将棋の順位戦は各級で最終局を迎え、中村太地・新八段が前期からつづく昇級、そして自身初のA級昇級を決めた。ここ1年間の戦いぶりや最終局の羽生善治九段戦に敗れた際のリアルな感情、年明けから白熱の王将戦、棋王戦での藤井聡太五冠、渡辺明名人、羽生九段の戦いぶりについても聞いた(全2回/#2も)
3月の順位戦B級1組最終局の結果を受けて、来期A級への昇級を決めることができました。まず応援してくださった皆さんに心から感謝をお伝えするとともに……この1年間と最終局の羽生善治九段と戦った際の記憶について、残していければと思います。
まず将棋の順位戦について、少し説明します。棋士がそれぞれ「フリークラス・C2→C1→B2→B1→A」とピラミッド方式のカテゴリに分けられます。C2以上のそれぞれのクラスで年間通してリーグ戦が行われるのですが、A級で最上位の成績を残した棋士が次期名人戦の挑戦者の権利を手に入れます。今期は藤井聡太竜王と広瀬章人八段のプレーオフとなり、藤井竜王が勝利して渡辺明名人に挑むことになりましたね。もちろんA級以外に所属する棋士にとっても、棋士としての立ち位置が決まる重要な公式戦です。そして終盤戦には激しい昇級・残留争いが繰り広げられる戦いになり、A級最終局は「将棋界の一番長い日」とも評されています。
最終局の羽生九段戦は「絶対に大一番になりそうだな」
私は昨季B級2組から昇級して初めてのB級1組で、そもそもこのクラスは「鬼の棲家」と呼ばれるほど本当に強いメンバーばかり。さらに新参加ということで順位としても条件面が厳しい(注:今期B1は順位順に見ると、1位:羽生九段、2位:山崎隆之八段、3位:千田翔太七段……と続き、中村八段は12位だった)。だから順位戦が始まる前の段階では、正直なところ上を目指す戦いができるとは思っておらず、ただただまずはB1に残る、そして1局ずつを全力で過ごしていくだけと心がけていました。
ただ事前に発表される対局日程については、最終局が羽生九段だったので「これは絶対に大一番になりそうだな……」と予感していました。それは“自分の昇級がかかる”という意味ではなく、羽生九段の大一番なのだろうという意味合いが強かったのですが(笑)。
5連勝スタート後の初黒星、過去の教訓を生かしたとすれば
その中で順位戦、5連勝という予想もしていなかったスタートを切れました。「B1に残るためには5勝は必要かな」と考えていたので、そこを達成したことで安心感が生まれた。それとともに“また違う景色を見る戦いが今後できるのでは”と感じました。ただそんなにことは上手く運ぶわけはなく(苦笑)、次局で近藤誠也七段に負かされました。過去の順位戦でも出だしで調子が良くても勝ち星を積み重ねられないことがあったので、そこは同じ轍を踏まないようにしなければと引き締め直すきっかけとなりました。
何か過去の教訓を生かしたか、ですか? 順位戦も中盤辺りに差し掛かると「昇級、行けるのでは? 次に勝てば……」と捕らぬ狸の皮算用的なことを脳内で始めてしまうことが過去にあったんですが、それをせずに目の前の一局に注力するようにしました。あとこれは肉体面になるのですが、1〜2週間に一度ほど、パーソナルトレーニングを取り入れましたね。まずまずの負荷があるので、トレーニング時間は将棋のことを考える余裕すらありませんでしたが(笑)、トレーニングの最後に瞑想するなど、直接的ではないかもしれませんが、結果的にはすべてが将棋に繋がってきたのかなとも思います。
年が明けた終盤戦以降で痛感した課題とは
順位戦に話を戻すと、中盤戦以降もまた、とても厳しい戦いでした。特に近藤七段に敗れて迎えた次の相手は佐々木勇気・新八段でした。この時点で昇級を争いつつあるもの同士ということで、大きな一局になるかなと感じて臨みました。序盤は自分のペースで戦えていたんですが、そこからはさすが佐々木勇気八段というべき、決め手を与えない指し回しに形勢が二転三転し……最後は運よく私が勝ちを拾えました。この結果を受けて「これは生かしたいな」という思いを強くし、その後の郷田真隆九段戦や山崎隆之八段戦にも連勝することができましたね。
ただ年が明けて終盤戦に入ると、自分の課題を痛感する日々でした。1月12日の澤田真吾七段との対局に勝利すれば昇級、という事実はもちろん把握していました。そうなるとやはり「A級が目前になった。やっぱり上がりたい」という気持ちが加わってきて、少し空回りしてしまった部分も――中盤から終盤にかけて、形勢を押し返しながらも負けたという対局内容を振り返ると――あったなと感じています。
「気負いすぎるのは良くない」という気づき
その日の名古屋での対局は、佐々木勇気八段も同じ対局場で、澤田七段を含めて昇級を争う3人が一堂に会したのも強く記憶に残っています。先日の王将戦第6局の中継解説を務めた際、佐々木勇気さんが〈トップだった太地先生は相当、精神面で大変だったのでは〉とおっしゃってくださったそうです。確かに……追われる立場に、日常でつらさを感じることはありました。もちろん応援の声が多くなるのは嬉しいんですが「先生、昇級が見えましたね!」という声をいただくと、自分自身「は、はい!」と力が入ってしまうことも(笑)。ただそれも励みにしつつプレッシャーの中で戦える経験は、間違いなく棋士人生にとって実りある期間だったなと。
