上が経ち、笹川にとっても大谷とチームメイトとして戦ったことは良い思い出になっている。
「プロで活躍するだろうとは思いましたけど、まさかメジャーリーグのMVPになるとは。あのチームのエースは藤浪で、バッティングで一番目立っていたのは森でしたから。だけど、大谷だけは自分が将来、こうなることを分かっていたような気がするんですよね。それだけ落ち着いていたし、プライベートな話の痕跡を残していないんです。野球の話はよくしたけれど、どんな女の子が好きとか、そういう話をした記憶が悔しいくらいにありません(笑)」
そう笑う笹川は、大谷がメジャーに挑戦する少し前に食事を共にしたが、そのときも大谷は散財している様子がなく、酒も飲まずにその場を楽しんでいたという。
「話をしていて、すべてを野球に注いでいるんじゃないかと思えるほどでした。当時は『それで楽しいのかな』と思っちゃいましたけど、今、あれだけ投げて打って、楽しそうにやっている姿を見ると、こっちも嬉しくなりますよ」
高校では投打二刀流で活躍していた佐藤にとっても、大谷と過ごした時間は野球人生の大きな転機になった。
「合宿のブルペンで、大谷の隣で投げることがあったんです。そのときに格の違いを感じて、もう投げたくなかった(笑)。大学でも投打両方を評価してもらいましたけど、あの瞬間に投手には踏ん切りがついていたんです」
佐藤は立教大で打者として開花し、今もJR東日本で外野手としてプレーしている。笹川は東洋大で活躍し、現在は東京ガスで主将を務める。そして小倉はこの3月で、定年を機に日大三高の監督を退任する。
10年の時はさまざまなものを変えたが、彼らの大谷翔平の記憶は鮮明だ。
【初出:Sports Graphic Number1069号(2023年3月9日発売)】
文=高木遊
photograph by Getty Images