そして最後に控える2つの対局相手は、屋敷伸之九段と羽生九段というタイトル経験を持ち、抜群の経験値を持つ方々でした。B1は人数が少ない中で「昇級2人、降級3人」というレギュレーションがあります。最終局前後まで誰もが昇・降級に関わる熾烈なリーグ戦の中で、熟練のおふたりと戦う難しさを感じました。その中で屋敷戦は、序盤から屋敷九段から相当な準備を感じた難解な将棋だったんですが、何とか勝利を手繰り寄せた感覚でした。
澤田戦に負けてから自分の中で考えたのは「気負いすぎるのは良くない」ということです。その気持ちの持ちようが屋敷戦では上手くいったかなと。ただ……最後の羽生戦では「勝てば自力で昇級を決められる。絶対に勝とう」と臨んだ結果、見事なまでに羽生九段に打ち負かされるという(苦笑)。気持ちのバランスと言いましょうか、テンションが“かかりすぎない”ようにすること。これは今期順位戦を戦っての最大の学びだったと感じています。
完璧に仕上がった羽生九段と“米長哲学”
先に結果を話してしまいましたが、最終局、やはり羽生九段は強かったです。王将戦で藤井王将と大激闘を繰り広げている真っただ中で……全てが仕上がっている、まさにキレキレの将棋でした。一手一手に迫力を感じましたし、終盤戦はこちらに逆転勝ちを全く許さない、水滴1つこぼさないような鉄壁、鉄板の指し回しに恐ろしさすら感じました。
私の師匠である米長邦雄永世棋聖が口にしていた「米長哲学」を見せていただいたのかもしれません。「昇級・降級がかかっていなくても、相手の大事な一局であれば全力を尽くす」というものですが、その土台には「相手、さらに将棋に対する敬意」がありますし、こういった対局をおろそかにすると後々自分に跳ね返ってくる。長年の間トップで活躍されている羽生九段は、1局1局が本当に大きな意味を持つ事を知っている。本気で私を倒しに来られたんだなと痛感しました。
絶望感の中で救いだった感想戦、帰宅後鳴った電話
羽生九段に敗れた直後は……絶望感。ただただその感情しかありませんでした。将棋としても完敗で実力不足を突き付けられましたからね。ただ感想戦が始まってからは少し気持ちが救われたんです。
そこで羽生九段の読み筋を知り、「ここまで読んでいるのか」「この局面ではこういった手があったのか」と感じられた。さらに自分自身についても「個々の読みは正しくて、ここを今後はしっかりとしなければいけない部分だな」と純粋に盤面上での難しい局面を学び、いつもと同じように発見をできる時間を楽しめたんです。だからこの感想戦の時間が終わってほしくない、という。
とはいえ羽生九段は翌日に王将戦の前日検分があるなど移動を控えていましたし、私のことを気遣ってくれたのか、ある程度の時間で終了しました。そこからはまた絶望の時間帯です(笑)。対局後、とにかく家にすぐ帰りたかったですし、携帯電話も全く見ず、情報は遮断していました。他の対局結果に思いを馳せるのも何か違うのでは……という気持ちもありましたので。
その時点でLINEには「おつかれさまでした」と数多くの連絡が入っていたのは把握していました。申し訳なかったのですが、その時点で返信する気になれず。ある記者さんが「もし何かあればお電話差し上げてもいいでしょうか」とおっしゃって下さった――明言はしなかったですが、それが深夜になるかもしれず、さらに昇級した場合という意味での配慮を感じました――以外はただ時間が過ぎるだけでした。
次期A級では渡辺名人もしくは藤井竜王らと戦うわけですが
昇級の事実について知ったのは帰宅してスーツを脱いで、作業をしていたときでしょうか。電話が鳴ってお伝えいただいて……。その時の心境はただ「安堵」の一言で、喜びをかみしめました。
一番苦しかった期間を思い出すと、やはり最後の数カ月でしょうか。「A級に何が何でも上がりたい」という思いと裏腹に、自分に足りないところを突き付けられる日々は本当に苦しいものでした。ただYouTubeやSNSなどで励ましを受けるなど、期待を背負って戦える喜びについても感じられました。例えば日本列島を沸かせるWBCの侍ジャパンの方々はさらに大きな重圧がかかっているのでしょうが――そうやって勝負に臨めることの価値を、一棋士として改めてかみしめています。
私自身、A級に昇級するまで16年の年月を費やしました。順位戦の大変さを身に染みて感じるとともに、1つ1つ時間をかけながら上がっていくのは自分らしかったかなと思います。来期A級では、名人戦を戦われる渡辺名人もしくは藤井竜王とは確実に戦うことになりますし、そのほかにもトップ棋士の方々ばかりが名を連ねている……現在は少し休んでいる状態ですが、対局を想像すると背筋が凍ります(笑)。とはいえ彼らと戦うことで素晴らしい棋譜を残し、そして勝ちを積み重ねることこそがプロ棋士としての使命と思うので、ぜひ引き続き応援をいただければ幸いです。
その渡辺名人や藤井竜王、そして順位戦で戦った羽生九段が各タイトル戦で見せた激闘も素晴らしかったですよね。お三方の将棋を中心に、もう少し話を続けられればと思います。
<#2「藤井・羽生・渡辺将棋の凄み」編につづく>
文=中村太地
photograph by Nanae Suzuki